第47話「大型討伐(後)」
三日目は火を消すところから始まった。
空が白む前に全員が起きて、音を立てずに荷をまとめる。
息はまだ白い。岩場の岩には薄く霜が降りていた。
三日目の体は重い。重いのはお互いさまで誰も口には出さない。
主はまだ一度も姿を見せていない。
それを相手に今日決める。
段取りは前の晩のうちに組んである。
火のそばで地図を広げて僕が読みを話した。
正しくは、話そうとした。
声が出なかった。
二日ぶん張り続けた喉は囁きより少し大きい音しか作れなくなっていた。
「いいから書け」
マルセルがそう言って僕の囁きと紙を順に拾い、大声で皆に流した。
こいつの声は俺の声だ。
打ち合わせの晩にマルセルの言った言葉が、今は逆さまになって働いていた。
読みはこうだ。
群れは昨日でほとんど削れた。
空になった巣に用心深い主が残る理由がない。
人の気配で巣を移す。
受付でルナ叔母さんの言った習性が今度こちらの味方になる。
賢いのか、ただ用心深いだけなのか。
どちらでも行き先は変わらない。
出口は四つある。
谷の口はこちらが塞いだままだ。
獣道の出口は、あの体では抜けられない。
崩れた斜面は下りる道だ。あの重さで上れる足場ではない。
残るのは谷の奥から尾根へ上がる沢筋だけだった。
去年の冬に崩れた斜面。水の出る沢筋。獣道の向き。
台帳から写した線のうち、最後まで使わずにいた一本が残っていた。
動くなら夜明けだ。
大きい体で夜の森を歩くことは獣の方が嫌う。
夜のうちにナギが沢筋を見て戻ってきた。
「巣はまだ匂ってたよ。岩の奥で大きいのが息をしてる」
沢筋は尾根へ上がる途中で、岩と岩のあいだに細く絞られている。
荷車一台分の幅。
そこを、首にする。
絞りの上の岩にエマ。その先の岩の出っ張りにナギ。
手前の岩陰にセナ。ユルと荷はその後ろ。
マルセルは絞りの真ん中、主の正面に立つ。
「正面は俺だ」
決める声に誰も口を挟まなかった。
セナには岩陰から後ろ脚を頼んだ。
「拘束で止めようとしなくていい。一呼吸だけ遅らせて」
「一呼吸だけね。分かった」
ナギには首の真上の岩を頼んだ。
「いいのかい? ボクを線の中に置いて」
「君にしか頼めない場所だから」
「……いいよ。そこで待つ」
帽子のつばが浅く揺れた。
去りぎわ、ナギの目が一拍だけ僕の手元の紙に残った。
最後の一人は、指示をする前に自分から配置を言ってきた。
「じゃあ俺は遊撃だな。崩れそうなところに入る」
「……はい、お願いします」
残りの3組は谷の口に残って勢子に回る。
ガランの指示で音を使い獣を追う側だ。
空が白みきってから百を数え、巣へ向かって音を立てながら押す。
主を、こちらの決めた時間に、こちらの決めた道へ歩かせる。
外れた時の手も決めてある。
主が絞りの手前で止まったら、ユルが光をひとつ立てる。
谷の口でそれを見た勢子が湿らせた薪に油をかけて煙を上げる。
朝の風は谷を上る。
ふた晩の野営で、夜明けの焚き火の煙がどちらへ倒れるかは見ておいた。
煙は主の鼻の後ろから届く。
獣は火を嫌う。長く生きた獣なら、なおさらよく知っているはずだ。
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配置について間もなく空が白み始めた。
待つ。
岩の冷たさが膝から腰へゆっくり上がってくる。
絞りに伏せているのは数えるほどだ。沢の水音しかしない。
エマは矢をつがえたまま岩と同じ色で固まっている。
セナは岩陰で胸の前に両手を構えたまま動かない。
マルセルは絞りの真ん中で剣を地に立て、目だけで谷の下を見ていた。
尾根の上の空だけが先に明るくなっていく。
頭の中でもう一度線をなぞった。
外れるなら、どこから外れる。
主が動かないなら勢子をかけ直す。
沢筋に出ないなら日のあるうちに谷の口へ布陣を戻す。
外れた先の線も引くだけは引いてある。
それを考え終える前に、谷の下で音が立ち始めた。
勢子だ。
剣の腹で盾を叩く音。岩を転がす音。人の声。
音の壁が谷の奥へゆっくり進んでいく。
来た。
最初は石だった。
沢の上の方から小さい石が水を跳ねて転がり落ちてくる。
次に群れの残りが来た。
六体。
昨日と同じ中型が岩のあいだへ駆け込んでくる。
エマの矢が先頭と二体目の脚を続けて抜いた。
転んだ二体をマルセルが順に斬り、跳んだ一体をセナの拘束が空中で縫い止める。
残りは岩から下りたナギがすれ違いざまに落とした。
三つ数えるあいだに、終わった。
そして、静かになった。
主が、来ない。
絞りの下の藪で大きい影が止まっているのが見えた。
角の先だけが藪の上に突き出ている。
擦り切れた古い角。
進まない。戻りもしない。
先に行かせた群れの音が消えたのを、藪の中で聞いている。
読みの上ではここで止まることになっていた。
当たってほしくない読みが当たった。
影は動かない。
こちらの息と向こうの鼻が互いを測っている。
年を食った獣の用心が、湿った朝の空気の向こうにあった。
戻られたら終わりだ。
矢は残り少ない。傷薬は半分を切っている。
誰の荷にも四日目の食料はない。
山の奥へ消えた主を追う備えは、もうどこにもなかった。
僕は斜面の中ほどで手を上げユルを見た。
光がひとつ、高くまっすぐ立った。
百も数えないうちに谷の下から煙が上がった。
朝の風に乗って煙は沢筋を這い上がってくる。
影は、すぐには動かなかった。
角の先が一度だけ、煙の方へ回る。
退き道がほんとうに塞がったのかを、最後にもう一度だけ確かめていた。
藪の影が動いた。
割れた藪から主が出てきた。
大きい。
擦り切れた角の下で年寄りの目がまっすぐこちらを見ている。
昨日まで数えていた中型が子供に見えた。
後ろは煙。先は岩のあいだ。
主は迷わなかった。
迷うことをやめた獣の速さで、絞りへ突っ込んでくる。
エマの矢が右の肩に立った。
止めるための矢ではない。
走る線を半歩ずらすための矢だ。
主の体が浅く左へ振れる。
そこへ岩陰からセナの拘束が走った。
光が後ろ脚に絡んで一呼吸だけ巨体を遅らせる。
中型なら群れごと縫い止める光を、この相手は力ずくで引きちぎっていく。
一呼吸でいい。そう頼んであった。
その一呼吸で、マルセルが正面に入った。
受けない。
剣の腹で角を外へ流して、頭の向きを半歩だけ変える。
ぶつかった重さでマルセルの足が石の上を滑った。
滑って、止まる。
矢と拘束で削いだぶんがそこで効いていた。
半歩ずれた首筋の真上に岩の出っ張りがある。
ナギがそこにいた。
上から一突き。
首の付け根に、ナギの剣が根元まで通った。
それでも主は止まらない。
岩のあいだを抜けてなお三歩走った。
三歩目で前脚が折れ、巨体が沢の浅い水の中へ倒れ込んだ。
水音が谷に長く響いて消えた。
それきり、動かない。
僕は最後まで声を出さなかった。
出せなかった、の方が正しい。
ただ、今日は要らなかった。
三日かけて、声より先に線が届いていた。
誰もすぐには動かなかった。
最初に音を立てたのは勢子だった。
谷の下から駆け上がってきて倒れた主を見て、声にならない声を上げる。
若いのが一人、冷たい沢に膝まで浸かったまま笑い出した。
笑いながら、目元だけが濡れていた。
ガランが息を切らして上がってきた。
倒れた主をひと回り眺めて先にこちらへ言う。
「下も全員立ってるぞ」
聞きたいことから先に言ってくれる男だった。
巨体のまわりだけ、沢の流れが割れて迂回していた。
セナが岩陰から出てきて自分の両手を一度開き、閉じた。
それだけでもう次の仕事の顔に戻る。
エマが岩の上で矢筒を覗いた。
「でかいの一発勝負。言った通りになったね」
マルセルは主の横に立って古い角に手をかけた。
「……外れたか」
「いえ」
掠れた声で返す。
「今日は、外れませんでした」
マルセルが鼻を鳴らした。
僕は地図の余白に終わった時刻と数を書いた。
いまさら手が震えて字が揺れた。
揺れても、書けた。
顔を上げると、ナギが岩の上に座っていた。
膝の上に小さな帳面が開いている。
真新しい紙だった。
三日森を歩いてきた荷物の中で、そこだけが新しい。
ナギの手が、開いた紙の上で止まっている。
どのページも白いまま、やがて帳面を閉じて懐へ戻した。
帽子の影で目までは読めない。
声はかけなかった。
あの男が持ち場の岩から下りてくる。
杖は最後まで抜かれなかった。
主が藪で止まっていたあいだだけ、柄に手がかかっていたのを僕は見ている。
男は死んだ主を見なかった。
帳面をしまうナギと僕を順に見ると、何も言わずにナギの隣へ歩いていく。
それからは終わりの段取りだった。
これも前の晩に決めてある。
証の角はマルセルとガランで落とす。
死骸は数えて巣に残った分とまとめて油をかけて焼く。
火の番。風下の見張り。荷のまとめ直し。
決めた通りに人が散っていった。
燃え始めは煙が重かった。
油が回る頃に火が立って谷の岩肌を浅く照らす。
群れの湧いていた谷の奥がただの静かな谷へ戻っていく。
巣だった岩の奥からは骨と毛の積もりが出てきた。
何年ぶんあるのか、誰にも分からなかった。
数えた死骸は依頼の紙の見積もりの倍に近かった。
外れている前提で多い側に倒した僕の数字よりまだ上だ。
「全部、紙の通りか」
ガランが角を縄で縛りながら言った。
「外れた分も入れて、紙の通りです」
「……どっちが化け物か、分からねえな」
口は悪いが縄を締める手は丁寧だった。
ユルが薬箱を抱えて戻ってきた。
「傷薬、結局倍はいりませんでしたね」
「……いらなくて、よかった」
「ですね。余って帰るのがいちばんです」
若い組の一人が僕のところへ来た。
出立の前の晩、地図を写させてくれと言ってきた組の一人だ。
「あんたのあれは、何なんだ」
何、と聞かれても困る。
「……普通に、やってるだけです」
掠れた声が最後まで届いたかは怪しい。
それでも若いのは何度かうなずいて持ち場へ戻っていった。
群れは要を抜けば崩れる。
ノートに書いたあの一行を、群れの大きさに合わせてやり直しただけだ。
三日かかった。それだけのことを17人で間違えずにやった。
昼前には谷を出た。
焼いた巣の煙が、まっすぐ尾根へ上っていくのが見えた。
帰り道は布をほどきながら歩いた。
行きに木へ結んだ印の布。
退く時のために結ばせた布は誰も退かなかったから、帰り道の目印に役を変えた。
ひとつほどくたび森がひとつ後ろへ流れていく。
荷は来た時の半分もない。
食料は食べたぶん、矢は射たぶん軽くなっている。
そのぶんマルセルの背負子だけが重い。
布で巻いた証の角は依頼主に渡すまでいちばん強い者が背負う。
これも紙に書いた通りだ。
沢の渡りは行きよりも素直だった。
水は膝の上まで。
言われるより先に若い組が荷を頭の上へ上げる。
対岸でそれを見ていたガランは何も言わなかった。
言うことが残っていない顔だ。
森が切れて畑の先に町の壁が見えた頃、セナが隣に並んだ。
水袋を差し出してくる。
「声、まだ駄目でしょ」
「……ん」
「いいよ、喋らなくて。今日は私が多めに喋るから」
それから本当に宿の飯の話と、村の畑の話と、帰ったらやることの話を一人で続けた。
髪の緑のリボンが夕方の光で時々色を変える。
うなずくだけでいい帰り道は悪くなかった。
道の脇の猟師小屋は、戸に板が打ちつけられたままだった。
次にここを通る誰かがあの板を外すのだろう。
麓へ下りてくる群れはもういない。
ナギとあの男は北門の手前で列を離れた。
別れの言葉はなかった。
ナギが一度だけ振り返って帽子のつばを浅く下げた。
つばの影が上がった一瞬、懐のあたりがわずかに膨らんでいるのが見えた。
三日のあいだ一文字も書かれなかった、真新しい帳面だ。
北門をくぐった時には夜になっていた。
通りの灯りが目に沁みるくらい明るい。
三日ぶりの町は春の夜の匂いがした。
ギルドの窓はまだ明るく、受付にルナ叔母さんがいた。
15人の頭数をルナの目が二度数える。
「……全員で帰ってくるのが、いちばんの上がりだよ」
それから息を吸っていつもの声に戻った。
「報告は明日。あんたら、まずはメシ食って寝な」
異論は、誰からも出なかった。
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解散する前に、皆で行きつけの食堂に寄った。
体のあちこちがいまごろになって重さを思い出している。
食べ終えた者から一人、二人と店を出ていく。
僕も腰を上げかけて、店の隅に灯りがひとつ残っているのに気づいた。
マルセルだ。
一人だけ帰らずに、卓に紙を広げて炭の欠片を握っている。
時々指を折って数えては、紙に何かを書きつけていた。
マルセルが紙に向かうところを僕は初めて見た。
「……マルセル」
掠れた声で呼ぶと、振り向かずに返事が来る。
「寝ろ」
「戻る前に。朝のあれ、再開していいですか」
炭が、止まった。
「明後日からにしろ。明日まともに立てたらの話だ」
「……はい」
店を出る前に一度だけ振り返った。
マルセルの紙には数字が並んでいた。討伐の数ではないのは一目で分かる。
ただ、その数字が何を示しているのか、今の僕には分からなかった。
人に水や飯の量まで書かせておいて、自分はその手で何も書かない男だ。
そんなマルセルがいま、炭を握って動いている。
灯りはまだ、消えそうになかった。




