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第43話「もう一度」

あれから何日か過ぎた。


早朝の練武場通いは続けている。

こんな時間には誰も来ない。白い息の立つ時間にひとりで木剣を振る。

かじかんだ手に息を吹きかけ、ヴァルドおじさんに教わった型をひたすらなぞる。


考えてから動くまでの一拍はまだ消えない。

頭で順番を確かめて、それから体が動く。

その隙間は数日続けたくらいでは埋まらなかった。


それでもやめる気はなかった。

村で剣の型を覚えたときも七日かかった。

体に入るまでには時間がいる。

それはもう知っている。


早朝に体を動かすぶん、朝起きるのが前よりつらい。

寝ても、芯のところに疲れが残るようになった。

だが、それくらいはいつものことだ。

無理をしているつもりはなかった。


依頼の方は相変わらず調子がよかった。

パーティの中で段取りを組んで皆を動かす。

僕のやり方は、Dランクの魔物が相手ならちゃんと役に立つ。


前は、その役に立つ自分と、ナギに勝てない自分の落差が、夜になると効いてきた。

いまは前ほどではない。

ナギに勝てなくても、僕のやってきたことはどこかで形になっている。

その手応えだけは底にいたあいだも消えずに残っていた。


昼のあいだ、依頼の合間に僕はノートを開くようになった。

書く気がすっかり戻ったわけじゃない。

ただ、書き方を変えてみたかった。


今までのノートは、どうすればナギに勝てるかばかりだった。

ナギの癖。ナギの初動。動きの順番。

どの線も、ナギに追いつくための線だった。

追いつこうとして、追いつけなかった線だ。


その向きを変えてみる。


ナギに勝つ方法ではなく――ナギがやっていないことは何か。

それを思いつくままに書き出してみた。


戦う前に相手のことを調べておく。

負けたらなぜ負けたかを書いて、次は同じ負け方をしない。

長く動けるように力の配分を考える。


書いてみて気づいた。

どれも特別なことじゃない。

当たり前すぎてわざわざ書くほどでもない。


でも、ナギはたぶんどれもやっていない。


やる必要がなかったからだ。

見た瞬間に動ける人間は、相手を調べなくていい。

負け方を覚えなくていい。負けないからだ。

力の配分も要らない。多くは一撃で終わるからだ。


才能のある人間は、当たり前を飛び越えていく。

僕は飛び越えられない。

だから、ナギが飛ばしていくものをひとつずつ拾って積む。


昨日、ノートに書いたばかりの才能の届かない場所。

そこへ行く道はこういう地味なことの繰り返ししかなさそうだ。


---


その日の午後、僕は依頼を早めに切り上げて練武場へ向かった。


冬の午後の練武場は人がまばらだ。

隅で打ち込みをする冒険者の音が乾いて響いている。


ナギがいた。

壁に背を預けて、木剣を一本無造作に提げている。

こちらに気づいても表情は動かない。

いつもの何を考えているのか読めない横顔だ。

あの男も円の外に立っていた。

相変わらずテルナを出ていく気配はない。

人手の足りない討伐ばかりを選んではこなしているようだった。


久しぶりに見るナギは少しも変わっていなかった。

ひと月、毎日のように倒され続けた相手だ。

その前に立つと、負けた感覚が体の奥からよみがえってくる。

膝がわずかに重くなった。

でも、もう引き返す気はなかった。


手合わせを頼むのは久しぶりだった。


底にいたあいだは木剣を握る気になれなかった。

握ったところでまた同じように倒されるだけだ。

そう思うとどうしても足が向かなかった。

あれから、ナギとは一度も剣を合わせていない。


僕はナギの前に立った。

口を開く前に一度だけ息を整える。


「もう一度、お願いできますか」


ナギが帽子のつばを上げた。

影の奥の目が僕を見る。


「……しばらく来なかったね」

「はい」

「もう来ないのかと思ってた」

「……すみません。少し止まっていました」

「いいよ。やろう」


断る気配はなかった。

ナギが壁から背を起こす。

あの日と変わらない、構えとも呼べない構え。

立っているだけなのに、踏み込む隙がどこにも見当たらない。


壁際でセナが打ち込みの手を止めた。

久しぶりに自分から手合わせを頼む僕を驚いた顔で見ている。

心配を隠すのが下手なくせに、止めには来ない。

僕がやめると言わないのを知っているからだ。

だが、その目には心配だけではないものが混じっていた。


マルセルも腕を組んで円の近くに来た。

何も言わず、ただこちらを見ている。


あの男はいつものように、ナギの剣ではなく僕の方を見ていた。


人のいない練武場で、ひとり型をなぞってきたことは誰も知らない。

セナにも、マルセルにも、言っていない。

これから起きることは、僕だけが知っている小さな賭けだ。


「いつでも、いいよ」


ナギの声を合図に、二人のあいだの間が張りつめた。


今までと違うことが一つだけある。


いつもの僕はここで一度考えていた。

相手の重心。次に来る手。こちらの一歩。

全部を読んでから動こうとする。

考えて、それから動く。

その一拍が、いつも致命的な遅れになっていた。


今日は、考えるのをやめた。


夜明け前に何百回となぞった動き。

頭で順番を唱えるより先に体へ預ける。

読むのではなくただ出る。


ナギがゆっくりと木剣を持ち上げた。

こちらの構えを影の奥の目が一度だけなぞる。

何を企んでいる、とでも言いたげに。

息を止めた。

来る。


ナギが動いた。

右から。いつもの初動だ。


考えるより先に、体が半歩開いていた。


頭で「右」と判じるより、わずかに早く足が出ている。

早朝の練武場で嫌になるほど繰り返したその通りに。

体が考えを追い越した。


ナギの木剣を受け流せた。

ほんのわずかにだ。

今までなら間に合わずに肩で受けていた一撃。

それを、今日は剣の腹で逸らせた。


鈍い音が腕の芯まで抜ける。


その瞬間だった。


ナギの動きが止まった。


まばたきほどの間だ。

だが、確かに次の一手が遅れた。

返ってきた反応がいつもと違った。

ナギの体がその違いを一拍、測りかねていた。

帽子の奥の目がわずかに見開かれる。

予想と違うものを見た顔だった。


(間に合った――)


そう思ったのもつかの間だった。


止まったのは本当に短い間。

ナギはすぐに体勢を立て直し、二手目を繰り出してくる。

さっき縮めたはずの一拍はもう元の遅れに戻っていた。

考えるより先に、とはいかない。

二手目は頭で追った。追いきれない。


肩を打たれた。

三手目で足を払われる。


僕は床に倒れた。

背中から落ちて、天井を見上げる。

息が上がっていた。


円の外が小さくざわついた。

セナが息を呑む。

マルセルが低く唸った。


「今、ナギの剣が止まらなかったか」


誰かがそうつぶやくのが聞こえた。


いつもと同じ負けだ。

五手も保たなかった。指先がナギに届いたわけでもない。


でも、同じではなかった。


ナギの攻めの流れが、今日は一度だけ途切れた。

あの止まった一瞬。

誰も気づかないくらいの小さな淀み。

それは、確かにあった。


数えきれないほど倒されて初めてだ。

僕の側の動きでナギの剣が止まったのは。


ナギが木剣を下ろした。


すぐには何も言わない。

帽子の影の奥から、倒れたままの僕を見下ろしている。


それから、ぽつりと言った。


「今の……何をした」


低い声だった。

あの日、僕の剣を「届かない」と言い切った時とは響きが違う。


倒れたまま僕は答えた。


「受けられるかな、と思って。やってみました」

「いつもより速かった」

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「今日は、考え方を、少し変えたんです」


それ以上は言わなかった。


夜明け前にひとりで型をなぞっていること。

考える前に体が動くまで、同じ動きを積んでいること。

どれも口にしなかった。


まだ、人に話せるほどの形になっていない。

今日のあれもまぐれかもしれない。

口にした瞬間にただのまぐれにされてしまいそうで怖かった。


形になるまでは黙っておく。

そう決めていた。

今日のこれが本物かどうかは、明日からの自分が決める。


ナギはしばらく僕を見ていた。

答えのその先を待っているようだった。

でも、僕はそれ以上は言わなかった。

言葉にするには、まだ何もかもが早すぎた。


「考え方」


ナギがその言葉を口の中で転がした。


「キミは、いつも書いてるね。あのノートに」

「はい」

「あれに書いたことを……体で、やったのか」


問いというより、確かめる声だった。


ナギにはそれがうまく呑み込めないらしかった。


一度見れば体が勝手に覚える人間だ。

書くという手間をナギは知らない。


前に一度、ナギは言っていた。

ボクは忘れたことがない、と。

一度見た動きは勝手に体が覚えている、と。


その人から見れば、僕のやり方はひどい遠回りに見えるだろう。

忘れるから、書く。

書いたものを、何百回もなぞって、ようやく体に入れる。


「ボクは、書かない」


ナギが声を落とした。


「書かなくても、できる。だから、書く意味がずっと分からなかった。

でも――今のキミの動きは」


そこで、ナギは言葉を切った。

言いかけた何かを自分でも掴みあぐねている。

才能だけで来た人間が、初めて才能の外にあるものに触れた。

その戸惑いのように僕には見えた。

影の奥で、その目が僕のノートの方を一度だけ見た。


書いて、積んだものが剣の速さに追いついた。

ほんの一瞬だけ。

それをナギは初めて目にしたのだ。


ナギの視線が、円の外のあの男に向いた。


あの男はいつもより、わずかに目を見開いていた。

僕の剣でもナギの剣でもない。

その二つのあいだに起きた、あの淀みを見ていた。


何かに気づいた顔だった。

僕の知らないところで、あの男だけが何かを掴んだようだった。


何を見つけたのかは、僕には分からない。

だがその目は、ナギを見るときとも、僕を見るときとも違っていた。

退屈そうにしていたその目が初めて面白いものを見つけた。

そんな、かすかな熱がそこにはあった。


ナギはもう何も言わなかった。

ただ、その目が今までと違っていた。


これまでのナギは、僕を理屈に合わないものを見る目で見ていた。

勝てないのになぜ立つのか分からない、という目だ。


今日の目は違う。


分からないものを見る目から、何かを見つけた目に変わっていた。

値踏みでも侮りでもない。

初めて、ナギが僕の「やり方」そのものを見ている。


「また来るよ」


ナギはそれだけ言って背を向けた。

あの男が出口でその背中を迎える。


すれ違いざま、男がナギに何か短く言うのが聞こえた。


「……あれは、面白い」


ナギは答えない。

前を向いたまま歩いていく。


去り際、男の視線がもう一度だけ僕を捉えた。


二人が出ていく。


僕はナギの一撃を受け流した手のひらを開いて閉じた。

まだ、しびれが残っている。


勝てたわけじゃない。

今日も負けた。

五手も保たずに転がされた。


でも、今日の負けは昨日までの負けと違う。

僕の積んだものが、ほんの一瞬だけあのナギを止めた。

それはまぐれじゃない。

夜明け前の誰も見ていない時間が、確かにここに出た。


あの手応えだけはこの手が覚えている。


勝てる日が来るのかはまだ分からない。

それでも、今日のナギは確かに僕の剣を見た。


明日もまた、誰より早く練武場に立とう。

誰も見ていないあの時間に。


今日つかんだ手応えはまだほんの一瞬きりだ。

その一瞬をいつか、もっと長く引き延ばすために。

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