第52話「ゼロの村」
街道を西に七日目の朝、目的の集落にたどり着いた。
依頼は西の集落まで往復する商隊の護衛で、戻りの荷をまとめる数日はその集落に留まる。
その数日間、僕達は商隊を一時的に離れて村へ向かう段取りだ。
荷を下ろして商人に挨拶をしてから僕たちは隊を離れた。
ナギとレオは隊に残った。村まで来る理由はない。
商隊に何かが起きた場合の対応はナギに伝えてある。
「気をつけてな」とレオが言って、ナギは帽子の庇を下げた。
村への道はルナ叔母さんも一緒だった。背負った荷に村へ届ける薬が入っている。
受付台にいる時と歩き方が違う。肩の力が抜けて足の運びが緩い。
集落から村までは半日もかからない。
子供の足でも歩ける道だ。今は荷を背負っても息が上がらない。
街道の土が途中から見覚えのある赤に変わった。
林の匂いに枯れ草と土が混じる。
風がもう冷たい。秋が深い。
丘を一つ越えると、麦を刈ったあとの畑が斜面に広がっていた。
刈り跡の畝に夕方前の陽が斜めに落ちて影が長い。
家が50ほど。林に囲まれて煙が2、3本。
刈り入れの済んだ畑に麦を積んだ小山がいくつも残っている。
冬を越すための蓄えだ。何も変わっていない。
二年前の朝、僕はこの景色に背を向けて歩き出した。
霧が低くて畑の縁も屋根も輪郭が溶けていた。
あの時は振り返らなかった。振り返るのは薬を持って戻る時でいいと、そう決めていた。
今は霧がない。
「帰ってきたね」
「うん」
セナの足が僕より半歩だけ前に出ている。
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村に入る道の脇で、二人の男が畑の畝を均していた。
一人が顔を上げて手を止める。
泥のついた頬で目を細めて口を開けた。
「……リク?」
声の主は同い年のカルだ。
背が伸びて肩が厚くなって別人みたいだ。声だけが昔のまま。
子供の頃、畑で毎日のように顔を合わせた相手だった。
「リクだ。レム、リクだぞ」
「嘘だろ」
レムが鍬に体を預けて腰を伸ばす。ひとつ上で顎に短い髭があった。
二人とも腕が日に焼けて、手の甲に乾いた土がこびりついている。
足元には掘り返したばかりの芋が並んでいた。冬支度の最中だ。
「生きてたのか」
「そりゃあ生きてるよ」
「冒険者になったって、おばさんから聞いてたけどな」
カルが鍬を畝に立てかけてまじまじと僕を見た。
「本当になったんだ」
「うん」
「魔物とか出るんだろ、そういうとこ」
「出る時は出る」
「で」
カルが言葉を切る。
「食えてるのか、それ」
敵意でも感心でもない。
今年の畑はどうだ、と聞くのと同じ口ぶり。
「食えてるよ。普通に」
「普通にって」レムが笑う。
「お前、昔っからそれだな」
レムは去年所帯を持ったという。カルは畑を一枚任された。
畝の間に二人ぶんの足跡が深く残っている。
二人とも村に根を張っている。僕はとうにその輪の外に出ていた。
「水、まだあれやってんのか」
「あれ?」
「布で包むやつ。昼まで冷たいって、あれだけは真似したな。夏は助かってるよ」
回し飲みが嫌でカップを持っていったのも、水を布で巻いたのも、僕には当たり前だったが二人には違ったらしい。
セナが後ろから来ると、レムが「おっ」と声を上げた。
「セナちゃんも一緒か」
「久しぶり」
「相変わらず別嬪だな」
セナは何も言わずに頭を下げた。口の端だけが動いている。
「親父さんのとこ、もう寄ったか」
「これから」
「行ってやれよ。おばさん、ずっと待ってたぞ」
カルの声がふいに低くなった。
「ありがとう」
「礼を言うことかよ」
カルはまた鍬を取った。
先が乾いた土を割って、湿った黒い土が返る。迷いのない腕だった。
二人の声が畑の向こうへ遠ざかる。
子供の頃に何百回も通った道を僕とセナは歩いた。
道幅も両脇の柵も昔のまま。
分かれ道で「じゃあ、こっち」とセナが自分の家のほうへ折れた。
僕も自分の家へ向かった。
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家は記憶のままの場所に建っていた。
庭の隅に父さんの薪が高く積んである。
井戸の縁は、僕の背がまだ届かなかった頃と同じ高さだ。
戸の建て付けが下がっている。
父さんが直さないわけがないから、手の回らない時期があったのだろう。
戸を開ける前に中から音がした。
鍋を火にかける音。木の匙が縁に当たる音。
煮えた野菜の匂いが戸の隙間から漏れていた。
「母さん」
呼んだ声は自分でも思ったより掠れた。
音が止まる。
母さんが振り返る。
僕を見て、手の匙をそっと鍋の縁に置いた。
口を開けかけて何も言わない。
二年で母さんは小さくなった。髪に白いものが増えて、手首が記憶よりずっと細い。
それでも、村を出た朝より頬に赤みがある。
「……おかえり」
ようやく出た声は思っていたよりしっかりしていた。
二年ぶりなのに、ついこの前も同じ台所で顔を合わせたような近さ。
「歩いて出てきていいの」
「いい日も増えたのよ」
母さんは自分の手のひらを見た。
「台所に立てる日がある。前はそれも無理だったから」
窓から入る夕方の光が竈の前の背中を縁取っている。
あの部屋の暗さを覚えている僕には、その背中がまぶしかった。
母さんが近づいて僕の顔を見上げる。
畑から帰った僕に「楽しかった?」と聞いた頃の目だった。
「大きくなった」
「うん」
「……ちゃんと食べてるのね」
「食べてるよ。普通に」
母さんが笑う。目尻に皺が寄った。
母さんが僕の手を取って両手で包む。
細い指だった。村を出る朝に握り返してきた指よりまだ細い。
それでも温かい。手のひらに竈の火の熱がうつっている。
僕も握り返した。今は僕の手のほうが大きかった。
「手、洗った?」
思わず笑った。
手を洗う。水を浴びる。古い水は飲まない。
村にいた頃から母さんが欠かさない決まりだ。
町でも僕は同じことをしている。なぜなのかは自分でもわからない。
「洗ってから来た」
「いい子」
ゼロだと言われた日、母さんは広場の隅で泣くのをこらえていた。
その母さんが今は台所に立って、僕の手が洗ってあるかを聞いている。
母さんは僕の手を離してまた鍋に向かった。
「今夜はたくさん作るからね。冒険者なんだから、ちゃんと食べないと」
僕が手伝おうとすると「座ってなさい」と押し戻された。
その手には思ったより力がある。
湯気が顔にかかって、その向こうでほほえんでいる。
「父さんは」
「鍛冶場。ずっと何か打ってるわ」
庭の向こうから低い音が規則正しく聞こえていた。
あの朝、止まらなかった鎚の音だ。
僕は荷を置いて鍛冶場へ回った。
戸口から熱が流れてくる。炭の匂いと焼けた鉄の匂い。
壁の鎚も鑢も、僕が村にいた頃と同じ場所に掛かっていた。
父さんは火の前にいた。
こちらを見ない。鎚を振る手を止めない。
赤い鉄を打って水に沈め、また火に戻す。水が短く鳴って白い湯気が上がった。
背中が二年前より一回り薄い。それでも鎚を振る音は昔のままだ。
「ただいま」
父さんの手が一度だけ止まって、また動き出す。
「……戻ったか」
「うん」
父さんが顔を上げた。
腕を見て、肩を見て、腰の剣を見る。
鉄の善し悪しを確かめる時の目だった。
何も言わない。でも、見ている。
あの診断の日、父さんは僕の足元に目を落として「すまない」と呟いた。
今は僕の手を見ている。剣の柄でできた胼胝を。
父さんが手を伸ばして、僕の腰の剣に触れた。鞘を払い、刃を灯りに透かす。
刃ではなく、握りの跡のついた柄を、しばらく見つめていた。
しばらくして、「悪くない」とだけ言って返してきた。
台の上に細い刃物が一本あった。
研ぎかけの小刀だ。刃はまだ曇って、柄が小さく子供の手に合わせてある。
誰のために打っているのか、僕は聞かなかった。
「飯は」
「家で。母さんが、皆呼ぶって」
「そうか」
父さんは鉄を火に入れた。炎が一度ふくらむ。
口の端がわずかに動く。黒パンを僕の皿に乗せてくれた、あの頃のままの動きだ。
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鍛冶場を出て村の道を歩いた。
夕方が近い。家々の窓に、一つ、また一つと灯りがともり始める。
畑から戻る人とすれ違う。鍬を担いだ肩。籠を背負った背中。どれも見覚えのある後ろ姿だ。
何人かが足を止めて「リクか」「大きくなって」と声をかけてくる。
ゼロだと知れ渡ったあの秋、村の人は僕から距離を取った。
すれ違っても言いかけて、頭を下げて通り過ぎた。
今は声をかけてくる。腰の板が一枚、あの頃と僕を分けている。
広場の隅で小さい子が数人しゃがんでいた。
平らな石を囲んで両手を当てる真似をしている。
一人が「光った」と言って、ほかの子が笑った。
「今年の診断はこの前終わったよ」
通りかかったベルトおじさんが言った。
隣の畑の主で、昔トビ豆の収穫を手伝った人だ。
腰は曲がったが肩はまだ厚い。
「あの子らは来年だ。今から練習してるんだとさ」
「そうですか」
石に手を当てれば数字が出る。ゼロなら、誰も何も言えなくなる。
僕の時がそうだった。今は列の外からその真似ごとを見ている。
「リク」
「はい」
「よくやってるそうだな」
「普通にやってるだけです」
ベルトおじさんは笑った。
「お前は昔からそれだ」
長老の家の前で、縁側に老人が座っていた。
膝に薄い毛布をかけて夕日のほうを向いている。
2年前、テルナへの道順を教えてくれた。人の通る道を選べ、獣道に入るな、と言われた。
頭を下げると、老人は頷いて何も言わなかった。
日が傾いて畑の影が村を覆い始める。どの家からも夕飯の匂いがした。
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夜、家で夕食になった。
母さんが作ると言って聞かず、アーシャさんとルナ叔母さんが横で手を貸した。
狭い卓に皿が並ぶ。豆の煮込みと焼いた川魚と黒パン。
灯りが一つ、真ん中で揺れている。
父さんとヴァルドおじさんが向かい合う。小さな家に、いつになく人が多かった。
アーシャさんが鍋から皿によそう。手つきに医者の落ち着きがある。
そのアーシャさんがセナに「ちゃんと寝てるの」と聞いている。
「寝てるよ」とセナが顔をしかめた。町では見せない、子供じみた口調だった。
それからセナは母さんのほうを見て、「おばさん、前より顔色いいね」と言った。
「セナちゃんのおかげよ」と母さんが返す。
二年前のあの夜、アーシャさんは僕に「一人で行くつもり?」と聞いた。
僕は答えられなかった。今は隣にセナがいる。
ヴァルドおじさんが昔の依頼の話を始めた。何度も聞いた話だ。
父さんは相槌だけ打って、目元をゆるめている。
ルナ叔母さんは村の誰それの近況を母さんに伝える。
母さんがいちいち驚いてみせる。
僕とセナは、その間にはさまって黙って食べた。
子供の頃から、親たちの話を聞くのはこの並びだった。
僕は匙を取った。豆の煮込みは村の味だった。
卓の上で湯気が立つ。みんなの声が、二年前と同じ高さで重なっている。
言っていないことが、一つだけある。
東の街へ移るかもしれない、という話を、僕はまだこの家で誰にもしていない。
スープが温かい。塩は村のぶんだけ濃い。
二年前は黙って出ていけた。今度は顔を見て言う。
明日、母さんに、いちばん先に。




