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第39話「止まるペン」

ナギの一段上を見たあの日から、ひと月が過ぎた。


そのあいだに僕は何度ナギと木剣を合わせただろう。

数えるのをやめるくらいには合わせた。


朝に依頼に出て、午後にナギと模擬戦を行い、夜にノートを開く。

ナギの動きを線に起こし、翌日それを試してまた倒される。

倒れたその場で新しい一行を頭に刻み、家に帰って紙へ写す。

朝になればまた、依頼と稽古が始まる。


その繰り返しをひと月、回し続けた。

前の世界で動かない日々を回していた時と何も変わらなかった。

依頼は母さんの薬代になる。

それだけはどんなに負けても止めるわけにいかなかった。


成果がなかったわけではない。

あの日、本気のナギには一手も保たなかった。

それが今は、その本気に三手までは食らいつける。

ナギの初動の癖を新しく二つ見つけた。

ノートのページはナギのことだけで八枚を超えていた。


それでも。


三手の先がどうしても続かない。

四手目でいつもナギは僕の知らない動きに変わる。

僕がひとつ覚えるたびにナギの引き出しがひとつ増えるようだった。

ひとつ越えた先に、すぐ次が待っている。

詰めたと思った距離がまた開く。


差は縮まらなかった。

正直に書けば、ひと月前より、わずかに広がっていた。


体の芯にも疲れが溜まっていた。

朝、起き上がるまでの時間が少しずつ延びている。

起きれば動けたし、動けるうちは休もうと思わなかった。


不思議なもので依頼の方はむしろ調子がよかった。

ナギに通じない読みもDランクの魔物が相手なら十分に通じる。

後方で出していた指示も、より隊の近くで出せるようになった。

中型のはぐれを二体、誰にも怪我をさせずに片づけた日もあった。


隊の誰かが「お前がいると楽だな」と笑う。

その言葉は嬉しいはずなのに、夜にはうまく効かなかった。

昼の「楽だな」は、ナギの前での無力を埋めてはくれない。

パーティの中で僕の段取りはちゃんと役に立っている。

役に立っているのにナギの前でだけは何の役にも立たない。

その落差が夜になると効いてきた。


夜にノートの前へ座る時間だけが日に日に長くなっていく。

昼の自分と夜の自分が別の人間のようだった。

昼は段取りで人を動かし、夜は一人で同じ負けをなぞる。

どちらが本当の僕なのか、だんだん分からなくなっていた。


セナは何も言わなくなっていた。

止めもしないし、笑いもしない。

稽古の合間にこちらを見てまた剣を振る。

その視線の数が前より増えている。


マルセルはあの日きりナギの話をしなかった。

飯に誘うと言ったきり、まだ誘ってこない。

たぶん、待っているのだと思う。

僕が自分の足で立てるようになるのを。


ナギとあの男は相変わらずテルナにいた。

出ていく気配のないまま、僕の手合わせに付き合い続けている。


その日も僕は倒されたあとでノートを開いていた。

膝の上で昼の動きを線に起こす。

影が差して顔を上げるとナギが立っていた。


「それ、何ページ書いたんだい?」


帽子の下から、僕の手元を覗き込んでいる。


「君のことだけなら、八ページ」

「八ページ」


ナギがその数を口の中で転がした。


「ひと月、毎日倒されて、八ページか」

「はい」

「勝てる見込みは」

「ありません」


僕がそう答えるとナギの目がすっと細くなった。


侮りではない。

理屈に合わないものを見る、あの目だ。


「見込みがないのに、八ページ書くんだ」

「書けるところまでは、書こうと思って」

「……変なやつだね」

「よく言われます」


「忘れるから、だっけ」


ナギがふいにそう言った。

前に一度、僕がそう答えたのを覚えていたらしい。


「はい。書いておかないと、忘れるので」

「ボクは、忘れたことがない」


それは自慢ではなく、本当に不思議そうな声だった。


「一度見た動きは、勝手に体が覚えてる。

だから、書くという感覚が、ボクには分からない」


ナギはしばらく僕を見ていた。

勝つためでも人に見せるためでもなく、負けだけを書き留める人間を。

帽子の影の奥でその目が何かを探すように動く。

理屈に合わない、と顔に書いてあった。

答えは聞かずに、ナギは帽子のつばを下げる。


円の外ではあの年上の男が黙って見ていた。

ナギの剣でもなく、僕のノートでもなく、その二つのあいだにある何かを。

あの男はいつも勝ち負けの外側を見ているようだった。


ナギが背を向けると男はその背中を迎えて二人で出ていった。


見られている、と思った。

勝てない僕をナギもあの男もずっと見続けている。


勝つところを期待されているわけではない。

ただ、なぜ立ち続けるのかを確かめられている。

その視線が不思議と嫌ではなかった。

それだけがいまの僕に残された、誰かとの細い糸のようだったからかもしれない。


僕は開いたままのノートに目を落とす。


八ページ。

ひと月分の倒れた記録だ。

ここから先をまた埋めればいい。

明日も倒れてまた一行増やせばいい。

次は違う。

そうやっていつか――


そう思おうとしてふと手が止まった。


次は違う。


その言葉を前にもどこかで思った気がした。

いつ、どこでかは分からない。

ただ、この感じだけを知っている。

何度も「次は違う」と思って何度も同じ場所に戻ってきた。

そういう繰り返しをずっと前から知っているような気がした。


知っているはずがない。

冒険者になってまだ一年だ。

それなのにこの疲れ方には覚えがある。

頑張っても届かないまま、それでも明日を回していく、この感じに。


記憶ではなく、感覚だけがそこにあった。

何度も「次こそ」と思いながら、来る日も来る日も机に向かった誰かの感覚。

その誰かはたぶん最後までどこにも届かなかった。

届かないまま、止まることもできずに毎日そこへ通い続けていた。


なぜそんな情景が浮かぶのか、自分でも分からない。

僕には机に向かう仕事も繰り返した何年もない。

ないはずなのにその疲れだけが体の奥に染みついている。


前の世界の僕はきっとこの疲れとずっと一緒に生きていた。

そう考えると不思議と腑に落ちてしまう。

腑に落ちてしまうことが何よりも怖かった。


何の記憶なのかは分からなかった。

分からないのに胸の奥がざらりとした。


ノートを閉じてその夜は早く横になった。


それから、考えてしまった。

考えたくなかったのに暗がりの中で勝手に浮かんでくる。


もし、ナギと同じ才能を持つ誰かが。

僕と同じだけ書いて考えて倒れたら。


その人はきっと僕の何倍も速く上へ行く。

僕がひと月かけて登る段差を半日で越えていく。

僕の八ページをたぶん一枚にまとめてしまう。


だったら、僕のやってきたことは何なんだろう。


これまで僕はこう思っていた。

才能には勝てなくても才能が見落とすものを拾えばいい。

拾って並べて積み上げれば、いつか自分だけの場所に立てる。

そこでなら、魔力がなくてもやっていける。

一番にはなれなくても、いらない人間にはならずに済む。


でも、その拾い方そのものを才能のある人間ならもっと上手くやる。

僕が何日もかけて拾うものを、ナギなら一目で拾うのかもしれない。

だとしたら、僕だけの場所なんてどこにもないことになる。

僕がいなくても誰かがもっと速くそこに立つ。

僕がいなくても何も困らない。


いちばん怖かったのはそれだ。

代わりはいくらでもいて僕が抜けても誰も困らない。

それでも抜けられなくてただ回り続けていた。

あの感じに今、まっすぐ戻ってきている。


ずっとこう信じてきた。

魔力がなくても頑張れば普通にやっていける。

人より遅くても積み上げれば、いつかは追いつく。

それが僕の「普通」だった。


でもその普通は。

才能のある人間が本気で取りに来ない場所でだけ、成り立つ普通だったのかもしれない。


ナギはそれを本気では取りに来ない。

取りに来る必要がないからだ。

必要のない相手に僕は方法で食らいついていた。

向こうがその気になれば、僕の積み上げごとまとめて越えられる。


天井の暗がりがやけに遠くに見えた。

見上げているのにその遠さはどんどん上へ逃げていくようだった。


翌日も僕はナギに倒された。

三手で終わった。

昨日より、一手短かった。


家に帰っていつものようにノートを開く。

昼間のナギの動きを書き起こすつもりだった。


ペンを握る。

ページに先を当てる。


――動かなかった。


書けないのではない。

左の踵も肩の沈みも覚えている。

線にしようと思えば、引ける。


ただ、その線を引いてどうなるのかが分からなくなっていた。


ペンの重さが急に変わったように感じた。

握り慣れたはずの軸が指の中でよそよそしい。

一画目をどこに置けばいいのか分からない。

握り直しても変わらなかった。

ペン先と紙のあいだの小さな隙間が、どうしても埋まらない。


一行書いてまた倒れる。

また一行書いてまた倒れる。

八ページが十ページになる。

それでいったい何が変わるのだろう。


いつもなら、書いている途中で次の手が見えてきた。

書くことが、そのまま考えることでもあった。

今夜は書こうとするほど、考えの方が先に止まっていく。

ペン先のインクが紙に触れる手前でためらっている。


ペンの先がページの上で止まったまま動かない。

指は動く。手首も動く。

動かないのは、書こうとする気持ちの芯のところだ。


こんなことは初めてだ。


村にいた頃もテルナに来てからも。

どれだけ疲れていても書くことだけはいつもできた。

書けば、明日が今日より少しましになる。

書くことが僕の手に残った、たった一つのものだった。


魔力がなくても頭がよくなくても書くことだけは誰にでもできる。

出来の悪い僕が席にいられたのは書いていたからだ。

書いて覚えて次に備える。

それだけが僕を僕のままでいさせてくれた。


そのたった一つがいま手の中で動かない。


才能がないなら、せめて誰よりも書けばいい。

そう決めてここまで来たはずだった。

その手が止まった今、足元には何も残っていないように思えた。


僕はしばらく、止まったペンを見ていた。

それから、そっと机に置く。


インクがページの隅に小さな染みを作っていた。

書きかけですらない、ただの点だ。

その点から次の一本を引くことが、今日はどうしてもできなかった。


ペンを置いた机の上がやけに広く見えた。

いつもは狭いと思っていた板が、今日はがらんとして、何を置けばいいのか分からない。


「普通」という言葉が、手の中でぐらりと揺れた。


頑張れば追いつける。


その当たり前が生まれて初めて当たり前でなくなっていた。


追いつけると思えたから頑張れた。

追いつけないかもしれないなら、僕は何のために頑張るのだろう。

その問いにノートは何も答えてくれない。

書けば道が見えたはずの紙が今夜は白いまま、僕を見返している。


何を書けばいいか分からないのではない。

何のために書くのかが、分からなくなっていた。

書いても、その先へ進める気がしない。

たぶん、それがいちばん、たちが悪かった。


窓の外はもう暗い。

明日も依頼はある。母さんの薬も買わなければいけない。

だから、止まってはいられないはずだった。


それなのに僕は開いたノートの白い余白から、目を逸らせなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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