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第40話「残響」

市場の音で目が覚めた。


荷車の車輪が石畳を鳴らしている。

野菜を台に並べる音。どこかで樽を転がす重い響き。

値を呼ぶ声が一つ、また一つと増えていく。


いつもの朝の音だった。

ただ今朝は、どの音も雨にくぐもって遠くでぼやけている。

屋根を叩く雨の音だけが途切れずに続いていた。


それなのに、僕は起き上がれなかった。


指は動く。膝も曲がる。体が動かないわけではない。

ただ、寝台から体を起こすことができない。

起きて何をすればいいのかが分からなかった。


天井を見ていた。

板の木目が昨日と同じ場所にある。節の形も雨染みの位置も昨日見たままだ。

目を覚ました直後にほんの一瞬だけ見上げる場所だ。

普段はすぐに起きて、そのことなど忘れてしまう。

今朝はその一瞬が、いつまでも終わらなかった。


いつもならこうではなかった。


朝の音を聞けば体が勝手に動き出す。

枕元のノートを開いて昨日の最後の行を読む。今日やることを頭の中で三つか四つ並べ直す。

それから服を着て、窓の外がまだ薄暗いうちに宿を出る。

朝のいちばん静かな時間に頭を片付けておくのが、村にいた頃からの癖だった。

誰に教わったわけでもない。気づいたらそうしていた。


朝はやることが決まっていた。それがあるから起きられた。


でも今朝は、やることがあるのに、それをやる理由のところがぽっかり抜けていた。


依頼に行く。母さんの薬代になる。それは分かっている。

ノートを開いて、ナギの動きを書き起こして――そこで思考が止まった。

書いてどうなるのだろう。


昨日の夜、ペンが動かなかった。

線は引ける。動きも覚えている。

その線を引いた先に何があるのか見えなくなっていた。

白いままの余白がまだ目の裏に残っている。


枕元のノートに手を伸ばせば届く。でも伸ばせなかった。

開いたところで昨日の夜と同じ白さが待っているだけのように思えた。


窓の外は灰色だった。

朝になっても光が薄い。雨はやむ気配もなく、細い線を引いて降り続けている。

市場の音が賑わいの頂を過ぎても、僕は布団から出られないままでいた。


---


どれくらいそうしていただろう。


体を起こそうとして、頭の奥が重く揺れた。

視界の端がぐらりと傾いてまた枕に戻る。


熱い。


額に手を当てた。手のひらより額の方が熱い。

高い熱ではない。だが、体の芯にぬるい重さが居座っている。

腕を上げるのも首を回すのも億劫で、節々が内側から押されるように怠い。

寝間着の背中がうっすら汗で湿っていた。


冷えたのかもしれない。

このところ朝起き上がるまでの時間が日に日に延びていた。

体の芯に疲れが溜まっているのは自分でも分かっていた。

きっとそれが熱になって出たのだ。


依頼のことを考えた。

今日は北東の湿地でDランクの討伐があったはずだ。

行かなければ。体を起こさなければ。

母さんの薬は待ってくれない。


村を出る時、母さんはもう長くは立っていられなかった。

痩せた手で僕の頬に触れて、行っておいで、と笑った。

その手の軽さを今でも覚えている。


あれから一年。

薬で抑えてはいても、根っこのところは何も変わっていない。

僕が稼がなければ薬は途切れる。

それだけは、熱でぼやけた頭でもはっきりしていた。


それなのに体は布団に沈んだままだった。


そのうち、窓の外がさらに暗くなった。

朝から降っていた雨が、いつのまにか本降りに変わっている。

屋根を打つ音が、だんだん強くなっていく。


陽はもう高いはずなのに、部屋は夕方のように薄暗かった。

そんな頃、戸を叩く音がした。


「おい、リク」


マルセルの声だった。

返事をする前に戸が開く。


マルセルは部屋に一歩入ると、僕の顔を見るなり眉を寄せた。


「……顔が赤いぞ」


近づいてきて無造作に僕の額へ手を当てる。節くれだった、ごつい手。

冷えた手のひらが熱を持った額に心地よかった。


「熱があるじゃねえか」

「すみません。今日は、行けそうに」

「いい」


最後まで言わせてもらえなかった。


「今日は寝てろ。冬の雨にかこつけてギルドから依頼主に日程を変更させた。お前が理由じゃねえぞ」


言い方はぶっきらぼうだった。

けれど、マルセルがわざわざ宿まで様子を見に来たことの意味を僕は知っている。

普段は集合に遅れた相手を待ったりしない人だ。

ましてや天候を理由に依頼をずらすなんて普段は行わない。


マルセルは部屋をぐるりと見回した。

空の水差しに目を留めると、それを掴んで一度出ていく。

しばらくして水を満たして戻り、枕元に音を立てて置いた。


「飲め。熱の時は水だ。汗で出てくからな」

「……はい」

「飯は」

「……まだ、です」

「セナに何か持ってこさせる」


マルセルはふと、枕元に目をやった。

そこには閉じたままのノートが置いてある。

いつもの僕なら、こんな時間でも何か書きつけている。

マルセルはそれを知っているはずだった。


何か言うかと思った。

けれどマルセルは、ノートには何も言わなかった。


戸口で足を止めて背を向けたまま言う。


「焦るな、とは言わねえ」


僕は顔を上げた。


「焦ってんのは見りゃ分かる。だがな、体が止まれって言ってんなら今日は止まっとけ。それも段取りのうちだろう」


返す言葉を探す前にマルセルは出ていった。

足音が階段を下りていく。


段取りのうち。

僕が自分に言い聞かせてきた言葉だった。

それをこんな時に、こんな風に返されるとは思わなかった。

マルセルはずっと見ていたのだろう。


入れ替わるようにセナが入ってきた。


「リク」

「……セナ」

「マルセルから、お前が見ていてやれって」


セナはそう言って枕元に座った。

膝の上で手を組んで、それから組み直す。


いつものセナなら何か言うはずだ。

朝が早すぎるとか無理ばっかりするからとか、軽く笑いながら。

今日は何も言わなかった。


水差しに目をやって、僕が一口飲んだきりなのに気づくと、セナは布を水に浸して固く絞った。

それを僕の額に乗せる。

冷たさが熱の縁にじんわり染みた。布の重みでまぶたが自然と落ちそうになる。


「ありがとう」

「うん」


それきりセナはまた黙った。


膝を抱えて僕の横に座り、時々こちらを見る。

何か言いたそうにも見えたけれど、口は開かない。

代わりにぬるくなった布を取って、もう一度水で冷やして戻す。

布を絞る音。水の滴る音。窓を打つ雨の音。

部屋の中には、その音しかなかった。


一度、セナが口を開きかけた。


「リク、」


僕が顔を向けると、セナは言いよどんで、それから言った。


「……喉、渇いてない?」


たぶん、本当に聞きたいことは別にあった。

でも僕は、うん、とだけ答えて、差し出された水を一口飲んだ。


隣に誰かが座っているというだけで、雨の音が少し遠くなる。

こうして黙って隣にいるのは、村にいた頃から何度もあったことだ。

灯し試しの夜も、セナはこうして隣にいてくれた。


---


布の冷たさと雨の音に包まれてまぶたが重くなっていく。

熱のせいか、意識がゆっくり水に沈むように遠のいた。


熱に浮かされた頭の奥で、見たこともない景色がほどけていく。


――俺は、歩いていた。


雨の中を傘をさして。

傘の骨が一本、曲がっていた。

直す時間がずっとなかった。


夜だ。

車の音が遠い。

濡れた路面に、自分の足音と傘を打つ雨の音だけが続いている。

道の両脇の窓はもうどこも暗かった。


毎日、この道を歩いていた。


朝は、まだ外が暗いうちに家を出る。

大勢が下を向いたまま、ひとつの方へ運ばれていく。

誰も口をきかない。


昼は知らない街を回った。

頭を下げて、用件を言って、また頭を下げて出てくる。

待たされた末に会えないこともある。

それでも、また来ますと頭を下げた。


夜は机に向かっていた。

返しても返しても用件は増えていく。

終わりというものがどこにもなかった。


それでも一つずつ片づけた。

誰かに認められるわけでもない。

やってもやっても報われるわけでもない。


それでも足は止まらなかった。


止まったらどうなるのか。

それを考えるより先に、また朝が来て歩き出していた。


おかしいとも思わなかった。

普通だと思っていれば、たいていのことは続けられた。


歩道の先に段があった。


濡れた金属の段。

何でもない、いつもの段だ。


右足をかけた。


滑った。


足が前に流れ、体が後ろへ落ちる。

とっさに右手が伸びた。

手すりを掴もうとして。


指が触れた。


そう思った瞬間、指が動かなかった。

握れない。力が入らない。

何かが指のあいだをすり抜けていく。


それでも、手を下ろさなかった。

届かないと分かっていても、最後まで何かを掴もうとして、手を伸ばし続けた。


落ちる。

落ちていくその間も、俺はまだ、手を伸ばしていた。


---


そこで目が覚めた。


僕は寝台で目を見開いていた。

心臓が速く打っている。


夢の中で鳴っていた雨が、目を覚ましてもまだ続いていた。

屋根を打つ音。それが夢の雨なのか、今この部屋の外の雨なのか、しばらく分からなかった。


右手が宙に伸びていた。

何かを掴もうとした形のまま、指が固まっている。


ゆっくりと手を下ろした。

手のひらにうっすら汗をかいていた。


夢を見ていた。

でも、ただの夢とは違った。

雨。鉄の匂い。滑る足。動かない指。

どれも、僕には覚えのないものだ。


冒険者になってまだ一年。

あんな段に立ったことも、あんなふうに落ちたことも一度もない。

それなのに、体の奥にはっきりと刻まれたものがあった。


熱が、僕の知らない記憶をどこかから引きずり出してきたのかもしれない。

夢で見たものはもう薄れかけている。

でも、雨の音だけはまだ体の奥に残っていた。

とうに過ぎ去ったはずの雨が、いまになって追いかけてくるように。


顔を向けるとセナはまだそこにいた。

膝を抱えたまま僕の方を見ている。


「うなされてたよ。だいじょうぶ?」

「……うん。平気」


うまく言えなかった。

今のが何だったのかは僕自身、何も分かっていなかったから。


窓の外は雨のまま暮れかけていた。

朝より熱はいくらか引いている。

僕が目を覚ましたのを見て、セナがほっとした顔をした。


「ごはん、下でもらってくる」


セナが立ち上がる。

戸口まで行って振り返った。

何か言いかけて口を閉じ、それからもう一度開く。


「リクさ」

「うん」

「……ちゃんと食べなよ。今日くらい、何もしなくていいから」


それだけ言ってセナは出ていった。


何もしなくていい。


その言葉を口の中で繰り返した。

昨日の夜から僕は、ずっと自分にできないことばかりを数えていた。

書けない。勝てない。追いつけない。


でも、さっきの夢が遺していったものはそれとは違う場所にあった。


届くあてもないのに来る日も来る日も歩いて。

報われなくても足を止めなかった。

落ちていく間も最後まで手を伸ばすのをやめなかった――あの感じ。


誰のものなのかは分からない。

それでも、ずっと前から僕の中にあったような気がした。


ひと月前、ナギに倒され続けていた時にも似たものがあった。

次は違うと思おうとして、ふと怖くなった。

あのときは、届かないまま同じ場所を回り続けているようで、ただ怖かった。


でも今は、少し違って思えた。


回り続けた。

届かなかった。

それでもやめなかった。


起きたことは何も変わらない。

それなのに、裏返してみると、まるで違うものに見えた。


雨はまだ降っていた。


僕は手を握って、開いた。

指はちゃんと動く。


何かが書けるようになったわけじゃない。

立ち直った、なんて言えるものでもない。


伸ばした右手の先に残ったものは、不思議と嫌なものではなかった。


階段を下りていくセナの足音が聞こえた。

いつもよりゆっくりな足音。

その音も雨にまぎれてすぐに遠くなった。


僕は、何かを掴もうとした自分の手のひらをしばらく見ていた。

この手でもう一度ペンを握れるのかはまだ分からない。


それでも、握ろうとしたその感覚だけは――

雨が鳴りやんだあとも耳の奥に残る音のように、もう消えなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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