第46話「大型討伐(中)」
沢の水は地図に引いた線より一段多かった。
浅瀬はまだ生きているが、膝までのはずの流れが腿まで来ていた。
17人が荷を持ち上げて一列で渡る。
雪解けの水は刺すように冷たい。
浅瀬の真ん中で若い組の一人が荷ごと流れに傾いた。
隣にいたガランが腕一本で襟を掴んで立て直す。
「荷は頭の上だ。言われた通りにしろ」
僕の決めた渡り順をガランが僕より厳しく守らせる。
「外れたな」
対岸でマルセルが僕を見た。
「外れました。多い側に」
「それも読みの範囲内ってわけだ」
外れることまで読みのうちに入れてある。
それでも、外れ方の大きさは胸のどこかに引っかかった。
森に入ると道はもう人の道ではなくなっていた。
獣道を拾いながら、印の布を木に結んで進む。
帰りの目印だ。
行きで迷わない者も、退く時には迷う。
日のあるうちに岩場の手前へ着いた。
火を二つ。風下側と岩場側。
番は半分ずつ。順番は紙の通りに回す。
ナギとあの男は火の輪から離れた岩の陰に座を取った。
ナギは帽子をかぶったまま壁に背を預けて目を閉じている。旅慣れた者の眠り方だ。
あの男がその手前で火と岩のあいだを塞ぐように座っていた。
火の番が僕に回ってきた時、膝の上で地図を開いた。
昼に渡った沢の水量を線の横に書き足す。
外れた分はそのまま残しておく。
明日の線は今日の外れから引き直すものだ。
夜のあいだ、谷の奥で二度、低い音がした。
遠吠えとも地鳴りともつかない音。
番をしていた者が皆、一度ずつ森の奥を見た。
夜明け前には全員を起こした。
空が白み始める前に岩場の上から谷を見下ろす。
谷の口は両側が岩壁で、出口は荷車二台分の幅しかない。
ここなら数の差が消える。
口の前に前衛の三組。岩場の上に弓と魔法。荷と補助はその十歩後ろ。
紙に引いた通りに人が置かれていく。
囲むなら一度で決める。
受付でルナ叔母さんの言った通りにやる。
谷の口を塞いで出てくる群れを間引く。
主の足元から、群れをまるごと削ぎ落としていく。
朝のいちばん白い時間に、それぞれが持ち場へ並んだ。
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最初の波は夜明けと同時に来た。
押し出してきた中型を三組の前衛が受け止める。
エマの矢が岩場の上から先頭の足を抜く。
止まった一体をマルセルが斬り、横へ逃げる一体をセナの拘束が縫い止める。
「二波、右寄り!」
僕の声で右の組が一歩詰める。
詰めた分だけ群れの抜け道が消える。
セナの戦い方はDに上がってからまた一段変わっていた。
拘束で足を止め、止めた一体に攻撃の魔法を重ねる。
二つの魔法の継ぎ目がほとんどない。
止める、撃つ。止める、撃つ。
波が来るたび、同じ拍子が正面の左半分を支えていた。
ナギは受けのいちばん前にいた。
押し出す群れへ正面から踏み込み、列の要を一突きで抜く。
要を失った一塊が散って、前衛の負担が一段軽くなる。
何度見ても目では追いきれない速さだ。
そしてナギの位置だけは僕にも読めない。
線の外を動いて、線の穴だけを正確に埋めていく。
教えたわけでも頼んだわけでもない。
群れの崩れる場所が最初から見えているような動き方だった。
ガランの組は右の受けを固めていた。
ハルが盾で頭を抑え、ガランが刈る。
波の合間にガランが岩場へ目だけを上げる。
次はどっちだ、と目で聞いてくる。
声が出る前から聞く姿勢でいる者が増えていた。
あの男は岩場の上の端にいた。
杖は構えてもいない。
抜かずに済む位置に、最初から立っている。
ただ、今日はそれで終わらなかった。
抜いても、次の塊が来る。
散らしても、奥からまた湧く。
一突きで決まる戦いではない。
決まらないまま、陽が高くなっていく。
ナギが一度だけこちらを振り返った。
帽子の影の奥で何か言いたげに目が動いて、すぐ戦いに戻る。
ナギの剣は朝と同じ冴えのままだ。
冴えたまま、それでも終わらない。
たぶん、これまでで一番長い戦いになっていた。
僕は岩場の中段から全体を見ていた。
どの組の息が上がっているか。矢はあと何束か。
波と波の間隔は縮んでいないか。
見るものは決めてある。決めてあるから迷わない。
「三組目、息が上がってます。次の波で交代!」
「エマ、左の二体は捨てて正面!」
声を出すたび、崩れかけた形が元に戻る。
「交代! 二組目、下がって!」
合図で前衛が入れ替わる。
下がった組にユルの光が回る。
荷を真ん中に置いたから、どの組も十歩で補給に届く。
矢の束が岩場の上へ上がっていく。
陽が真上に来るまでに波は数えて九つ来た。
九つ目が引いた時、前衛の足元は死骸で一段高くなっていた。
足場が悪くなれば前衛を下げる。
下げる幅も先に決めてある。
昼を回る頃、波が一度薄くなった。
交代で下がった卓代わりの岩で誰かが干し肉を噛みながら言う。
「Cの依頼ってのは、こういうもんか」
「こういうもんなんだろうよ」
疲れてはいるが、折れた声ではなかった。
誰がいつ下がるかで揉めない。
揉める理由は組む時に潰してある。
休んだ組が戻り、削れた組がまた下がる。
回る。
紙の上で組んだ通りに戦いの形が回っていく。
数が多いほど、瞬発は決め手にならない。
決め手になるのは続けられる形の方だ。
夜明け前の積み上げと同じだ。
僕にできるのはそれだけで、今日はそれが効いていた。
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昼を過ぎた頃、数が読みを越えた。
多い側に倒した見積もりのさらに上。
受ける数が増えていく。
「しつけえな!」
マルセルが斬りながら吠える。
「波ごとに増えてます! 巣の全部を吐き出してる!」
全部を吐き出す。
その不自然さに気づいた時には、もう始まっていた。
波の出が一度、ぴたりと止んだ。
静けさの中で前衛が息を整える。
その息継ぎの隙間に右手の斜面から土の崩れる音がした。
最初は土煙しか見えなかった。
煙の中から角が出てくる。
一本ではない。
数えるのをやめるくらいの数が、崩れた土ごと斜面を滑り下りてくる。
去年崩れた、あの斜面だ。
人は通れないから行程から外した。
人が通れない場所を、獣は通る。
台帳は崩れた場所が崩れると教えていた。それを、僕は人の足でしか線を引いていなかった。
「右! 斜面から別動!」
声が届くより早く、マルセルが動いていた。
右端の組が呑まれる前に自分が側面へ走り込む。
先頭の二体を続けざまに斬り伏せ、崩れかけた右端を背中で支えた。
「マルセル、深追いです! 右翼まで戻って!」
声は届いている。
届いていても、戻る道の方が先に塞がった。
だが、数が多すぎた。
斜面の下は足場が悪い。
踏み込んだマルセルの足が崩れた土に取られ、半歩遅れる。
その半歩のあいだに群れがマルセルの背中側へ回り込んでいく。
囲まれる。
頭の中で線を引く。
エマの矢は遠い。ユルの光は防ぎに回っている。
僕の声で動かせる誰もが半呼吸ずつ遠かった。
僕が線を引き直すより早く、光が走った。
セナの拘束だった。
マルセルの背中へ回った数体がまとめて光に縫い止められる。
続けて放った攻撃の魔法が止まった群れの真ん中に穴を開けた。
「マルセル、左に!」
セナの声が飛ぶ。
マルセルが振り向かずにその穴へ跳び、囲みの外へ抜けた。
拘束から攻撃への継ぎ目のなさは、朝から正面を支えていたあの拍子だ。
セナは自分の戦いの形のまま、マルセルの方も間に合わせた。
抜けたマルセルが一度だけセナの方を見た。
何か言いかけて、群れへ向き直る。
セナはもう次の拘束に入っていた。
助けた側も助けられた側もそれきり振り返らない。
別動はまだ生きている。
斜面から下りた半分が、谷の口とは別の流れになって横へ広がっていく。
正面と側面。
二枚で受ければどちらも薄くなる。
そして別動の鼻先にあるのは前衛だけではない。
真ん中の荷。補給の山。ユルたちのいる場所だ。
あれを潰されたら隊列が崩れる。
岩場の上に目をやると、隊列の補助に回っていた男と目が合った。
その目は、今の僕が考えている線と同じ方向のように感じた。
二枚では受けきれないなら、二枚では受けない。
「荷から先に下げます! ユル、補助と荷を浅瀬へ!」
「全組、谷の口を捨てます! 浅瀬まで下がって沢を背に!」
一拍、戦場が止まった。
朝から塞いできた口を捨てろという声だ。
迷う息遣いが伝わってくる。
「こいつの声は俺の声だ! 下がれ!」
マルセルの怒鳴り声が押した。
その声を受けて、前衛が受けながら下がる。
受けながら下がるのは、ただ受けるより難しい。
ユルの光が下がり道を照らし、エマの矢が追いすがる先頭を縫い続ける。
一組ずつ、昨日渡った浅瀬まで足を運ぶ。
殿はマルセルが取った。
いちばん削れているはずの男が、いちばん後ろでいちばん大きな声を出す。
「慌てんな! 背中は見せるな! 半歩ずつだ!」
浅瀬に着いた全員が増水した沢を背にして向き直った。
背中で水音が鳴っている。
冷たい飛沫が首筋にかかる。
昨日は渡るのに難儀した深さが、今日は誰より頼れる壁だった。
深い流れは獣も渡れない。
背中を沢に預ければ、囲みは正面の一枚に変わる。
外れた水量が、いまは壁になっていた。
谷の口を捨てられた群れは勢いの行き場を失う。
ここからは待ちだ。
人がいなければ、獣はいちばん歩きやすい道を選ぶ。
選ぶはずだ。そう見込んでいた。
読み違えていれば、正面の一枚ごと押し潰される。
待つと決めてから波が割れるまでの数十呼吸が、今日のどの波より長かった。
横でセナが小さく息を吸うのが聞こえた。
正面の波が割れた。
半分が獣道の方へ流れ込んでいく。
紙の上に引いておいた退路の線の通りに。
そしてあの出口は一人で塞げる広さしかない。
獣道の方へ目をやると、ナギはもうそちらを向いていた。
僕の声より先に、行き先だけは読めている。
最後のひと押しだけが僕の仕事だった。
「ナギ! 獣道の出口、二列目の大きいの!」
ナギが返事の代わりに地を蹴った。
出口で詰まった別動の二列目。
ひと回り大きい一体を最短の線で一突き。
要を抜かれた別動が音を立ててほどけた。
着地したナギが剣を払い、出口の前にひとりで立つ。
逃げ戻る群れの方がナギを避けて散っていった。
ほどけた群れはもう群れではない。
散った数体が森の奥へ逃げ戻り、正面の波も目に見えて細っていく。
押し返した、のではない。
行き場をなくした群れが自分から崩れていった。
陽が傾く頃には、午前に塞いだ谷の口にも死骸の山が二つできていた。
浅瀬の岸で全員がしばらく動けずにいた。
誰かが座り込む。誰かが短く笑い出す。
笑いながら、その手はまだ剣を握ったままだった。
「……数えるのもうんざりだな」
ガランが剣を下ろして息を吐いた。
間引きとしてはこれ以上ない出来だ。
それなのに、誰の顔にも終わった顔がない。
主が、まだ一度も姿を見せていない。
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二晩目の野営は誰もが口数少なだった。
火のそばで武器を直し、傷を拭い、交代で眠る。
ユルが倍に持ってきた傷薬はもう半分を切っていた。
それでも立てない者は一人も出ていない。
エマが焚き火の明かりで矢羽根を数え直していた。
「残り三束。明日はけちって使うよ」
「明日は、数を撃つ相手じゃないはずです」
「でかいの一発勝負か」
エマが矢筒の口を縛り直した。
ナギが火の向こうから僕を見ていた。
「線の通りだったね。外れたところまで」
「外れ方は、外れましたけど」
「……ボクは今日、キミの線の上で戦った」
ナギが薪の爆ぜる音の方へ目をやった。
「初めての戦い方だったよ」
それだけ言って岩陰へ戻っていく。
谷の奥はもう真っ暗だ。
僕の線は今日の群れには届いた。外れたところも、外れ方の内だった。
届かなかったのは一箇所だけだ。
群れを吐き出させ、半分を崩れた斜面へ回した一体。
その動きにはまだ一本も線を引けていない。
明日は、そこへ一本引きに行く。




