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第53話「薬の届く家」

朝、台所に母さんが立っていた。


鍋から湯気が上がっている。

匙で中をかき混ぜる手に迷いがない。

竈の火が小さく爆ぜて、煮えた豆の匂いが部屋に満ちる。

窓から入る朝の光が母さんの肩のあたりで埃を白く照らしていた。


二年前の朝、ここに立っていたのは父さんだった。

母さんが寝込んで、父さんは慣れない手つきで鍋を傾けていた。


今は母さんがいる。

戸口に足が止まった。


「あら。早いのね」


母さんが振り向いた。

匙を鍋の縁に置いて棚から僕のぶんの椀を取る。

背の伸びた僕よりずいぶん低い。

鍋を覗き、塩を一つまみ落とし、また蓋を戻す。

手順が体に染みついた人の動きだ。


「顔を洗ってらっしゃい。すぐできるから」


井戸で手と顔を洗って戻ると、卓に椀が二つ並んでいた。

湯気の立つ豆の煮込みと、薄く切った黒パン。

村にいた頃から変わらない朝の卓だ。


昨日の夜に決めたことがあった。

東の街へ移る話を、いちばん先に母さんへ言う。

顔を見て言う。


二年前はそれをしなかった。

父さんには「街へ行く」と言った。

母さんには何も言えないまま、熱で寝ている手を握って出ていった。


椀を受け取りながら切り出した。


「母さん」

「ん」

「しばらく、東の街に行くことになると思う」


母さんの手が止まる。

椀を渡しかけたまま僕を見ている。


「クレウスっていう大きい街なんだ。

テルナよりずっと人が多くて依頼も多い。

そこにしばらく拠点を移すことになりそうで」


母さんはすぐには何も言わなかった。

椀を卓に置いて火を弱める。


「遠いの?」

「テルナからもう少し東。

でも便はある。薬も手紙も今まで通り届くよ」


母さんがいちばん気にするのはそこだ。

だから先に言った。


「そう」


母さんはそれだけ言って、また鍋へ向き直る。

背中が何かを確かめるように動かない。


「行く理由は、依頼だけ?」


聞かれて言葉に詰まった。

嘘はつきたくなかった。


「半分は依頼。

半分は、母さんのため」


母さんの肩が動いた。


「前に一度クレウスに行った。

そこで会った薬師が母さんと同じ病を覚えてたんだ。

昔、症状の出なかった人を一人だけ診たって」


地脈の病は抑えるしかない。

どの医者も口を揃えてそう言った。


ただ一人、川沿いの古い店の老薬師だけが別の一行をくれた。

北の生まれの、症状の出なかった男。

本だらけの店で薬研を挽きながらそう言った。


「腰を据えて探せばもっと分かるかもしれない。

すぐにってわけにはいかないけど」


母さんは長く黙っていた。

それから火を止めて振り返る。


「無理はしないで」

「うん」

「あなたが決めたなら、それでいい。それだけ」


母さんの目が潤んでいた。

でも泣いてはいなかった。


卓の上の小さな布包みを母さんが開いて見せた。

薄く灰がかった粉。ルナ叔母さんが昨日届けた薬だ。

母さんはそれを毎朝白湯で飲む。

これを切らさないために僕はテルナで稼いできた。


「これのおかげで台所に立てる」


母さんが包みをそっと閉じる。


「前はそれも無理だったから」


湯気の向こうで母さんがほほえむ。

匙の音と薪の爆ぜる音だけが台所に続いた。


二人で朝の食卓につくのは二年ぶりだ。

豆の煮込みは記憶のままの味がした。


昔から朝はあまり喋らない家だった。

それでも、向かいに母さんがいる。


母さんは時折僕の椀に豆を足した。

子供の頃と同じ手つきだった。

僕は黒パンを千切って、ゆっくり食べた。


---


朝食のあと、アーシャさんが来た。


セナも一緒だ。

手に薬箱を提げている。

村にいた頃、何度も見た古い木の箱だ。


「熱は?」

「このところないわ」

「夜中の咳は」

「ずいぶん減った」


アーシャさんは母さんの脈を取り、まぶたの裏を覗く。

首筋に触れ、息の音を確かめる。

手つきに迷いがない。

医師の顔と幼馴染の母親の顔が半分ずつ混じっている。


「いいわね。去年よりずっといい」


アーシャさんが母さんの手首から指を離した。


「脈も半年前よりしっかりしてる。

治る病じゃないけど、付き合っていける病ではあるわ。

薬を切らさなければ」


セナが薬箱を開けて中の包みを数えはじめた。

慣れた手つきだ。

アーシャさんの手伝いをしていた頃を思い出す。


「次の便まで足りそう?」

「足りるわ。あなたとリクがちゃんと送ってくれるから」


セナは頷いて、包みの数を箱の蓋の裏に書きつける。

「ちゃんと続けてね」と母さんに念を押すのは、町では見せない村の娘の顔だ。

その横顔は薬箱を覗くアーシャさんによく似ていた。


アーシャさんが薬箱の蓋を閉じて、母さんの肩に手を置いた。


「無理に動くんじゃないわよ。調子がいいと、つい畑に出たくなるんだから」

「見てたの」

「あんたのことは昔から見てるわ」


母さんが小さく笑った。


熱を出した夜に僕を覗き込んでいたのも、アーシャさんだった。

僕が村を離れているあいだ、母さんの傍にいたのは、この人たちだ。


---


昼前、鍛冶場に父さんを訪ねた。


戸口から熱が流れてくる。炭の匂いと焼けた鉄の匂い。

壁には鎚と鑢があの頃と同じ場所に掛かっていた。


父さんは火の前で赤い鉄を打っている。

鉄を水に沈めると短い音が鳴って白い湯気が上がった。


「父さん」

「ああ」

「東の街にしばらく移ることになる。クレウスっていう大きい街」


父さんは鎚を止めない。

鉄を火に戻すと炎が一度ふくらむ。


「そうか」


二年前もそうだった。

でも今度は続きがある。


父さんは鎚を置いて、台から細い包みを取る。

布を開くと研ぎ上がった小刀が出てきた。

昨日、台の上で見た研ぎかけの刃だ。

柄がちょうど僕の手に合う大きさにしてある。


「持っていけ」


受け取ると、思ったより軽かった。

刃の収まりがよくて手のひらに馴染む。

誰のために打っているのか、昨日は聞かなかった。

聞かなくてももう分かっていた。


「ありがとう」

「剣を抜くまでもない時に使え。旅はそういう時のほうが多い」


父さんはそれだけ言ってまた火に向かう。

背中が一回り薄い。

鎚を振る音だけは、昔のままだ。


鍛冶場を出るとヴァルドおじさんが庭にいた。

薪を割る手を止めてこっちを見る。


「東へ行くんだってな」

「はい」

「段取りは型になったか」


手紙の言葉だ。

考えなくても体が動くところまで積め、と書いてあった。


「まだ積んでる途中です」

「そうか」


ヴァルドおじさんは笑った。


「途中だと言えるうちは大丈夫だ。止まった奴は積んでるとも言わなくなる」


「飯は食ってるか」

「食ってます。普通に」

「お前は昔からそれだな」


母さんを送って、アーシャさんも外に出てきた。

僕とセナを見て口を開く。


「リク。セナを……」


そこで言葉を止めて笑った。


「いえ。あなたに頼むことじゃないわね。セナのほうが先輩だった」


セナがばつの悪そうな顔をする。

僕も、何と返していいか分からなかった。


---


その日の夕方、ヴァルドおじさんに呼ばれた。


家の裏の刈り入れの済んだ畑だ。

木剣が二本、地面に転がっている。


「一本、付き合え」

「いいんですか」

「型を教えた相手が町でどう戦ってるのか、見ておきたい」


ヴァルドおじさんは元冒険者だ。

村に戻ってからは畑と見回りばかりだが、構えると気配が変わる。

背筋が伸びて、肩から余分な力が抜ける。


向かい合うと間合いが分かった。

速さでは敵わない。力でも敵わない。

ただ、ヴァルドおじさんの型は知っている。

子供の頃に七日かけて体へ入れた型だ。


打ち込んでくる軌道が記憶のとおりだった。

半歩引いていなす。

木剣がぶつかって、乾いた音が畑に響く。

次の手も覚えていた。


「ほう」


ヴァルドおじさんの口元が動く。


剣を交えながら相手の癖を拾っていく。

踏み込む前に左の肩がわずかに落ちる。

それは昔から変わらない。

読めれば避けられる。


ナギの癖もそうやって一つずつ帳面に書いて覚えた。

書いたものは、いつかこうして体が勝手に使う。


一度、わざと右を開けてみた。

ヴァルドおじさんの剣が、そこへ吸い込まれるように来る。


読み通りだ。

来ると分かっていれば、体は遅れない。

受けて、流して、こちらから間合いを詰めた。


何度目かの打ち合いで、僕の木剣がヴァルドおじさんの脇に触れた。

ほんの、かすめただけだ。


ヴァルドおじさんが剣を引いた。

息は乱れていない。それでも、目の色が少し変わっていた。


「型を教えた時とは別物だな」

「型を、崩しただけです」

「いや」


ヴァルドおじさんは木剣を肩に担いだ。


「崩したんじゃない。積んだ上に、別のものを積んだんだ。

ナギってのと打ち合ってるそうだな。

そいつにも、いつかこうやって一本取るんだろう」


もう取った、とは言わなかった。

言わなくてもヴァルドおじさんはきっと見抜いている。


夕日が畑の刈り跡を赤く染めていた。

木剣を返すとヴァルドおじさんは僕の肩を一度だけ叩いた。

二年前、旅立ちの朝にセナの肩へ置いたのと同じ手だ。


---


商隊と合流するために、村を発つ朝が来た。


霧はなかった。空が高く、刈り跡の畝まではっきり見える。

朝の土の匂いが足元から立っていた。

どの家の煙突からも細い煙がまっすぐ昇っている。


家の前に皆が出ていた。

父さん、母さん、ヴァルドおじさん、アーシャさん。

ルナ叔母さんも荷をまとめて隣に立っている。

叔母さんはテルナまで一緒に戻る。


母さんが僕の前に立った。


「行ってらっしゃい」


二年前は、言えなかった言葉だ。


「いってきます」


母さんが頷く。

それ以上は何も言わない。

言わなくても伝わるものがあった。


セナがヴァルドおじさんとアーシャさんに頭を下げる。


「お父さん、お母さん。行ってくる」

「ああ」

「気をつけて」


セナが頷くと、母さんがセナに対してももう一言。


「セナちゃん、リクのこともお願いね」

「先輩だから、私が」


セナがそう言うと、ヴァルドおじさんが笑った。


村の道を歩き出す。

セナが隣にいる。

叔母さんが数歩後ろからついてくる。テルナまでは一緒の道だ。

背の荷を負い直す音が、後ろで一度した。


畑の脇で、カルとレムが鍬を立てて手を上げた。

昨日見た土のついた手だ。

僕も手を上げて応える。


子供の頃に何百回も通った道だ。

道幅も両脇の柵も昔のまま。

収穫を終えた畑が朝の光の中で静かに広がっている。

後ろから何人ぶんもの足音がついてくる。


丘の手前で足を止めて、振り返った。


二年前は振り返らなかった。

振り返るのは、薬を持って戻ってきた時でいいと決めていた。


今は振り返れる。


家の前で皆がまだこっちを見ていた。

煙が一本、屋根から立ちのぼっている。

母さんが小さく手を振った。

僕も手を上げた。


「行こう」


セナが言った。


「うん」


丘を越えればもう村は見えない。

東の街で何が待っているのかはまだ知らない。


それでも、足は止まらなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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