第51話「半人前」
目が覚めると部屋は静かだった。昨日の喧騒が嘘のように遠い。
宴の匂いがまだ服のどこかに残っている。
窓の外は白み始めたばかりで、仲秋の朝は息が白くなる手前のところで止まっていた。
ナギの言った「明日」が今日になった。
この世界では15歳で大人になる。今日から正式に冒険者として名前を出せる。
数字を越えるだけなのに、ずいぶん遠くまで来たものだと思う。
いつもなら木剣を持って練武場へ向かう時間だが、今日はその足でまっすぐギルドへ行く。
ナギも今朝は練武場には来ないだろう。
部屋を出ると、廊下を挟んだ向かいの戸が開いてセナが出てきた。
もう支度を済ませている。
「おはよう。早いね」
「リクこそ。今日でしょ、登録」
「うん」
朝の通りはまだ人がまばらで、仲秋の風が首筋に冷たい。
屋根瓦が昇りかけの陽に薄く光っている。
歩きながら、ナギの言葉を思い返していた。
登録は明日にしろ——なぜそう言われたのかはまだ分からない。
今朝はその答えを確かめに行く。
---
ギルドの扉を開けると受付にはもうルナ叔母さんがいた。
朝いちばんの受付はまだ依頼を貼り出す前で、掲示板の前に立つ者の姿もない。
「来たね」
書付を片手にこちらを見もせず言う。
この時間に僕が来るのを知っていたような口ぶりだ。
本来は昨日のうちに冒険者登録を行うはずだったが、ナギの一言で1日ずれた形だ。
「それじゃあ、正式登録の手続きを進めるよ」
帳場の上に見慣れた書式の紙が滑ってくる。
これまで何度も他人の手続きの脇から眺めてきた紙だ。
今日はそこへ自分の名を書く。
そこへ外から軽い足音が一つ近づいてきた。
「やあ。やっぱり来てたね」
ナギだ。後ろにレオもいる。
「ナギ?こんな時間にいるのは珍しいね」
「キミの登録を1日ずらしてもらったからね。今朝はその答え合わせさ」
レオが後ろで小さく肩をすくめた。
ナギが受付へ進むと、ルナが2枚目の紙を滑らせる。
紙を受け取ったナギは慣れた手つきで空欄を埋めていく。
迷いのない、よどみのない字だった。
「ナギ、正式な登録はまだだったの?」
「うん。ボクも今日で冒険者登録を出せる歳になったんだ。せっかくだから一緒にと思ってね」
今日で、と聞いてセナと顔を見合わせた。
ナギが僕と同い年——半年も剣を合わせていたのに今日初めて知った。
強さばかり見ていて、歳すら気にしたことがなかった。
「……同い年だったんだ」
「言ってなかったかい?」
ナギは紙から目を上げず、楽しそうに口の端だけ動かした。
「リクも知らなかったんだ」
「うん。聞いたこともなかった」
驚きは隠せないがまだやることがある。
僕も自分の紙に向かった。
魔力適性の欄にはいつものように「ゼロ」と書く。
村の診断のときも、テルナに来たばかりの頃も変わりはしない。
ルナはそれを一瞥して、何も言わずに判を押した。
「これで二人とも、今日から正式な冒険者だ」
ナギが渡されたプレートを陽にかざして眺めている。
僕も手元の板を陽に向けた。
相棒の古い板より縁の打ち出しが浅い。
長く使われた濁りがないぶん、色もまだ白っぽい。
撫でると角が指の腹に立った。
誰の手にも馴染んでいない、おろしたての冷たさだ。
それを上着の内へしまった。
受付の脇からセナの手続きを眺めていたのはつい去年のことだ。
あの頃の僕はセナに引っ張られる形でしか何もできなかった。
ずっと遠くにあると思っていたものが、今日やっと手のひらの中におさまった気がする。
それだけで足元の地面が前より確かになった。
「相棒のプレートは正式に登録したからにはもう要らない。返しな」
叔母さんに言われ、僕はもう一枚の古い板を取り出した。
セナと組んだ日に渡されたランクの刻印もない一枚。
二人で一組と決めて、セナの誕生日からずっと使ってきたものだ。
依頼を受けるたび、セナのランクが半人前の僕を通してくれていた。
この板があって初めて僕は受注枠に収まった。
相棒の二人にはそれがちょうどよかった。
僕が古いプレートを台に置くと、ルナはそれを引き取り帳面に何か書きつける。
それだけの手続きで「相棒」という肩書きが外れた。
セナの顔つきは変わらない。いつもどおりの目で僕の手元の台を見ている。
ただ、セナの指は腰のプレートに一度だけ触れて離れた。
村を出てからずっと隣にはセナがいた。
1週間歩いた街道も、初めて受けた依頼も、冬のあいだの長い護衛も。
見習いの時も、相棒の時も、マルセルたちと活動をするようになった時も。
相棒制度を終えたところで、セナと離れるわけではない。
その事実は、プレートを返したところで何ひとつ変わらない。
ただ、制度の上での「ふたり一組」は今日で終わった。
今日からは僕は僕で、セナはセナで動けるようになる。
それだけのことだ。なのに、思っていたより深く胸に残った。
「これからは、それぞれ一人前ってことだね」
セナが軽く言った。
僕が言葉を探しているあいだに先に言ってしまう。
「そうだね」と返す僕とセナのやりとりを聞きながら、古いプレートを片付けていたルナが一瞬だけ手を止めた。
「……リク、ガレンに似てきたね」
「父さんに?」
「顔じゃない。動き方だ。物を台に置く時の手の使い方はあいつにそっくりだ」
そう言って、ルナは帳面に目を戻した。
父さんの手の動きを僕はもうほとんど覚えていない。
村を出る前の、薄暗い鍛冶場の景色と鉄を打つ音がわずかに残っているだけだ。
それでも、血のつながった叔母さんがそう言うなら、知らないうちにどこか似てきたのだろう。
「さて、登録ついでに」
ルナが帳面を閉じて、僕とナギを順に見た。
「西へ出る商隊の護衛依頼が来てる。季節ごとにミルヴァ村へ出てる往復の定期便だ。
——ちょうどいい。あんたらこれを受けろ」
ミルヴァ村。僕の生まれた村だ。
「依頼の難度はEランク。
この半年の依頼をこなしてきたあんたらならそう難しいものでもない。
リク。あんたがこの依頼の指揮をとりな」
「指揮、ですか」
「ああ。依頼のあいだはあんたが頭を張るんだ。ナギ、リクの下につきな」
帳場の周りが一拍だけ動きを止めた。
ナギは帽子のつばの下で笑っているように見えた。
「隠すほどのことでもないから言っちまうが、これはあんたらの昇格審査も兼ねてる。
リクが指揮を取り、その下でのナギの動きを評価する。
相棒上がりが短期で昇格する際のやつだ」
人を動かして物事を回すのは、剣を振るよりずっと慣れている。
ただ、僕が一人で進めるのは今回が初めてになる。
見習いの時はすでにやり方が決まっていた。
セナとの相棒の時は二人で進めた。
マルセルたちと組んでからは、マルセルが中心になって僕はそれを補助した。
僕はしばらく考えてから答えた。
「……段取りすれば、普通にできると思います」
ルナが鼻で笑った。
「そう言うと思った。セナ、二人のお守りについてやりな」
そう言われるとセナは頷いた。
「キミの下で動くのか。それは面白い」
ナギが楽しげに言う。口先だけでなく本気で面白がっている時の声だ。
ゆうべの「明日にしろ」は、こうして同じ日に登録するためだったのかもしれない。
たぶん、それも半分くらいは。
そんな話を卓の隅で聞いていたレオが身を乗り出して近づいてくる。
「面白そうだな。俺もついていっていいか?」
「別に構わないが。あんたには依頼は出さないよ。というか、出せないよ」
「わかってる。商隊に同行させてもらう形でいいよ。余程のことがなければ俺は手を出さない」
「……なら構わないよ。商隊の方には話をつけておいてやる」
「ああ、恩にきる」
そう言って、レオは自分の席のほうへ戻っていった。
こうして、僕の初めての依頼受注が決まった。
---
その日のうちに商隊主との顔合わせがあった。
護衛する荷の中身と人数、出る刻限、泊まる宿場を一つずつ確かめていく。
荷は塩と鉄器、それに村で使う細々した日用品。急ぎの荷ではないぶん、無理に飛ばさなくていい。
御者と商人で6人。中に足の遅い年寄りが1人いる。隊の速さは、そこに合わせることになる。
僕は紙を広げて、街道のどこで何が起きやすいかを書き出していった。
この道は2年前にセナと歩いている。どこで日が傾き、どこで水が取れるかはまだ頭の中に残っている。
あの時はヴァルドおじさんに聞いた森の難所を避けて通った。
今度は6人と荷を連れて、同じ道をこちらが守って通る。
「ここの森が切れる手前で、隊列を詰めます。
見通しの利かない区間は、こことここ。先に二人を前へ出して、荷は真ん中に置きます。
何かあれば、この沢まで退きます。退く道も、行く前に決めておきます」
商隊主が目を丸くした。
「護衛にここまでやる奴は初めて見るな」
「普通のことだと思いますけど」
「普通の護衛は出てから考えるんだよ」
そう言って、商隊主は僕の引いた線を覗き込んだ。
先に道を決めておけば慌てる回数が減る。
誰かが困る前に手を打っておけば、たいていのことは大事にならずに済む。
「気が利く」と言われることもあれば、「考えすぎだ」と笑われることもある。
ただ、今回はセナとナギへの割り振りも僕が決める。
ナギは足が速い。先行して道の先を見てもらう。
セナは後ろ。隊の尻尾が伸びた時に締められるのはセナだ。
僕は荷の脇について、全体の流れを見る。
僕の引いた線の上を二人が歩く。
線を一本間違えれば、止まるのは僕だけではない。
セナに「ここをお願いします」と頼むのは、どうにも据わりが悪かった。
昨日まで横に並んでいた相手に今日は僕が指図をすると思うと、つい言葉が丁寧になってしまう。
「セナは……後ろを、見ててもらえますか」
「ん。了解」
セナは何でもないように頷く。
ぎこちなかったのは、たぶん僕のほうだけだった。
レオは卓から離れたところでそれを見ていた。
何を言うでもない。ただ、僕が紙に線を引く手元を長いあいだ見ている。
線が一本増えるたび、その目がほんのわずかに動く。
ゆうべ、宴の席で僕の手を見たときと同じ目だ。
---
商隊の発ちに合わせて、出立は翌朝になった。
商隊の荷馬車が3台。御者と商人を合わせて6人。護衛は僕とセナとナギ。
レオは護衛には含まれておらず、すでに荷台に乗り込んでいる。
僕たちを驚かせたのはレオの正面に座るもう一人。ルナ叔母さんだ。
僕たちの依頼にかこつけて里帰りするらしい。
レオは事前に知っていたのか、何事もなかったかのように叔母さんと談笑している。
西へ向かう街道は村へ続く道だ。
途中、宿に泊まることもあるが何日かは野営もする。
1日目の野営は街道沿いの開けた場所だった。
荷を中央に寄せ、馬をつなぎ、火を囲むように皆が腰を下ろす。
空にはテルナの宿で寝る時には見ないほどの数の星が出ていた。
火の番には僕が残った。セナとナギは先に休んでいる。
レオは少し離れたところで毛布にくるまっていた。
何度目かの追加の薪をくべた頃にルナが僕の隣に腰をかけた。
薪のはぜる音だけがしばらく夜に続く。
火に向けた膝から先だけが熱を持っている。
背中のほうは街道の夜気がそのまま貼りついていた。
テルナの宿の壁の内側で、こんなふうに体の前と後ろで温度が割れることはなかった。
「叔母さんも村は久しぶりですか」
「9年ぶりだ。そういえば、テルナに出てきてからは一度も帰ってないね」
ルナが火に手をかざした。
「兄貴の顔もあんたの母さんの顔もずいぶん見てない。
薬を届けるついでに顔を見てくるのも、ちょうどいい」
里帰りというより薬を運ぶ足のついで。そんな言い方だった。
それでも横顔は受付にいる時よりも少しだけ緩んで見える。
しばらく火の音だけが続く。
「リク。マルセルから東の話は聞いてるか」
「クレウスのことですか。ゆうべ酒の席で少しだけ」
「あいつ、この前あたしのところへ来てな」
ルナが薪を一本くべた。
「お前が正式に登録したら、クレウスへの移籍を考えたいと言ってた。
大きい街なら依頼の数も格も違う。本気で上を狙うつもりらしい」
ゆうべ酒の席で出た名前がここでもう一度、別の重さで出てくる。
あの時は誰も本気には取らなかった。
「それと——リクの実績が足りてるなら、早めにEに上げてやってほしい、ともな」
「マルセルがそんなことを?」
「らしくないだろ。あいつが段取りを先に口にするなんてな」
ルナが小さく笑った。
「今日の昇格審査は、半分はあいつの頼みだ。
残りの半分は、あんたが2年で積んだものがそう言わせた」
マルセルが僕の知らないところで僕の先を考えていた。
面映ゆいような、据わりが悪いような、よく分からない感じだ。
火の粉が夜の上のほうへ昇って消えていった。
毛布の向こうでナギが小さく寝返りを打つ。
その隣のレオは、寝息を立てながら眠ってはいない。
気づかないふりをして、僕は燃え尽きかけた薪を火の奥へ寄せた。
火の向こうの暗がりのどこかに、生まれた村がある。
背を向けた側、テルナを越えた東にはいつか移るかもしれない街も。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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