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第44話「Cランク」

マルセルがCランクに上がった。


その知らせを聞いたのは依頼帰りの夕方だった。


雪解けの水が路地の端を流れ始めた頃。

冬のあいだ凍りついていた溝の水がまた音を立てている。

テルナは春を迎えていた。


Cへの昇格はパーティの皆が前から意識していた。

片付けた討伐の数も、難度も、昇格の目安にはとうに届いている。

あとはギルドの審査が通るのを待つだけ——その「あと」が、今日だった。


皆で受付に報告へ寄ると、依頼の控えに判を押しかけたルナ叔母さんが手を止めた。

奥の棚から書付と布にくるんだ小さなものを出してくる。


「マルセル、昇格が認められたよ。今日からあんたはCランクだ」


布の中身は新しいプレートだった。


マルセルが古いプレートを台に置いて新しいCのプレートを受け取る。

Dの時のものより色が濃い。縁の打ち出しの形も違う。

それを一瞥する。


「……そうか」

「そうか、じゃないよ。テルナでCは久しぶりなんだ」


受付に並んでいた冒険者たちが振り返った。


テルナではCランクの冒険者は多くない。

依頼の格が上がる。報酬も、扱える品目も一段違ってくる。

マルセルを見る目が、その場でわずかに変わった。


当のマルセルは面倒くさそうにそれをベルトへ下げた。

「そんなこと言って、仕事が増えるだけだろうが」

そう言って受付の前から早々に離れていく。


照れを隠している時のマルセルの歩き方だ。

肩を回す癖がこういう時に出る。


マルセルの昇格はそれだけで酒場の話の種になる。

今夜あたりに噂は界隈をひと回りするはずだ。


---


手続きが終わり受付から人が引く中、僕は帳場に残った。

セナも何も言わずに隣に並ぶ。


「叔母さん。少しいいですか」


ルナが書付から顔を上げ、目で帳場の端を示した。

陰になるところへ移って僕は声を落とした。


「マルセルの伝手を母さんの薬のことで当てにするのは——違いますか?」


「言うと思った」


ルナが帳場の台に肘を置いた。


「リク。分かっているとは思うが、一応言っておくぞ。

Cに上がったのはマルセルだ。あんたでもセナでもない。

マルセルの伝手に乗るんじゃなくて、自分の足場を固めるんだ」


「……はい」

「まあ、自分から聞きに来たのは正直でよろしい」


ルナの目元が緩んだ。


「薬はこれまで通りあたしの伝手で回す。そこは心配するな。あたしの仕事のうちだ」


あたしの仕事のうち。

その言い方が少し引っかかった。


マルセルのパーティに入ったことで、僕とセナの依頼報酬は格段に上がった。

その報酬のうち、生活資金を除いた全てを薬の購入に充ててもらっている。


それでも、母さんの調整剤を買い続けられる額には届いていないはずだ。

正確な金額はわからないが、いまだに叔母さんが不足分を補填してくれているのだろう。

受付の給金だけで補填分を回し続けられるものなのか。

僕たちの不足を満たす金がどこから出ているのか、僕はまだ正面から聞いたことがなかった。


聞いてはいけない気がして、聞かずにいる。

ルナが「あたしの仕事のうち」と言う時、その先に踏み込ませない響きがあった。


「いつもすみません」

「謝るな。気持ち悪い」


マルセルみたいなことを言う。

血のつながりはないのに、この二人は口の悪いところがよく似ている。


「自分で買えるようになりたいなら、自分が上がればいい」


ルナが僕を見た。


「焦るな。順番だ」


順番、という言葉を叔母さんはよく使う。

ひとつずつ片付けていく。その先頭は母さんにつながっている。


僕は頷いた。


セナはこの話のあいだ、一度も口を挟まなかった。

挟まずに最後まで隣にいた。


「話は終わり。——今夜は空けときな」


---


その夜、行きつけの食堂の奥に皆で集まった。


店の奥の長机をひとつ、まるごと占領した。

壁にかけたランプは油が切れかけていて、火が時々細くなる。

卓の上には湯気の立つ皿が次々に運ばれてくる。


エマが大ぶりの杯を持ち上げた。

「マルセルのCランク昇格に」


そう言って、一拍おいてから付け足す。

「あと、セナの誕生日に」


セナが目を丸くした。


「私の?」

「初春だろ。今日で16だってルナさんから聞いたよ」


エマが片眉を上げる。

「祝う口実は多いほうがいい。飲む理由にもなる」


セナが何かを言いかけて、やめた。


口の端が一度上がって、それを隠すように杯へ口をつける。

照れた時のセナはよくこの動きをする。


合同の祝いになった。


マルセルのCランクに、セナの誕生日が重なった形だ。

誰がそう決めたわけでもない。

ルナ叔母さんが受付の仕事を早めに切り上げて顔を出した時点で、流れはそうなっていた。


「あんたらが自分で宴を張れるようになるまで、あたしが先に祝ってやる」


そう言うと、叔母さんは一番奥の席に腰を下ろす。

卓の全体を見渡せる位置で、受付に座る時と同じ場所の取り方だ。


セナは最初、自分の誕生日が混じったことに戸惑っていた。

だがエマに杯を持たされ、ユルに皿を取り分けられているうちに、その顔がほどけていく。


去年の誕生日は二人きりの静かな夜だった。

ランプを一つ灯して、村から届いた手紙を順に読んだ。

聞こえたのは紙をめくる音。それだけ。


今年は卓を囲む顔がいくつもある。

村にいた頃、セナの誕生日を祝うのは二つの家族だけだった。

それが今はここにいる全員がセナの16歳を祝っている。


セナの居場所が村の外にも広がっている。

それを壁際から見ているのは悪い気分ではない。


いつかの記憶でも、こういう席に何度も座った。


あのときの僕は終わる時間ばかりを気にしていた。

祝いの席でもそんな気分は薄く、明日の段取りばかりを頭の隅で組んでいた。

席に座っているのに、心はそこになかった。


今夜はそれとは違う。

終わってほしくないと思っている自分に気づいた。


「しかし、よく上がりましたよね」

ユルがマルセルに杯を向けた。


「依頼の数は秋には足りてたからな。あとは上が判断するだけだったんだよ」


「それだけ?」


セナが杯を置いて身を乗り出す。

マルセルは「ああ」とだけ返して串の肉を一息に抜いた。


「でもマルセル、ここ最近はずっと『もう少し』って言われてたもんね」


セナが指を折る。


「討伐がいくつも続いたでしょ、難しいのも回ってきたでしょ、それから……」

「数えるな。鳥肌が立つ」


エマが横から口を挟む。

「プレート受け取った時、お前嬉しそうな顔してたもんな」


「してねえ」

「してた。見てたもん、私」


そんなやりとりに、ユルが「まあまあ」と片手を上げて割って入る。

こういう時に間に入るのはいつもユルの役回りだ。


「めでたい話じゃないですか。Cになったんだから、大物の討伐も受けられますよ」


ユルが杯を傾けた。


「でかいのは人手がいる。何人かで組んで入るやつです」

「この冬、いろんなパーティで受けたみたいなの?」


セナが言うと、マルセルが頷いた。


「ああいうのが増えるだろうな」


僕はその間、マルセルの手元を見ていた。

ベルトに下がった新しいプレートを、話しながら時々指の腹で確かめている。

口では面倒くさそうにしていても、手のほうは正直だった。


Cランク。

その響きが、僕の中で別の意味を持って残った。


夕方、受付で叔母さんに言われた言葉が耳に戻ってくる。

自分で買えるようになりたいなら、自分が上がればいい。


宴の終わり際、僕は頭の中でそれを並べ始めた。


Cランクまでに要ること。

正式登録。実績の積み上げ。昇格審査の基準。

それから、薬代を欠かさず出し続けられるだけの確かな収入。


順に並べていくとやることの輪郭がはっきりしてきた。


遠いことに変わりはない。

だが、霧の中を当てもなく歩くのと、道の先を見て歩くのとでは足の運びが違う。

やることが決まればあとは積むだけだ。積むのは得意なほうだ。


「リク。また、その顔してる」


顔を上げると、セナが僕の顔を覗き込んでいた。

いつのまにか隣の席が空いて、そこに移ってきている。


「祝いの席で考えごとしてる人、リクくらいだよ」

「やることが見えたから。頭の中で並べてた」

「そういうとこだよ」

「そういうとこって、何が」

「なんでもない」


セナがそう言って、僕の顔から目を離した。


呆れているようでも嫌そうでもない。

口の端がまた少し上がっている。

笑うのを我慢している時の顔。


その頬を卓のランプの火が照らしていた。


---


店を出ると、夜の空気はまだ冷たかった。


冬の終わりの湿った冷たさ。

頬に触れる風から乾いた鋭さは消えている。

路地に雪はもう残っていない。

雪解けの水が流れる音だけが足元のどこかでしていた。


マルセルたちは別の方へ歩いていった。

ルナ叔母さんは宿直に戻るといって、ギルドの方へ折れる。

宿までの夜道を僕とセナの二人で歩く。


しばらく行ってから、僕は足を止めた。


「セナ」

「ん、どうしたの?」

「これ」


懐から、布にくるんだ小さな包みを出して差し出す。

セナが立ち止まって受け取った。

布を開く。


中身はリボン。

セナがいつも結んでいる赤系のものではなく、深い緑色のものだ。


「リボン?」

「うん。替え」


セナが緑のリボンを街灯の薄明かりにかざした。


「替えって」

「赤いの、もう何度も結び直してるだろ。結び目のところ、糸がほつれかけてる。

そのうち切れそうだから、替えがあったほうがいい」


嘘ではない。

セナの赤いリボンの結び目がほつれかけているのを、依頼の最中に見ていた。


「色が地味だから依頼の時でも目立たない。

赤はもう持ってるから、別の色のほうがいいかと思って」


半月ほど前、別の用で寄った店に何色か並んでいた。

派手な色はセナには似合わない。栗色の髪に沈んで見えない色も避けた。

残ったのがこの深い緑だった。


セナはしばらく手のひらに載せたリボンを見ていた。


それから、小さく息を吐く。


「リクってさ」

「ん」

「替えのリボンを、誕生日に渡すんだ」


僕は黙った。


替えのつもりで選んだ。

依頼で汚れても困らないように実用で選んだ。

それは本当だ。


でも、半月前に見つけたそれを今日まで渡さずに持っていた。

今日がセナの誕生日だと知っていたからだ。

それも本当だった。


「……渡す日が、たまたま今日だっただけだから」


言ってから、いつもより早口だったと気づいた。


「たまたま、ね」


セナが緑のリボンを両手で包んだ。


胸の前で握るあの握り方。

大事なものを受け取った時に、セナがいつもする手の形。


去年は木彫りの飾りで今年はリボン。

渡すものは毎年違う。

受け取る時の手の形だけが村にいた頃から変わらない。


「ありがとう」

「うん」


「絶対——」


そこで言葉を切った。


「絶対」の続きは口の中に抑えられた。

口に出すと泣くと知っているからセナは抑える。

村の頃から続いている動き方だ。


僕は続きを聞かなかった。

セナが抑えた夜は僕も黙って隣を歩く。

それでいいともう知っている。


セナがリボンを布に包み直して懐にしまった。

それからまた歩き出す。

さっきまでより歩く速さがゆっくりになっていた。

僕も合わせて歩幅を落とす。

二人の足音が、夜の路地に低く続いた。


---


宿に着いて、廊下を挟んだそれぞれの部屋に分かれた。


戸を閉める前にセナが廊下からこちらを向いた。

緑のリボンをまだ手に握ったままだ。


「リクも、秋には15だね」

「うん」

「私はもう16。いまはふたつお姉さんだ」

「今だけだろ。秋になればひとつに戻る」


セナが軽く唇を尖らせる。


「……すぐ理屈っぽいんだから」

「ほんとのことだし」

「ひとつでもふたつでも、お姉さんはお姉さんなの」


セナはそう言うと自分の戸を閉めた。


部屋に戻ってランプを灯す。

鞄からノートを出して、机に広げた。


宴のあいだに頭の中で組んだことを、忘れないうちに書き写していく。


薬を自分の手で買えるようになるのはまだ先。

今は叔母さんの言葉に甘えるしかない。

だが、道筋は見えた。


マルセルが一段上がった。

セナが16になった。

冬のあいだに止まっていたものが、また動き始めている。


僕の前にも登っていく道が一本伸びていた。

その先にCランクがある。

さらにその先に、母さんの薬を自分の手で買える日がある。


一足飛びには行けない道だ。

それでも、行く先さえ見えていれば足は前に出る。

夜明け前に積んだものは、いつかその道のどこかで効いてくる。


廊下の向こうでセナの部屋の灯りが消える音がした。

僕はノートにもう一行だけ書き足して、それからランプを吹き消した。

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