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第49話「一本」

夜明け前に目が覚めた。


鐘より早く、体の方が時間を覚えている。

五日ぶりに起きる理由のある朝。


枕元の水を飲んで固いパンを噛んだ。

味は半分もしない。それでも腹に入れる。

条件は条件だ。


噛みながら今日の段取りを頭に並べた。

型を二巡り。崩しをひと巡り。鐘までに宿へ戻る。

休みの日の段取りにはまだ慣れない。


外にはまだ星が残っていた。

息は白い。冬よりずっと薄い春の白さだ。


木剣を担いで練武場へ歩く。

誰もいない柵の中で型を一本目からなぞり始めた。


体は思ったより素直に動いた。


考えてから動くまでの一拍がまた縮んでいる。

ヴァルドおじさんの手紙の言う通りだ。

段取りは、頭から体へ降りていく。


三十本を数えた頃に柵の外の気配に気づいた。


足音はない。

それが名乗りの代わりになっている。


「ナギ」


振り向かずに言うと、笑う気配がした。


「いつから気づいてたのかな?」

「十本くらい前から」

「……キミのそういうところ、ほんとに嫌になるよ」


口とは裏腹の軽い声だった。


ナギが柵を抜けて入ってくる。

つばの広い帽子に高い襟。いつもの形だ。


ただ、今日は懐のあたりがわずかに膨らんで見えた。


ナギは打ち込み台の横に立ってしばらく僕の型を見ていた。

続けて、と手が動いたので続けた。


十本ほどでナギが口を開いた。


「その型、誰に習ったんだい」

「村の、父の友人に。いまは手紙で」

「手紙で剣を習う人、初めて見たよ」


笑いはしたが茶化す響きはなかった。

型がひと区切りつくまでナギはもう何も言わなかった。


木剣を下ろすとナギが柵から背を起こした。


「キミ、討伐のあいだも書いてたね。

終わったすぐあとの、手が震えてる時まで」


見られていたとは思わなかった。


「あれは癖です」

「その癖の話だよ。前から聞きたかったことがあるんだ」


「はい」


「キミはどうして、負けてる時に書くんだい」


朝の空気が一段静かになった。


「忘れるので——って、前に言ったね。あれ、半分しか信じてないんだ」


「半分は本当です」

「残りの半分は?」


考えて、そのまま言うことにした。


「負けた時にしか、書けないことがあるので」


「……どういう意味?」


「勝ってる時は見えないものが多いんです。

うまくいった理由はうまくいったことの後ろに隠れてしまうので。

負けてる時の方がよく見えます。どこで間に合わなかったか。どこから崩れたか」


「負けは、書くと使えるんです。書かないとただの負けですけど」


ナギは黙った。


帽子のつばの下で目がどこか遠くを見ている。

納得の沈黙ではない。

自分の中の何かと突き合わせている沈黙だ。


「……ボクはね、勝った時のことも全部覚えてるんだ」


やがてナギが言った。


「どの依頼も、どの手合わせも、剣の角度まで覚えてる。

でも、使ったことはないのかもしれない」


「覚えてることと使えることは別なんだね。キミを見てると分かるよ」


それから、と続けてナギが懐に手を入れた。


「討伐の帰りにね」


出てきたのは小さな帳面だった。


「書こうとしたんだ。キミの真似をして、町で買った」


「店の親父に何に使うのかと聞かれてね。

……答えられなかったよ。剣しか持ったことがないんだ、ボクは」


開いたページが薄明かりの中でも白いと分かる。


「一文字も書けなかった」


声は飄々としたままだった。

それでいて、目だけは帳面から動かない。


「忘れたことなんて一度もないんだよ。

あの討伐だって全部覚えてる。波の数も、キミの声も、谷の口の死骸の山も。

覚えてるのに、書こうとしたら——何もなかった」


「何を書けばいいのか分からなかった。あんなのは初めてだ」


「変だろう? 忘れないなら、書く意味なんてないはずだ。

なのにあの晩は書かないといけないと思った。自分で自分が分からなかったよ」


「書くのは、忘れないためだけじゃないですよ」


ナギの目がこちらへ戻ってきた。


「整理です。覚えていることを使える形に並べ直す作業なので。

覚えているだけだと頭の中の山なんです。並べないと取り出せません」


「……山、か」


ナギが帳面の白いページを見下ろした。


「……僕も、最初は書けませんでした」


「キミが?」


「最初のページはひどいですよ。

字が汚いとかじゃなくて何が大事かが分かってないんです。

全部書こうとして、全部薄くなって、次の日に読んだら何も使えませんでした」


「書くのも積み上げです。最初から書ける人はいません」


ナギが帳面を見た。それから僕を見た。


「キミでもそうなのかい」

「僕でも、です」


ナギは帳面を閉じなかった。

閉じないまま柵の横木の上に置いた。


「……ね、リク」


帽子のつばが上がる。

影の下から出てきた目は、もう笑っていた。


「一本、やろう」


ナギが壁掛けの木剣を一本取って、重さを確かめるように振った。


向かい合って構えるのは何度目になるのか。


数えてはいない。

数えているのはマルセルだ。


合図はいらない。

互いの構えが据わった時が始まりだ。


最初の一本はいつも通りに終わった。


ナギの初速は知っていても消える。

見えているのは踏み込みの前までで、その先は結果だけが届く。

出端を抑えられて、胴。


「型のぶんだけ早くなってる」


二本目は前より続いた。


受けて、受けて、返しの形まで行った。

ナギの剣筋を三つ先まで読んで、二つ目までは合っていた。

三つ目で読みの外から回り込まれて、小手。


それでも長くなっている。

考えてから動く一拍が縮んだぶんだけ、剣が間に合い始めている。


「動きが変わったね」


ナギが楽しそうに言う。


「討伐の前とはまるで別人だ」


三本目に入る前に僕はひとつ決めた。


しまい込んだ古い癖をひとつ取り出す。


突きのあとの半歩。


出した突きが受けられた時、右足を半歩引いて立て直す癖が僕にはあった。

その一瞬がいちばん無防備になる。

討伐の前の手合わせで取られた四つのうちのひとつはこれだ。


早朝の型でもう潰した癖だ。

いまの僕は突きのあとに半歩引かない。


ただ——ナギの中の僕は、まだ引いている。


外れても失うのは一本だけだ。

マルセルの紙に線が一本増えるだけのことだ。


当たれば、才能の届かない場所がひとつ実在することになる。


分の良い賭けだった。


三本目。


突きを出す。受けられる。

右足を、わざと半歩引いた。


ナギの剣がそこへ来た。

記憶の通りの場所へ、記憶の通りの速さで。


取られた。


「今のは前の癖だね」


ナギが小首をかしげる。


「戻ってるよ、リク」


「……みたいですね」


四本目。


同じ突きを出す。同じ形で受けられる。


世界が、ゆっくりになった。


ナギの肩が沈む。剣が走り出す。

記憶の通りの場所へ。

三ヶ月のあいだ、僕がいたはずの場所へ。


僕は、半歩を引かなかった。


引かずにその場に残って剣だけを上げた。


ナギの一撃が、誰もいない場所を通り抜ける。

体勢がほんのわずかに流れた。

誰にも作れないはずの隙が、記憶を信じたぶんだけ開いた。


僕の木剣が、ナギの肩に触れて止まった。


触れた、という手応えだけがあった。

力はいらない。当てると決めた場所に当たった。


遅れて、柄を握る手の中で心臓がひとつ大きく鳴った。


練武場が静かになった。


遠くで朝の鳥が鳴いている。

ナギは肩に木剣を載せたまま動かなかった。


「…………」


僕は木剣をゆっくり引いた。


長い沈黙のあと、ナギは目を閉じた。


閉じたまま、いまの数呼吸をなぞるように小さく首を動かす。


「突き。受け。キミは半歩下がる——はずだった。

三ヶ月、ずっとそうしてきた。さっきの三本目もそうだった。

だから取りに行った。あそこにキミがいるはずだった」


目が開いた。


「今の、何をしたんだい」

「僕の古い癖です。突きのあとの半歩。討伐の前に潰しました」

「潰した癖を、わざと見せたのかい」

「三本目。君の中の僕が古いままだったから」


ナギが自分の木剣を下ろした。

下ろして、自分の手を見て、それからもう一度僕を見た。


「ボクは、忘れない」


「忘れないから僕の古い癖もそのまま残ってたんです。

僕は忘れるので、書きます。書くと、書き直せます」


「……正面なら、ボクは負けないよ」


悔しさより先に確かめる響きの声だった。


「分かってます。さっきまでの三本が正面です」

「でも今のは——キミの土俵で獲られた」


ナギが構え直す。


「もう一回」


その言い方を僕は知っている。

倒されるたびに僕が言い続けてきた言葉だ。

この瞬間だけ、言う側と言われる側が入れ替わった。


五本目は三つ数える間に終わった。


同じ手は二度通じない。

ナギの剣はもう僕の古い癖を信じていなかった。

出端を抑えられて、小手。


「……ですよね」

「うん。二度はないよ」


ナギが木剣を柵に立てかけた。


「悔しいかどうか、まだ分からないんだ」


正直な声だ。


「初めてのことが多すぎて、順番に並べないと分からない。

……ね。これも書けば分かるのかい」


「分かる時も、あります」


壁は、壁のまま残っている。

正面の差は一本やそこらで埋まるものじゃない。


それでも、確かに一度、僕の木剣はナギの肩で止まった。


才能が届かない場所は、ある。

根拠のなかったあの一行に、初めて実物の重さが乗った。


ナギは柵の帳面を取って、その場に座り込んだ。


「書いておきたい。今のうちに」


開いたページの前でまた手が止まる。


「……最初の一行は、何を書けばいいんだい」

「もらい方と、次にどうするか。あとは日付を」

「もらい方、か」


ナギの手が動き出した。


ゆっくりだった。

剣はあんなに速いのに字は子供みたいに遅い。

遅いまま、止まらずに動いていた。


待つあいだは僕も型の続きをなぞった。


柵の内で木剣の鳴る音と、ページの上を炭の走る音。

朝の練武場にふたつの音だけがしばらく続いた。


陽が柵の影を短くしていく。

ナギは三度手を止めて三度書き直していた。

最初のページから、もう直しながら書いている。


何を書いているのかは見なかった。

見なくてもたぶん同じことを今夜僕も書く。


書き終えたのか手を休めたのか、ナギがふっと顔を上げた。


「リク。キミの父上は、冒険者だったのかい」


手は帳面に置いたままだった。


「いえ。鍛冶師です。村で」

「そう。……じゃあ、キミのこれは誰の真似でもないんだ」


それからしばらく黙って、ナギは言った。


「……ボクの父はね」


朝の光が帽子のつばの下まで届き始めていた。


「実力で道を切り開いた人だと言われてる。

家の誰より強くて、誰より速かったって。ボクはそう聞いて育った」


「でも、父が何をしていたのかは、ボクは知らないんだ」


帳面の上でナギの手が止まっている。


「剣の速さの話ならいくらでも聞いた。

でも、夜に何をしてたのかは誰も話さなかった。

キミみたいなことをしていたのかどうか」


ナギは答えを待つ顔をしていなかった。

僕も答えを持っていなかった。


強い人の後ろ側は外からは見えない。

マルセルの線の束を僕がきのうまで知らなかったのと同じだ。


「いつか、聞けるといいですね」

「……そうだね」


ナギが帳面を閉じて懐へ戻した。

閉じる前に書いたページを一度だけ確かめるのが見えた。


柵の外にいつのまにかあの男が立っていた。

いつからそこにいたのか、気づきもしなかった。


男は何も言わなかった。

座り込んで帳面をしまうナギを、初めて見るもののように見ていた。


ナギが立ち上がってついた土を払う。


「行くよ」


男に言ってからこちらへ振り返った。


「また来る。朝のこれ、続けるんだろ?」

「続けます」

「なら、ボクの帳面も増える」


帽子のつばを浅く下げてナギは男と並んで歩いていった。


去り際、男が一度だけこちらを見た。


---


一人になった練武場で型の残りをなぞった。


鐘が四つ鳴る頃には、通りの方から荷車の音と店の戸の開く音が届き始める。

ギルドが開いて、依頼が回って、明日からはまたいつもの日々だ。


討伐の前と少しも違わない町の朝。

同じ音を聞いていても、僕だけが前と違う。


今日の一本を書く。

もらい方ではなく、初めて、獲り方を。


書きながらこの冬からの並びを思った。


負け続けて、ペンが止まって、家から手紙が来て。

三百ページをめくり直して、森に線を引いて、線の束を見せられて。


そして、今日の一本。


ノートのいちばん前には手紙とマルセルの紙。

いちばん後ろに初めての獲り方。

知らない僕と知っている僕が一冊の中で揃っていく。


次にここへ増えるのは、誰の分だろう。


季節がもう一度めぐれば僕は15歳になる。

正式の登録。Cランクへの道。

条件を書いたページもノートの中で順番を待っている。


変わっていくものの真ん中にいま僕は立っている。


変わらないのは、夜明け前のこの型と、書くことだけだ。

明日も同じ時間に起きる。同じ一本目からなぞる。


それが僕の普通だから。



──────

第三章 了

〈第四章〉へ続く

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