第41話「村からの便り」
熱が引いて三日が過ぎた。
体はもう動く。
朝に依頼へ出て、夕方に宿へ戻る。
日のあるうちは前と変わらず立ち回れた。
パーティの中で指示を出すのも、隊列の後ろから声をかけるのも、前と同じだ。
戻ってこられないのは夜だ。
ノートはまだ開けない。ペンを持つ気になれない。
持ったところで、何を書けばいいのか分からなかった。
開けば、あの白い余白がまた僕を見返してくる。
そう思うと手が伸びなかった。
その日も依頼を終えてギルドに寄った。
北の森ではぐれの魔物を二体。危なげなく片づけた。
体はちゃんと動く。
動くのに夜になると、何かが止まる。
夕方のギルドは、依頼から戻った冒険者で混み合っている。
受付の列に並んで報酬を受け取り、帰ろうとしたところで、ルナさんに呼び止められた。
「リク。ちょっと待ちな」
ルナさんが受付の奥から布でくるんだ包みを出してきた。
紐の結び方に見覚えがあった。村のやり方だ。
「村から。あんたとセナ宛だよ」
母さんの薬を村へ送るのに、ルナさんの伝手の便を使わせてもらっている。
テルナと村は人と荷が行き来する。
その帰りの便に村からの荷が載ることがあった。
何ヶ月かに一度の細い糸のようなやり取りだ。
「ありがとうございます」
「エラのことだろ。早く読みな」
ルナさんはいつもより声を落としてそう言うと、次の冒険者の方を向いた。
気を遣わせたのかもしれない。
包みは思ったより軽かった。
それなのに、受け取った手がふいに重くなった。
母さんに何かあったんじゃないか。
よくない報せだったら。
そう思うと宿までの道をいつのまにか急いでいた。
---
部屋に戻って灯りをつけた。
机に向かって包みの紐をほどく。
中には手紙が何通か入っていた。
畳まれた紙は、ざらついた村の薄い紙だった。
指でつまむと、テルナの紙より繊維の粗さが伝わってくる。
それだけで村の手触りがよみがえってくる。
差出人は字ですぐに分かった。
細くて小さい母さんの字。
ひどく不器用な父さんの字。
きちんと整ったアーシャさんの字。
そして、大きく角ばったヴァルドおじさんの字。
セナ宛の一通もあった。
それは後で渡そうと枕元に置く。
村を出てから手紙をもらうのはこれで二度目だ。
一度目は初めて薬を送ってからしばらく経った頃。
あの時はセナと僕の二人宛に送られた手紙だった。
今度のはそれより厚い。それぞれに宛てられてる。
何が書いてあるのか、開く前に指先が止まった。
まず、アーシャさんの手紙を開いた。
母さんのことを書いてくるならアーシャさんだ。
父さんも母さんも多分、病状のことは書いてくれない。
封の代わりに、紙が丁寧に折り込んである。
リクへ
こちらは皆、変わりありません。
エラの熱はあれから落ち着いています。
送ってくれている薬がよく効いているようです。
夜中に咳き込むこともずいぶん減りました。
食べられる日が増えて、顔色も戻ってきています。
畑はもう雪の下です。今年の冬は去年より早く来ました。
ヴァルドは相変わらず、村の見回りで忙しくしています。
アーシャさんらしい字だった。
医師の目で症状のことが一つずつ順を追って書いてある。
薬の飲ませ方。熱が出たときの手当て。次の便で送ってほしいもの。
読み手が困らないように、必要なことが並べてある。
文字を追っていると故郷の景色が浮かんだ。
雪をかぶった畑。煙を上げる家々。母さんの寝ている薄暗い部屋。
ここから歩いて一週間の場所に、まだあの暮らしがある。
僕がいなくても故郷は回っている。
それでも、母さんの熱が下がったと、こうして知らせてくれる人がいる。
読み終えると、強張っていた肩から力が抜けていった。
母さんは大丈夫だ。
少なくとも今は。
ここのところ頭の隅にずっとあった重さがわずかに軽くなる。
僕が稼いだぶんの薬がちゃんと母さんに届いて効いている。
それだけは確かだった。
手紙の終わりに一行だけ、調子の違う文があった。
症状の話でも薬の話でもない。
アーシャさんが僕に宛てて書いた言葉。
リク。あの夜のことを今でも覚えています。
あなたは自分で動こうとしていた。
そういう子は、遠くまで行きます。
その三行を僕は二度、読み返した。
一度目は意味がうまく入ってこなかった。
二度目にようやく、言葉の重さが胸の奥に届いた。
あの夜。
すぐにどの夜のことか分かった。
母さんが倒れて、テルナ町まで薬を取りに行くしかなくなった夜。
僕は家にいるのが苦しくて外に出た。
父さんは鍛冶場でずっと鎚を振っていた。
その音を聞いているのもつらかった。
気づいたらセナの家の前に立っていた。
そこへ行こうと決めて歩いたわけじゃない。
足が止まらなかった。
戸を叩いてアーシャさんに聞いた。
薬とか、自分で探せるものはないか、と。
無い、と言われた。
テルナ町に行くしかない、と。
それだけ聞いて、僕は引き下がった。
何も決められないまま家に帰った。
結局、次の朝にセナが「私が行く」と言ってくれて、それでようやく足が動いた。
「一緒に来て」と。
あの一言がなければ、僕はまだ部屋で順番を並べていたかもしれない。
だからずっと、あの夜の自分を情けないと思っていた。
一晩かけて、誰が行けるかを並べただけ。
父さんは家を離れられない。ヴァルドさんやアーシャさんには村の仕事がある。
並べ終えて、残ったのが自分だと分かっても足が動かなかった。
セナに引っ張ってもらわなければ何もできなかった。
ただ、固まっていただけだ。
そう、思っていた。
でも、アーシャさんは違うふうに見ていた。
自分で動こうとしていた。
そう書いてある。
言われてみれば、あの夜、僕はたしかに自分の足で歩いていた。
誰に言われたわけでもなく、夜の道をアーシャさんの家まで。
何かできることはないか、と。
自分では何もできなかった夜だと思っていた。
でもアーシャさんは何かをしようとした夜として覚えていた。
同じ一つの夜が見る人によってこんなにも違う。
あのとき、アーシャさんは何か言いかけて、やめた。
僕がその続きを聞かずに引き下がったからだ。
その聞きそびれた言葉が一年経って、手紙になって届いた気がした。
村を出る朝、母さんが僕の手を握った。
痩せて細くなった指に握り返す力が残っていた。
あの手の熱をまだ覚えている。
僕はあの手のためにここまで来た。
家を出ると霧が深かった。
セナと二人、村の道を歩き出した。
振り返らなかった。
振り返ったら、何かが崩れそうだった。
あのときも足は止まらなかった。
怖くなかったわけじゃない。
でも、気づけば前に足が出ていた。
今になってそのことに気づく。
セナの足音が隣にあった。
二人の歩幅はいつのまにか合っていた。
あの朝から、セナはずっと隣にいる。
熱で寝込んだ日も、こうして手紙を運んでくれた今日も。
母さんの手紙は短かった。
リクへ
無理をしていませんか。
ちゃんと食べて、ちゃんと眠っていますか。
母さんは大丈夫です。
あなたが思っているより、ずっと。
字が震えていた。
線の終わりがかすれて、ところどころ薄くなっている。
ペンを握るのもまだ億劫なはずだった。
それなのに、書いてあるのは僕とセナの心配ばかり。
自分のことは最後の一行だけ。
その一行も僕を安心させるために書いたのだと分かった。
母さんはいつもそうだ。
自分が一番つらいときでもこっちの心配ばかりしている。
父さんの手紙はもっと短かった。
体を大事にしろ。
それだけだった。
父さんらしいと思った。
鎚を振るときはあんなに正確な手で、慣れないペンを握って一行だけ。
何度か書き直したのかもしれない。
そう思うと、その短さがかえって重かった。
短い言葉のほうがかえってあの家の人たちだと思えた。
言い尽くさないぶん、伝えたいことだけがまっすぐ残る。
包みの底にもう一通残っていた。
大きく角ばった字。ヴァルドおじさんからだ。
ヴァルドおじさんがちゃんと手紙を寄こすのは初めてだ。
前回はアーシャさんの手紙の端に一言「メシ食ってるか」とだけ。
村にいた頃も、必要なことだけを短く言う人だった。
その人がわざわざ筆を執っている。
リクへ
セナからお前の様子を聞いた。
いつも先に準備をして、段取りを組んで依頼に当たっているそうだな。
悪くない。お前らしいやり方だ。
昔、剣の型を教えたのを覚えているか。
お前は型を覚えるのに、七日かかった。セナの倍以上だ。
だが最後の日に、お前の体は迷わなくなった。
頭で動きを唱えるのをやめて、考える前に動けるようになっていた。
あれは、覚えたんじゃない。積んだんだ。
今のお前の段取りは、まだあの型ほど積まれていないんじゃないか。
頭で段取る。それから体が動く。
その間に、一拍遅れがある。
考えてから動くうちは、その一拍は消えない。
段取りも型と同じだ。
考えなくても体が動くところまで積め。
そうなって初めてお前の段取りは、本当の武器になる。
ヴァルド
追記.メシはちゃんと食えよ。
短い手紙だった。
それでも、これまでヴァルドおじさんが口にしたどの言葉より長く感じた。
一拍の遅れ。
その言葉には心当たりがあった。
ナギと打ち合うとき、僕はいつも一度考える。
相手の重心。次に来る手。こちらの一歩。
考えて、それから動く。
ナギは考えていない。見た瞬間にもう動いている。
あの差はぜんぶ才能なんだと思っていた。
でも、ヴァルドおじさんは違うところを見ていた。
考えたことがまだ体に染みていないだけだ、と。
剣の型を七日かけて積んだときのように。
段取りも体に積めるのなら。
どう積めばいいのかはまだ分からない。
何ひとつ変わってはいない。
それでも、その手紙だけはもう一度はじめから読み返した。
夜、宿の廊下でセナに会ったときにアーシャさんからの手紙を渡した。
「セナ。アーシャさんから」
セナは黙って受け取って、その場で開いた。
読みながら何度か唇を結んでいた。
最後まで読むと、ふう、と息を吐く。
「……お母さん、元気そう」
「うん」
「リクのお母さんのことも、書いてあった。ちゃんと診てるって」
セナはそう言って、手紙を丁寧に畳んだ。
それからほんの少しだけ笑った。
ここに来てから、セナがそんなふうに笑うのをしばらく見ていなかった。
セナは何か言いたそうに僕を見た。
僕が顔を上げると、その目がまだ何か言い足りないように揺れた。
熱を出して寝込んでいたときも、セナはずっとそんな目で僕を見ていた。
けれど結局、何も言わずに手紙を胸に抱えて自分の部屋へ戻っていった。
その背中を僕は見送る。
セナにも帰りを待つ人がいる。
同じ手紙を受け取って、セナはもう前を向いていた。
---
その夜、僕は久しぶりにノートを手に取った。
書くためじゃなかった。
アーシャさんの手紙をなくさないように、どこかへしまっておきたかった。
ノートを開く。
最初のページは村を出てすぐの頃の字だった。
今よりずっと、拙い。
線が震えて、文字の大きさも揃っていない。
道順、持ち物、野宿できる場所。
何も分からないまま、長老やヴァルドおじさんに聞いたことを必死に書き留めた跡だった。
水場の位置。魔物の出る区間。一日に歩ける距離。
書いて、覚えて、その通りに歩いた。
それで、セナと二人でテルナまでたどり着いた。
あの頃の僕は書くしかなかった。
書いておかないと、不安で前に進めなかった。
その最初のページに手紙を挟んだ。
挟みながら、ふと熱の夢を思い出した。
雨の中をずっと歩いていた誰かの感覚。
報われなくても足を止めなかったあの感じ。
あれは、僕の知らない誰かの記憶だった。
それでも、やめなかったという感覚だけが、はっきりと残っていた。
そして今、手紙にも似たことが書いてある。
自分で動こうとしていた、と。
中から響いてきたものと、外から届いたもの。
その二つが同じことを言っていた。
あの夢の中にいた誰かも、村にいた頃の僕も、同じなのかもしれない。
報われるかどうかも分からないまま、ただ、足を動かしていた。
ノートを閉じる。
まだ、新しい一行を書く気にはなれない。
指は動くのに、その先が見えないままだ。
手紙を挟んだぶんだけノートは少し厚くなった。
たったそれだけのことが不思議と嫌ではなかった。
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母さんの薬のために僕はここへ来た。
それが始まりだった。
ナギに勝つためでも、強くなるためでもない。
母さんの薬を切らさないために稼ぐ。
それだけのはずだった。
いつの間にか、勝てないことばかりを数えていた。
書けないことばかりを数えていた。
でも、村の皆はそんな僕を知らない。
皆が覚えているのは、あの夜に自分の足で動こうとした僕だ。
書けない僕でも、勝てない僕でもなく、前へ進もうとした僕。
どちらが本当の僕なのか、今はまだ分からない。
村の皆が覚えていてくれた僕もたしかに僕だ。
あの夜は情けないだけの夜ではなかったのかもしれない。
ただ、手紙の中にいる僕を少しだけ信じてみたかった。
窓の外はもう暗い。
雨はいつのまにか上がっていた。
雲の切れ間に、星が一つ見えた。




