第50話「15歳の秋」
目が覚めたのはいつもの時間。
窓の外はまだ暗い。仲秋の朝は息が白くなる一歩手前で止まっている。
ナギから初めて一本を取ったあの日から半年が過ぎた。
町は何も変わっていない。
変わったものを数えるなら、机のノートが3冊ぶん背を伸ばしたことくらいだ。
依頼の数も増えた。セナとはDの仕事で町を空けることが多くなった。
マルセル達との遠出も長くなって、町の外をずいぶん歩いた。
それから、今日で僕は15歳になる。
15歳という数を、口の中で転がした。特別な味はしない。
13歳で村を出て、14歳をテルナで迎えて、その続きにある数字でしかない。
それでも、数える先が前より遠くまで見えるようにはなった。
声に出して言う相手はいない。言うほどのことでもない。
顔を洗い木剣を持って宿を出た。
---
練武場に着くと、もう影が一つ立っていた。
「今日は早いね」
ナギだ。帽子のつばの下でいつもの目がこっちを向いている。
あの日から、ナギはたまに朝の練武場に来る。
そんな日は二人で打ち込みあうのが無言の約束になっていた。
立ち方は何ひとつ変わっていない。
「おはよう。そっちこそ早いね」
「そうかな。じゃあ、いつものをやろうか」
木剣を構える。半年の間、これを続けてきた。
結果から言えば、あれから僕はほとんど一本は取れていない。
ナギの剣は速い。速いというより、僕の引いた線の外から来る。
読んだ場所の半歩外から撃ち込みが放たれる。
段取りで埋めようとしても埋める前に懐へ入られる。
「壁」は半年たってもそこにある。高さもほとんど変わらない。
それでも毎朝ここへ来る。なぜ続けているのかを口にしたことはない。
型をなぞる音と、木剣を合わせる音だけが毎朝ぶん積もっている。
今朝は、その積もりがほんの少しだけ形になった。
踏み込んだ木剣の先がナギの肩口で止まった。
ナギが受けそこねた。
軽く息を吐く音がする。
「……一本」
「うん。今ので3回目かな、半年で」
狙って取れた一本ではない。
ナギの剣がいつもより半拍遅れて、その半拍にたまたま僕の線が重なっただけだ。
ナギは取られた肩口を撫でた。叱るでも褒めるでもない。
その所作を見るのもこれで3度目だ。
一本取られたときのナギは決まってこの顔をする。
負けを面白がるような、何かを確かめるような顔。
それでも初春にはゼロだった数が3になっている。
線はまだナギには届かない。届かないなりに、たまに掠るようにはなった。
毎朝の鍛錬はそのくらいの形で残っている。
いつもなら日が昇るまで続けるが、今日は僕のほうから先に木剣を下ろした。
「今日はここまでで」
「おや、勝ち逃げかい?」
そう言いながらナギは構えを解く。
若干の物足りなさが声色に乗っていた。
「珍しいね。どこか行くのかい?」
「いや。これからギルドに。今日から正式に登録できる歳になるから」
ナギの動きが一拍だけ止まった。つばの影で目までは読めない。
「へえ。今日が、キミの」
「うん。15になるんだ」
ナギはしばらく僕を見て、それから木剣を肩へ担いだ。
「じゃあ、登録は明日にしようか」
「明日?」
「うん。今日はやめておきなよ。その代わりに今夜は宴だ」
「宴?」
「キミの成人を祝うんだよ。マルセルたちに言っておくといい。ボク達も行くから」
なぜ明日に。そう聞く前にナギはもう背を向けていた。
問いは朝の冷たい空気に置いていかれる。
担いだ木剣の先が歩くたびに揺れている。
背中はいつもどおり何も語らない。
---
その晩の行きつけの食堂の奥は、いつもよりやけに賑やかだった。
マルセルにエマ、ユル。卓の上にはいつもより一品多い。
湯気の立つ皿が、僕の席のぶんだけ先に並んでいる。
「ほら、座れガキ。今日くらいは奢ってやる」
マルセルが顎で椅子を指す。
口は面倒くさそうでも、もう一杯ぶんの皿が僕の前へ寄せてあった。
「ありがとうございます」
「礼はいい。飯が冷める」
店主が奥から顔を出して、焼いた川魚を一皿置いていった。
「今日はあんたの祝いなんだろ。これは店からだ」
顔を覚えられていたことに少しだけ驚いた。
前は注文を取りに来てもこちらの顔を見なかった人だ。
席に座ろうとしたその時、表の扉が開いた。
「やあ。お待たせ」
ナギがいつもより少し弾んだ足取りで食堂の扉をくぐった。
後ろから背の高い男がのっそり顔を出す。
顔は知っている。あの練武場で脇腹に手当てをしてくれた男。名前はまだ知らない。
「邪魔するぜ。うちのじゃじゃ馬が突然すまなかったな」
脇から聞こえる「誰がじゃじゃ馬だよ!」に対して、ユルがいつものように「まあまあ」となだめている。
……こんなナギを見たのは、この半年で初めてかもしれない。
「いや、もともとマルセルたちが祝ってくれる予定だったので、それは構わないのですが」
「ん、どうした?」
男は僕を見て首をかしげた。
「えっと。こんな場で聞くのもアレなのですが」
言いづらい。けど言わないといけない。
「お名前、聞いてもいいですか?」
一瞬、時が止まった。
「あー……あれ。俺、名乗ってなかったっけ?」
「聞いたこと、ないです」
「そっか。レオだ。こいつのお守り役。よろしくな」
そう言うと、レオと名乗った男は脇の席に腰を下ろして、さっそくエマと酒の話を始めた。
卓の端から、皆をひとりずつ眺めている。誰かを値踏みする目ではなかった。
その目がときどきこちらへ来て、また離れていく。
僕が何をどう話すかを見ている。中身ではなく、話し方を。
「リク、レオの名前知らなかったんだ」
セナは知っていたらしい。
「なんか、聞きそびれちゃって。セナは知ってたんだ」
「うん。春に大型の依頼を受けた時に火の番が一緒だったんだよね。その時に」
「レオは自分からはあまり話しかけないからね」
気がついたらナギが隣の席に座っていた。
そういえば、この3人が同じ卓に着くのは初めてかもしれない。
セナが身を乗り出す。
「ねえ、リクが今朝ナギから一本取ったって本当?」
ナギは杯を傾けたまま、小さく頷いた。
「3回目。すごいじゃん、リク」
「まぐれだよ。狙って取れたわけじゃない」
「そのまぐれを毎朝積んでくる。キミはたちの悪い男を相棒に選んだね」
ナギがそう言うと、セナは声を立てて笑った。
「ナギこそ、リクのどこがそんなに気になるの?」
セナが杯越しにナギを見る。
「さあ。気になるというより、見ていて飽きないんだ。同じ手は二度と通じないからね」
「それ、褒めてる?」
「半分はね」
朝に木剣でしか向き合わない相手と、生まれた時から隣にいる相手。
その二人が同じ卓で、僕の話で笑っている。
不思議な眺めだった。悪くない眺めだ。
---
料理が一巡した頃、エマが布の包みを卓へ置いた。
「ほら、リク。今日は成人の祝いだからな。みんなで出し合った」
中身は革の小手と軽い胸当てだった。
新品ではない。使い込まれて手入れの跡がある。
「ユルの見立てだ。お前、防具に金をかけねえからな」
「サイズはたぶん合いますよ。着けてみてください」
小手に手を通してみる。
指の動きを邪魔しない。誰かが先に使って馴染ませてくれた重さだ。
革の内側が手のかたちにへこんでいる。
胸当ても着けてみた。肩のすわりがいい。
これまでは借り物の上から縄で縛っていただけだった。
体に合うと、こんなに楽になるものなのか。
立ち上がって二度ほど肩を回すと、エマが「ふうん、いい感じじゃないか」と笑う。
「大事に使います」
「使い潰せ。それが防具だ」
エマが指を鳴らす。弓の弦を弾くときの癖だ。
防具を誰かのお下がりで揃えるのは、村にいた頃から知っている。
新品など買えなかった。けれど、これは拾い物でも施しでもない。
その違いが、革の内側のへこみから手のひらに伝わってくる。
マルセルが杯を傾けながら機嫌よく言った。
「リクも正式か」
「まだ登録は明日ですけど」
「明日でいい。——なあ、いっそのことよ」
マルセルが卓に肘をついた。
「いっそクレウスにでも腰を据えるか。あっちは街がでかい。依頼の数も質もこことは違う」
マルセルがこんなことを言うのも珍しい。エマが横から笑う。
「また酔って大きいこと言ってる」
「でも、一度長期滞在してみるのも面白いかもしれませんね」
ユルがそう受けた。軽い口ぶりだ。
上機嫌の延長にも聞こえる。卓のだれも本気には取っていない。
それでも、僕の頭の隅で何かが引っかかった。
それが何かはまだ言葉にならない。
「クレウスに行くならボクたちも付いていってもいいかもね」
「またお前は無計画なことを言う」
「どちらにしても、来月には一度帰らなきゃいけないじゃないか」
レオの呆れ顔にセナが割り込んできた。
「ナギたちはクレウスの出身なの?」
「あれ、言ってなかったっけ?そうだよ。移住するなら街の案内してあげるよ」
「……まあ、酒の席で決めることでもねえな。この話はまた今度にするか」
マルセルもそれきりクレウスの話をしなかった。
杯を空けてエマと次の依頼の話に移っている。
だから僕も、頭の隅に転がった名前をそのまま置いておいた。
宴は遅くまで続いた。
ユルが酒に弱いこと。エマの弓の評が酔うほど辛口になること。
ここまで一緒にいても知らなかった顔が、卓の上にひとつずつ出てくる。
これだけの数に囲まれて飯を食う夜が来るとは、テルナに来た頃の僕には想像できなかっただろう。
レオが一度だけ、僕の手元を長く見た。
---
皆が腰を上げ始めた頃、僕はナギの横へ寄った。
「ナギさ。朝の……なんで、登録を明日にしろって」
ナギは帽子のつばを浅く下げて笑った。
「今日は秘密さ」
「秘密」
「明日になれば分かるよ。悪いことじゃない」
それ以上は言わない。レオが横で肩をすくめる。
「こいつ、こういうとこあるんだよ。気にすんな」
それだけ言うと、二人は「また明日」と言い残し帰っていった。
レオの声には含みはない。本当に、ただの軽口に聞こえた。
店を出ると外は冷えていた。秋の夜の匂いがする。
セナが隣に並ぶ。
しばらく無言で歩いてから、セナが足を止めた。
「リク」
「ん」
布に包んだ小さなものを差し出してくる。
「これ。私から」
革の覆いだった。ノートにかぶせる表紙のかたちをしている。
手の跡のない、おろしたての革だ。
「この前、沢で濡らしてたでしょ。だから」
そう言ってセナはさっさと歩き出した。礼を言う間も与えない。
半年前なら「絶対なくさないでよ」と一言ついていたと思う。
今夜はそれもなかった。
Dに上がってからのセナは言葉の角を落としている。
この前の春、セナの誕生日に何かを渡したのは僕のほうだった。
ほつれかけた赤いリボンの替えにと、新しい緑のを一本。立場が逆さになっている。
「ありがとう」
背中に言うと、セナは何歩か行ってから足を止めた。
振り返らないまま、いつもより低い声で言う。
「……誕生日、おめでとう。リク」
それだけ言ってまた歩き出した。
今夜、その言葉をまっすぐ口にしたのはセナだけだった。
宿に戻ると受付の台に小さな包みが置いてあった。
「リク宛だよ。昼間に、村からの便でね」
紐で結わえた包みと手紙が一通。母さんの字だ。
久しぶりに見る、丸くて右へ傾いた字。
包みの中身は編んだ手袋だった。指のところがわずかに大きい。
来年の手にも合うようにと、母さんは毎年そうやって大きめに編む。
毛糸は染めていない。村の羊のそのままの色だ。
編み目はところどころ詰まったり緩んだりして、夜なべで手元が暗いまま編んだのが分かる。
手袋ひとつに、村のひと冬ぶんの夜が入っている。
手紙には誕生日の言葉と村の近況が並んでいた。
畑のこと。父さんの鍛冶場のこと。
体のことは心配いらない、無理をするな、とだけ書いてある。
それ以上は何も書いていない。
書かないことで安心させようとするのは母さんの昔からの癖だ。
手紙の終わりに、僕の名前が一度だけ書いてあった。
元気でいなさい、ではなかった。元気でいてくれて、と。
その先は便箋の端で切れている。読み違いかもしれない。
それでも、その一行だけ何度か目で追った。
薬を切らさず送れているうちは悪いことにはならない。
そう自分に言い聞かせている。
「村、変わってないんだね」
横で覗き込んだセナが言う。
「うん」
「行きたい?」
ひとつ息をついて考えた。
「近いうちに、一度顔を出したいとは思ってる」
もし、東へ腰を据えるならその前に。
口に出さなかった理由が、母さんの字を見ているうちに形を持ち始めていた。
クレウスはまだ遠い。村はもっと近い。順番なら村が先だ。
「私も行く。お父さんとお母さんに、Dの報告がまだだから」
セナはそう言って先に階段を上がっていった。
足音が、昔より大人びて聞こえた。
---
部屋のランプに火を灯す。
セナの革の覆いをいまの一冊にかぶせてみた。
あつらえたみたいに、角まできれいに包んでいる。
濡れた紙のことまで見ていたのは、たぶんセナだけだ。
僕が線を引く手元をずっと横で見てきたから。
いつもなら、寝る前に今日の一行を書く。
今夜は書かなかった。
覆いをかけたばかりの表紙を、指でなぞった。
書くことなら明日でいい。
15歳も、登録も、酒の席で転がった東の街の名前も、明日からのページにいくらでも並ぶ。
型をなぞる道の先にそんな方角が差したのは初めてだった。
母さんの手紙だけはノートのいちばん前に挟んだ。
もとからある手紙のすぐ隣に。
横になって天井を見た。明日が来るのを待っている自分がいる。
こんなふうに朝を待つのはいつ以来だろう。
思い出せないくらい、久しぶりだった。
明日、僕は正式な冒険者になる。
それがどんな一日になるのか、今はまだ分からない。




