第48話「マルセルの計算」
朝の鐘が四つ鳴り終わる頃に目が覚めた。
窓の外はとっくに明るい。
夜明け前に起きる朝を今日は休んでいる。
マルセルに止められているから、ではある。
正直に言えば、止められていなくても起きられなかった。
体を起こすのにいつもの倍かかった。
討伐のあいだ張り続けていた何かが、ゆるんだまま戻ってこない。
手のひらの豆は潰れていない。
木剣を三日握らなかった手は、それはそれで落ち着かなかった。
隣の部屋からまだいびきが聞こえる。
中庭で水を使う音だけがいつもの朝の速さで動いていた。
ゆうべ店を出る時に見た、隅の卓の灯りを思い出した。
マルセルがいつまで紙に向かっていたのかは知らない。
試しに声を出してみる。
「……あ」
低いが、出る。昨日よりはましだ。
階下の食堂も遅い朝だった。
討伐帰りの組はどこも似たようなもので、皿の数よりあくびの数が多い。
テーブルにはセナがいた。
先に朝食を食べ始めていて、もう食べ終わるようだった。
「おはよ。声、戻ってきた?」
「半分くらい」
「よく寝れた?」
「鐘まで一度も起きなかった」
「上出来。報告、行こ」
食べているあいだ、セナは昨日の干し肉の硬さの話をひとしきりした。
討伐そのものの話はあまりしない。
体の外に出すには三日は近すぎる。
---
ギルドは朝から混んでいた。
受付の台に布を解いた角が載る。
ルナ叔母さんが擦り切れた先を指でなぞった。
「年寄りの主。猟師の見立て通りだ」
報告はマルセルとセナで分けた。
僕は隣で頷く係だ。半分の声は数字の確認だけに使った。
主が巣を捨てて沢筋へ動いたこと。
群れの数が見積もりの倍に近かったこと。
ルナは聞きながら依頼の控えに書きつけて、最後に一度だけ手を止めた。
「巣を移す前に獲ったのか。……猟師に知らせとくよ。麓の小屋の板も外せるね」
戸板の打ちつけられた猟師小屋を思い出した。
あの板を外すのが誰なのかはこれで決まった。
それから依頼の紙に判が押された。
「ご苦労さん」
革袋が台の上に置かれる。
マルセルが受け取って重さも確かめずに懐へ入れた。
分け前は店で。いつも通りだ。
後ろでエマとユルが報酬の控えを覗き込んでいた。
「ふうん。二度見した甲斐はあったね」
「装具の革を替えます。残りは貯めますね」
エマの矢が三束、ユルの傷薬が倍。
使った分と使わなかった分が、それぞれの懐に戻っていく。
依頼台の脇で、若い組が写しの地図を広げていた。
討伐で一緒だったあの組だ。
自分の組の仲間に沢の渡り方と布の結び方を説明している。
段取り八分という声が聞こえた。
僕が言った時よりずっと得意げだった。
説明していた若いのが僕に気づいて寄ってくる。
「布の間隔、どのくらいで結んでた」
「曲がり角と、迷いそうな分かれ目だけです。数より場所なので」
「……場所か」
うなずいて戻っていく。
教えたというより聞かれただけだ。
戻りながら自分の帳面に何か書きつけていた。
広間の壁際では討伐の話が大きくなっていた。
死骸の山の高さが語るたびに少しずつ伸びていく。
十日もすれば、主は家ほどの大きさになっているはずだ。
掲示板の前では古株の組が依頼の紙を選びながら帳面をめくっている。
見てから決める、が当たり前の手つきになっていた。
ナギとあの男も報告に来ていた。
受付に紙を出したのはあの男の方だった。
ナギは隣で台の木目を見ている。
書く方の用は、最初から全部あの男の側にある。
その帰りぎわだ。
ナギが懐から帳面を半分だけ出した。
開かずに、また戻した。
そこまでを僕は見ていた。
声はかけなかった。昨日と同じだ。
受付を離れる時、ルナの声が追ってきた。
「次の依頼は明後日以降だよ。休むのも仕事のうちだ」
気づくと足が練武場の方へ向いていた。
休めと言われて休めるなら苦労はない。
柵の前で止まる。
中では誰かが打ち込みをやっていた。
入れば多分、体は動く。
ただ、動かせば明日の朝の分が鈍る。
倒れられると段取りごと倒れるとマルセルに言われた。
その言葉を頭の中で反芻し、来た道を戻った。
型をなぞる代わりに、宿で道具の手入れをすることにした。
木剣の柄を拭いて、ノートの綴じを直して、地図の破れに布を当てる。
広げた地図には震えた字が残っていた。
討伐の終わった時刻と数。あの場で書いた分だ。
書き直さずにそのままにしておいた。
いつかの記憶でも、休みの日の使い方をいつまでも知らなかった。
体を止めても、頭のどこかが仕事の続きを探しに行く。
手を動かすくらいがちょうどいい。
休むにも段取りがいる。
---
夕方、行きつけの食堂の卓で報酬を分けた。
革袋から銀貨が出て人数分の山になる。
山の高さを見てユルが言った。
「……まあまあ、どころじゃないですね」
分け方で誰も口を挟まない。最初から決まっているからだ。
取り分を懐に入れて、頭の中で薬代を引いた。
春の分と、村へ送る分。引いてもまだ残る。
Cランクの依頼は懐の景色まで変える。
「これで春の分、送れるね」
隣でセナが小さく言った。
僕の懐の使い道をセナはいつも僕より先に言う。
飯のあとで呼び止められた。
「リク。ちょっと残れ」
店の隅の卓にマルセルが座っている。
昨日と同じ場所に昨日と同じ紙があった。
促されて向かいに座ると紙がこちらへ回された。
短い線が五本ずつ束ねて書きつけてある。
列がいくつか。日付らしい印。月の区切り。
線の束が下へ行くほど痩せていく。
炭の濃さはまちまちだった。
一晩で書いた線ではない。何度も足して、何度も数え直した跡だ。
途中、線の途切れている場所がある。
「何の数だと思う」
声が低い。
「……分かりません」
「お前がナギにもらった数だ」
手合わせのたび、マルセルはどこかで見ていた。
見ているのは知っていた。数えているのは知らなかった。
「いつからですか」
「最初からだ」
最初の模擬戦。
止めようとして、僕の顔を見てやめた。
止める代わりに、数え始めていた。
「最初の月は途中で数えるのをやめた。二十を超えたあたりでだ。
ひと月前は十二。半月前は七。討伐の前の最後は——四だ」
太い指が痩せていく線の束を順になぞる。
最後の四つなら、もらい方まで言える。
右の出端。受けの戻り。突きのあとの半歩。左の払い。
ノートに書いたから覚えている。
数の方は、数えたことがなかった。
「ナギの分は、つけてないんですか」
「つける意味がねえ。あっちは最初から出来上がってる。数字ってのはな、動くから紙に書くんだ」
動くから、書く。
ナギが聞いたら、どんな顔をするだろう。
「手加減の置き場所も最初から動いてねえ。条件は同じだ。
減ってるのは、お前のもらう数だけだ」
「……書いてるからです。同じもらい方を二度しないように潰してるだけで」
「だろうな。なら、こっちも見ろ」
紙のもう半分には別の数字があった。
組の依頼。しくじりの数。怪我の数。
「秋はしくじりが四つあった。冬がふたつ。春に入ってからはゼロだ。
怪我の方は数えるのをやめた。ユルの薬が余るようになったからな」
こちらも減っている。
僕が段取りを持つようになってからの並びだ。
「お前のやり方、広まってるぞ。古株が帳面をつけ始めた。若いのは地図を写す。ギルド中がお前の真似だ」
「いいことだと思います。誰でもできることなので」
「ああ、誰でもできる。けどな」
マルセルが線の束の紙を指で叩いた。
「この減り方をしたやつは、誰もいねえんだよ」
「……他のやつと、比べてですか」
「比べた。古株も、昔の連れも、頭ん中でだがな」
「数字ってのはな、普通はどこかで底が来る。
十二で止まる。九で止まる。上に行くほど一つ削るのが重くなって、どこかで動かなくなるんだ。
お前のには底がねえ。半分、また半分と来てる」
言葉が出なかった。
「普通じゃない。ベテランでもここまで速くは減らない」
「……普通に、やってるだけですよ」
「だから、その『普通』の話をしてる」
店の灯りがひとつ、じじ、と音を立てた。
遠くの卓の笑い声が、別の部屋のことみたいに聞こえる。
黙って線の束の列を見た。
村にいた頃からそうだった。
縄の結びも罠の張りも、覚えるまでは人並みだった。
人より速かったのは、覚えたあとだ。
一度しくじった結び方は、二度ほどけなかった。
いつかの記憶では、同じしくじりを二度やれる場所がなかった。
二度目は居場所ごとなくなる。だから潰す。癖になるまで潰す。
しくじりを数える人間ならいくらでもいた。
減らし方は誰も教えてくれなかった。
だから自分で書いた。あれが始まりだったのだと思う。
それだけのことだ。
それだけのことを、この紙は普通じゃないと言っている。
「そういうものですかね」
マルセルはしばらく僕を見ていた。
値踏みの目ではない。守る側の目とも違う。
読めない帳面を前にした目だった。
長くはなかった。
マルセルはすぐ視線を紙へ戻し、その端を灯りの方へ傾けた。
数字の上でなら、いくらでも僕を見ていられるようだった。
「……ま、いい。数字は嘘をつかねえが、答えも言わねえからな」
「マルセル。数字、得意なんですね」
「うるせえな」
舌打ちが返ってきた。
「実家は商家だ。帳面の読み方だけは体が覚えてる。好きで覚えたんじゃねえよ」
「数えてて思い出したこともある。昔、勝てなかった相手の話はしたな」
「聞きました」
「あの頃の俺の数字が残ってたら、どんな並びだったかとは思った」
それ以上は言わなかった。
クレウスで聞いた話の先も、勝てなかった相手のその後も、僕は聞かなかった。
「朝のあれ、明日から再開でいいんですね」
「いいが、条件がある」
紙を畳みながらマルセルが言う。
「始める前に何か食え。水も飲め。
お前は人の飯と水の量は紙に書くくせに、自分の分は書かねえからな」
「……はい」
「倒れられると段取りごと倒れる。そうだろ」
僕の理屈だ。返す言葉がない。
「言っとくが、これをギルドに出す気はねえ。お前の真似は誰でもすりゃいい。この紙は別だ」
どこが別なのかは、言わなかった。
畳んだ紙が卓のこちら側へ押し出された。
「いらないんですか」
「持っとけ。自分がどれだけ来たか、たまには自分で見ろ」
受け取った紙は、思ったより軽い。
三ヶ月ぶんの重さは、紙とは別の場所にあった。
マルセルが立ち上がる。
「次は俺が数えるまでもねえだろ。——寝ろよ、ガキ」
店の戸を押して出ていく背中は、いつものマルセルだった。
---
部屋に戻ってノートを開いた。
いちばん前のページにアーシャさんの手紙が挟んである。
遠くまで行きます、の一行を目でなぞってから、隣にマルセルの紙を入れた。
家からの手紙と線の束の紙。
どちらも僕の知らない僕のことが書いてある。
枕元に水袋と固いパンをひとつ置いた。
条件は段取りに入れておけば忘れない。
窓の外で春の夜風が鳴っている。
紙は減り方しか教えてくれない。
ナギとの差そのものは、一つも縮まっていないままだ。
縮まらない差の続きは紙の外にある。
明日は夜明け前に起きる。
食べてから、型を一本目からなぞる。
目の裏で、線の束がまだ減っていく。




