第42話「三百ページ」
朝、目を覚ますと窓の外が明るかった。
市場の音はいつもの調子で響いている。
その音が今朝はやけに遠く聞こえた。
熱はすっかり引いていた。
起き上がろうと思えば起き上がれる。
指は動く。膝も曲がる。
なのに僕はしばらく天井を見ていた。
昨日の夜は手紙の中にいる自分を信じてみたかった。
その気持ちは嘘ではない。
だが朝になると、夜のあいだ灯っていたものはもう薄かった。
村の皆が覚えていてくれた僕はたしかに僕だ。
でも、ここにいる僕は相変わらずナギに勝てない。
頭のノートの先のページは白いままだ。
前を向いてまた沈む。
昨日からの僕はその繰り返しだった。
枕元のノートに目をやった。
最初のページにアーシャさんの手紙を挟んだのは昨日の夜のことだ。
今朝はまだ開いていない。
---
手紙をもう一度見たくなった。
書くためじゃない。
昨日挟んだ手紙がちゃんとそこにあるかを確かめたかった。
ノートを開く。
最初のページにはアーシャさんの手紙が挟まったままだった。
その下にある字が目に入る。
村を出てすぐの頃の字だ。
線が震えて文字の大きさも揃っていない。
道順。持ち物。野宿できる場所。
何も分からないまま、長老やヴァルドおじさんに聞いたことを必死に書き留めた跡だった。
そのままページをめくった。
一枚、また一枚。
最初の頃の字は見ていられないほど拙い。
急いで書いたところは線が走って、自分でもほとんど読めない。
道に迷ったこと。雨で薪が湿って、火が起こせなかった夜のこと。
うまくいかなかったことほど細かく書いてあった。
めくるうちに字が変わってくる。
テルナに着いて依頼を覚えはじめた頃だ。
薬師の名前。報酬の相場。魔物の出る区間。
叔母さんに教わった町での暮らし方。
書く手がだんだん落ち着いてくる。
さらにめくる。
叔母さんの計らいでマルセルに見習いを許された頃。
セナと二人で初めて依頼を受けた頃。
ティムの名前と薬の名前を調べて回った頃。
失敗するたびに書き足した細かい注意書き。
字はもう震えていない。
やがて、ナギの動きを書いたページに来た。
左の踵。沈む肩。右から。
同じことを角度を変えて何度も書いている。
そのページだけはインクが濃く、紙が波打っていた。
いちばん多く書いて、いちばん必死で、それでいて、いちばん報われなかったページ。
最後のページまでめくった。
書いたページは三百を超えていた。
指で挟むと、束は思ったより厚い。
これだけのものを一年とすこしで書いたのか。
もう一度、端からぱらぱらと繰ってみる。
紙の擦れる音が指の下で続いていく。
一枚一枚がどこかの一日だった。
眠い目をこすって書いた夜。依頼から戻って疲れた手で書いた夜。
その一日一日がこうして手の中で厚みになっている。
指の腹に紙の縁が一枚ずつ引っかかった。
角の擦り切れたページ。雨に濡れてよれて波打った紙。
うまくいかなかった日のものほどインクが濃い。
それはその日にちゃんとつまずいた証だ。
つまずくたびに書いて、書いたから次は同じ転び方をせずにすんだ。
この厚みは転んだ数そのものだ。
転んだ数だけはたぶん誰にも負けない。
誇れることではないのかもしれない。
だがそれは、確かに僕がここまで重ねてきたものだった。
書こうと思って書いたわけじゃない。
書いておかないと不安で前に進めなかっただけだ。
止まらなかったというより、止まれなかった。
止まれなかった分だけページは確かに増えていた。
昨日届いた手紙が外から僕に届いたものなら。
この三百ページは僕の中からずっと積もり続けてきたものだ。
外と、内。
その両方が僕に同じことを告げている気がした。
お前はちゃんとここまで来た、と。
ナギのページをもう一度開いた。
そこを見ていると、あの日のことがよみがえってくる。
何度倒されても立ち上がったあの日。
円の外から一人の男が僕の前に膝をついた。
ナギと一緒にいた名前も知らないあの男。
ひどい痣を治癒魔法で消してくれた。
そして、低い声で聞いた。
何が、あんたをそこまでさせる。
問い詰める声じゃなかった。
本当に分からない、という声だった。
あのとき、僕は一言だけ答えた。
何と答えたかはもう思い出せない。
ただ、答えられたということは、あのときの僕には立つ理由があったのだ。
ナギも似たことを言っていた。
勝てないと分かっていてそれでも立つ。
その意味がボクには分からない。
敵わない相手のどこを見て、何を残すつもりなんだ、と。
あのときはすぐに返せなかった。
ページをめくると、もう一つ声がよみがえる。
ナギに五手まで合わせて、そのあと一手も保たずに沈んだ日。
マルセルが隣に座って言った。
お前のそれは、俺にはできなかったやつだ。
昔の自分のことを少しだけ話した。
積んだだけで何ひとつ積み上げてはいなかった、と。
それきりマルセルは口を閉じた。
三人とも僕が勝ったか負けたかを見てはいなかった。
勝てない僕が負けても書いて、立ち続けることを見ていた。
僕はこのひと月、できないことの方ばかり見つめてきた。
ナギに勝てないこと。ノートの先が書けないこと。
その二つを毎日のように並べ立てていた。
あの人たちが見ていたのは、僕が並べていたのとは別のところだった。
---
ナギには勝てない。
今日も明日も、たぶんこの先ずっと。
ナギ自身がそう言った。
リクの剣はボクには届かない、と。
それは、もう認めるしかなかった。
ひと月、毎日のように打ち合って分かったことだ。
どれだけ手元を盗んでも、その差は一歩も縮まらない。
才能に追いつく方法はない。
それは認める。
認めた上で、僕はノートのページに目を落とした。
三百ページ。
ナギは、こんなものを一枚も持っていないだろう。
持つ必要がないからだ。
見た瞬間に動ける人間に、書いて覚える手間はいらない。
そこで、ふいに引っかかった。
才能のある人間がやらなくていいこと。
それを、僕はこの一年ずっとやってきた。
追いつこうとして、追いつけない場所がある。
あの日、ナギに負けてそう思った。
その考えに、ずっと押し潰されてきた。
なら――と、今は思う。
追いつかなくて、いい。
才能の届く場所で勝とうとするから、いつまでも届かない。
だったら、才能が届かない場所まで行けばいい。
ナギは、強い。
でも、その強さはナギが立っている場所でしか振るえない。
誰も追ってこないところまで歩いていけば、見上げる相手も、見下ろす相手も、もういない。
才能のある人間がやる必要のないこと。
書いて、覚えて、体に染み込ませること。
それを誰よりも遠くまで積み上げてしまえば、その場所にはナギも来られない。
来る必要がないからだ。
ヴァルドおじさんの手紙を思い出した。
段取りも、型と同じだ。
考えなくても体が動くところまで積め。
頭で段取って、それから体が動く。
その間にある一拍の遅れ。
その一拍を消せたとき、段取りは本当の武器になる、と。
才能が届かない場所。
それはきっと、そういう場所のことだ。
方法を考えるまでもなく動けるところまで突き詰めた、その先のことだ。
根拠はなかった。
それでも、できる気がした。
これだけ書いて、ここまで来た自分なら、と。
ナギに勝てない。その事実はびくともしない。
それなのに、さっきより重く感じなかった。
勝ち負けで計らない場所が確かにあると思えたからだ。
---
ノートを閉じようとして手が止まった。
最初のページの拙い字。
あれを書いていた頃の僕は、何ひとつすぐには覚えられなかった。
道順を一つ覚えるのにも、書いて、書いて、ようやくだった。
剣の型もそうだった。
ヴァルドおじさんに型を教わったとき、覚えるのに七日かかった。
セナの倍以上だ。
五日目はかえって型が崩れて、何度やっても戻らなかった。
でも、やめる理由がどこにもなかったから続けた。
人より覚えるのが遅い。
それは昔からだった。
でも。
覚えてしまったあとはどうだっただろう。
最後の日になって、急に体が迷わなくなった。
それまで頭で唱えていた動きが、考えるより先に出るようになった。
あんなに手こずったのが嘘みたいだった。
一度そこまでいければあとは早い。
手が勝手に動いてくれる。
その型は結局、村の誰よりも長く体に残った。
覚えるまでが遅くて、覚えてからが速い。
そういうものなのだろう。
たぶん、みんな似たようなものだ。
そう思って、僕はそれ以上は深くは考えなかった。
---
その夜、僕はペンを持った。
久しぶりだった。
ノートの、三百ページ目の続き。
真っ白だったところに、一行だけ書いた。
才能が届かない場所へ。
書いてみると、線は震えていなかった。
最初のページの字とはもう違う。
たった一行だった。
それでも、ペンはちゃんと動いた。
書き終えてランプを消した。
窓の外は晴れていた。
暗く澄んだ空が広がっている。
次の朝、いつもより早く目が覚めた。
外はまだ暗い。
市場の音もしない。誰も起きていない時間だ。
僕はそっと宿を出た。
通りに人影はない。
家々の明かりはまだどこも落ちたままだ。
冬の明け方の空気は刺すように冷たい。
吐く息が白く流れてすぐに消える。
ギルドの裏の、誰もいない練武場へ行った。
立てかけてある木剣を一本だけ握る。
握りが朝の冷えで凍えていた。
かじかんだ指に何度か息を吹きかける。
村にいた頃、ヴァルドおじさんに型を教わったのも、こんな寒い朝だった。
あの頃は言われるままに剣を振っていた。
今日は、何のために振るのかを自分で知っている。
ヴァルドおじさんに教わった型をゆっくりとなぞった。
足を運ぶ。腰を落とす。剣を振り下ろす。
一度。もう一度。
頭で手順を唱えてから動くのではなく、唱える前に体が動くように。
段取って動く。そのあいだの一拍が消えるまで、何度でも。
何度なぞっても、剣筋はまだぎこちない。
頭で先に確かめてからでないと体が次の形に移らない。
ヴァルドおじさんの言う一拍は、まだはっきりと残っている。
すぐに消せるものではないと分かっていた。
いまできるのは、これを繰り返すことだけだ。
同じ動きを繰り返す。
それだけのことなのに、終わりはまるで見えない。
息が上がる。汗が冷えた背に滲んだ。
手は止めなかった。
何度目かで足がもつれて、型が崩れた。
そのたびに、また最初からなぞり直す。
崩れてもまた積み直せばいい。
覚えるまでが遅いのはもう知っている。
誰も見ていない。
褒められるわけでも、強くなったとすぐ分かるわけでもない。
それでいい。
セナにも、マルセルにも、まだ言っていない。
うまくいくかどうかも分からないことを先に口にするのは、僕のやり方じゃなかった。
形になるまでは黙って続ければいい。
こんなふうに、誰も見ていない時間に黙々と続けることを、僕はどこかで知っている。
いつ、どこでかは思い出せない。
報われるあてもないのに手を動かし続ける——その感覚だけが、妙に手に馴染んでいた。
白い息が暗い空にのぼって溶けていく。
東の空の端がほんのわずかに白んできた。
夜明けまではまだ間がある。
ペンが動きはじめた。
体も動きはじめた。
まだ、何も変わってはいない。
ナギには明日もきっと勝てない。
それでも僕は木剣を構え直した。
夜が明けるまで、もう一度、同じ型をなぞる。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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