第54話「全員の後ろ」
村を出た丘の下で商隊が待っていた。
荷馬車が三台。
往路で村まで運んだ塩と鉄器はもう降ろされ、代わりに村の産物が積まれている。
干した豆、干した果実、なめした革。晩秋の村がそっくり荷台に載っていた。
そのぶん荷は重く、馬の足はいくらか遅い。
御者と商人で六人。
行きと同じで足の遅い年寄りが一人いる。
「おう、来たか。帰りも頼むよ」
商隊主がそう言って隊の先頭を僕に空けた。
往路で引いた配置を今度は逆向きに組み直す。
ナギは先。足が速いから隊の先で道を見てもらうのがいちばん効く。
セナは後ろ。隊の尻尾が伸びた時に締められるのはやっぱりセナだ。
レオは荷台のいちばん後ろ。
ルナ叔母さんも行きと同じ荷台に乗り込んだ。
母さんの薬を村へ運んだのも叔母さんの乗るこの荷だった。
僕は真ん中の荷台の脇について全体の流れを見る。
こうして復路が始まった。
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四日目の朝は霜が残っていた。
車輪の跡が黒く濡れ、馬の鼻から白い息が立つ。
復路に入って三日の間に指揮の感じは体に馴染んできた。
誰がどこにいて、次に何が要るか。
頭で並べる前に目が隊の長さを測っている。
「あんた、行きもそうだったが、本当によく先を見てるな」
「道は変わらないので。一度通れば次は覚えてます」
「覚えててもこうは動かんよ。普通は」
そう言って商隊主は隊の真ん中へ目をやった。
中ほどの荷馬車に年寄りが乗っている。
歩くのが遅いから荷台に乗ってもらうことが多い。
それでも荷台がいつも空いているわけじゃない。
従者が交代で休む区間や登り坂なんかでは、年寄りにも自分の足で歩いてもらう。
そうなると、どうしても隊の足は落ちる。
行きからずっと隊の速さはこの人に合わせてきた。
「いちばん遅い人に合わせるのが、結局いちばん速いんです」
「……そういうもんかね」
「たぶん、普通のことだと思います」
商隊主が短く笑った。
笑いながらも、僕が朝に引いた今日の道順をもう一度覗き込んでいる。
年寄りが荷台から僕に頭を下げた。
気を遣わせて悪いね、と目だけで言っていた。
僕は首を振り馬の歩幅に合わせて隊の間を詰めた。
一人が遅いのは隊にとって弱みだけじゃない。
合わせる先がはっきりしているぶん、かえって乱れにくい。
レオは荷台からその様子を見ている。何を言うでもない。
ただ、僕が御者に何か言うたびにその目がわずかに動いた。
夜の火のそばでもその目はこうして動いていた。
前からナギが駆け戻ってきた。
「リク。この先に森が一つ。行きに通った難所だよ」
「うん。覚えてる。沢のあるところだね」
「水の音が行きより大きい気がするよ」
ナギはそれだけ言って、また前へ出ていった。
水の音。
帳面の一行が頭の隅で小さく引っかかった。
あの沢は、何かあった時に荷と人を寄せる場所に決めてある。
森に入る手前で隊を一度止めた。
「ここから先は見通しが利きません。
隊列を詰めます。荷は真ん中、間を空けないでください。
何かあれば僕の声に合わせて動いてください」
御者たちが頷く。
行きにも同じことを言った。あの時は何も起きなかった。
起きなかったのは、起きないように線を引いたからだ。
その線を確かめに、先に沢へ降りた。
水際まで来て息が止まった。
沢が濁って膨らんでいる。
昨日の冷たい雨が上のほうでは雪に近かったのかもしれない。
行きに馬車を渡した丸木の橋は、もう橋板の半ばまで水を被っていた。
ここは何かあった時に荷と人を寄せる場所に決めてあった。
橋のたもとで、細い森の道がひとかたまりになれる数少ない開けた場所だ。
そのつもりが、いま水に呑まれている。
線を引き直す。
来た道を少し戻ったところに岩の陰になった窪みがあった。
広くはない。けれど荷と人を入れて馬を落ち着かせておける。
寄せるならあそこだ。
頭の中の地図にもう一本の線を引いた。
隊列へ戻ると、ナギが森の際で足を止めていた。
「リク」
声が低い。
「いる。数は、ざっと二十」
晩秋は餌の薄い時期だ。
獣が低いところまで降りてくる。
行きにいなかったものが帰りにいる。
道は変わらなくても、道の上にいるものまで同じとは限らない。
群れが森の影から滲み出してきた。
角の張った、犬より一回り大きい獣。
目だけがこちらの数を測っている。
速くはない。一頭ならナギが息もつかずに片付ける。
ただ、二十頭が隊の横腹へ回り込もうとゆっくり散開し始めていた。
狙いは中ほどだ。
荷と身を守れない年寄り。隊のいちばん柔らかいところ。
剣を抜くまでもない場面、とは言えなかった。
でも、抜いて前に出るのは僕の役目じゃない。
僕の役目は抜く者を正しい場所に置くことだ。
「ナギ」
前を見たまま名前を呼んだ。
「右の五頭から。そこが崩れると群れが横に流れる。
片付けたら中央へ戻って。数える間に戻れる場所までしか出ないで」
「……いいねえ、その頼み方」
笑った気配がしてナギが消えた。
初速は見えない。
見えるのは踏み込みの前までで、その先はもう結果だけが届く。
春からの手合わせで、僕はナギの速さを覚えている。
端から端まで幾つ数える間に届くか、何度も負けながら帳面に書いてきた。
右の五頭は声もなく崩れた。
「セナ」
後ろへ。
「年寄りの馬を、御者ごと岩のほうへ。
群れがそっちへ向いたら出ていい。出る形はセナに任せる」
「ん。任された」
セナは聞き返さなかった。
昨日まで横に並んでいた相手に配置を頼むのはまだ少し据わりが悪い。
けれど、セナはもう動いていた。
僕が次に何を言うか半分先で読んでいる。
二年も隣で同じ道を歩いた相手だ。
線を一本渡せばその先はセナが勝手に引いてくれる。
僕は荷の脇に戻り、御者たちに逃がす先を指で示した。
「慌てないで。あの岩まで順番に。前の馬から」
一頭ずつ。詰まらせない。
速く動かそうとすると必ずどこかで馬が絡む。
ゆっくり、確実に、いちばん遅い荷から先に通す。
群れの一部が退いていく荷を追って横へ流れた。
そこまでは読みのうちだ。
想定になかったのは、別の数頭がその岩場へ先に回り込んだこと。
あそこを塞がれれば逃がす先がなくなる。
僕が口を開く前にセナが動いていた。
指示は出していない。
それでもセナは、僕が次に塞ぎたい場所へ先に剣を置いていた。
流れた獣の鼻先を正面から止める。
追ってきた数頭がそこで揃って足を止めた。
セナの背中が岩場と群れのあいだに壁のように残っている。
中央へ戻ったナギが残りを森へ追い返していく。
僕は声を出し続けた。
退け、待て、その馬を先に、と。
剣は一度も抜かなかった。
抜かなくても隊は動いていた。
最後の荷が岩陰に収まった時、群れは森の奥へ引いていた。
追ってはこない。餌の薄い時期の獣は手間のかかる相手に長く付き合わない。
御者も商人も全員無事だった。
年寄りも、馬も、荷も。欠けはなかった。
レオが荷台で腰を浮かせかけた姿勢のままゆっくり座り直した。
最後まで手は出さなかった。
出る場所がなかった、という顔で僕を見ている。
御者の一人が震える手で水袋の栓を開けている。
年寄りは何も言わず、自分の膝を両手で押さえていた。
しばらくして顔を上げ、僕に向かって小さく手を合わせた。
誰も欠けていない。
それだけのことが、いまはやけに大きく感じる。
商隊主が岩に守られた隊を見回して短く息を吐いた。
「剣も抜かずに二十頭を追い返しちまった」
「追い返したのはナギとセナです。僕は段取りをしただけなので」
「その段取りで全員が生きてる。普通はできないことだ」
妙な感覚だった。
さっきの数呼吸のあいだ、決めたことは全部、僕のものだった。
どこへ退くか。誰を先に出すか。ナギをいつ戻すか。
確かめる相手はいなかった。
間違えれば止まるのは僕一人じゃない。
後ろに誰もいない、とは思わなかった。
全員の後ろに僕がいた。
御者の後ろ、年寄りの後ろ、ナギの後ろ、セナの後ろ。
誰かが転んでも拾える場所にずっと立っていた。
それは怖くなかった。
怖くないことのほうが自分でも意外だった。
ただ。セナが年寄りの馬の汗を拭いてやるのを見て思った。
セナがいてよかった。
僕が配置を間違えてもセナなら半歩で直してくれる。
全部、自分のものだった。
それと、セナがいた方がもっとうまくできた。
どちらも本当のことだった。
ナギが剣を拭きながら戻ってきた。
「キミの指揮、見てて飽きないよ」
「普通にやってるだけだよ」
「うん。そこがいちばん飽きない」
帽子のつばの下で目がまだ笑っている。
ナギは何か言いかけ、やめて、ただ僕の隣に腰を下ろした。
懐の帳面に今日の一行を増やすつもりなのかもしれない。
僕も増やすつもりだった。
獲り方ではなく、退き方を。
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その日の夜は、岩陰を出た開けた場所で野営した。
昼の疲れが残っていて皆が早めに横になる。
火の番には僕が残った。ナギとセナは先に休んでいる。
レオは少し離れて、寝息を立てながら眠ってはいない。
薪を足したところでルナ叔母さんが隣に腰を下ろした。
行きの夜と同じ並びだ。
あの時は村へ向かう火だった。
今度は村を離れる火だ。
火に向けた膝から先だけが熱を持って、背中には夜気が貼りついている。
「今日はよくやったね」
「皆が無事だったので」
「無事に済ませるのがいちばん難しいんだよ。あんたはそれを当たり前みたいにやる」
ルナが火に手をかざした。
火明かりが受付では見ない横顔を浮かべている。
しばらく薪のはぜる音だけが続いた。
聞くなら今しかない。
「叔母さん」
「ん」
「薬代って、足りてますか」
ルナの手が火の上で一度止まった。
「……藪から棒だね」
「ずっと気になってて。
母さんの薬は安いものじゃないはずなので。
僕たちがテルナで稼いだぶんだけじゃ、足りないと思うんです」
ルナはしばらく答えなかった。
「あんたが稼いだぶんと、こっちで都合つけてるぶん。
順番にやってるよ。足りてる」
「こっち、っていうのは」
「気にしなさんな。今はね」
火の粉が夜の上のほうへ昇って消えた。
ぼかされた、と分かった。
僕の帳面はたいていの欄が数字で埋まる。
依頼の報酬。薬の値。村への便の料金。
入ってくるものと出ていくものを並べれば、たいていの先は読める。
けれど、薬代の出所の欄だけはずっと空いたままだ。
誰かが僕の見えないところで足している。
誰が、どれだけ、というところが埋まらない。
「叔母さん。僕、自分のぶんは自分でやりたいんです」
「分かってる」
ルナがこちらを見た。
「でもね、リク。あんたはあんたのぶんをやればいい。
母さんもきっと似たことを言うよ。
背負わなくていいところまで背負おうとするのは筋が違う」
昼間、全員の後ろを持てた気でいた。
御者の後ろも、年寄りの後ろも、僕が立って拾えた。
なのに、自分の母さんの薬の後ろだけは、誰が立っているのか見えない。
見えないまま僕はそれに守られている。
「……それも、誰かのぶんなんですね」
「そう。順番だ」
ルナはそれだけ言って火に向き直った。
火の向こうの暗がりに来た道がある。
母さんの薬の出所が見えないのと変わらない。
テルナのさらに東、いつか移るかもしれない街に何が待つのかもまだ見えない。
見えない欄が僕の帳面には二つある。
どちらも、いまの僕には埋められない。
埋められない欄を抱えたまま、僕はテルナへ帰っていく。
火が熾に変わり、暗がりの東がほんの少し白み始めていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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