第38話「もう一段、上」
ナギとの訓練から十日ほどが過ぎた。
あの男に治された傷はもう痛まない。痣も消えた。
マルセルからも療養を命じられ、同行に復帰できたのはここ数日前だった。
今日も午前の簡単な依頼をこなしたのち、練武場の隅でノートに向き合っている。
あのときの模擬戦で残ったのは、頭のノートに刻んだ三つの文字。
左の踵。沈む肩。右から。
僕はそれを部屋で紙に書き写した。
殴られながら拾った断片も机に並べればただの三行になる。
その三行の続きを毎晩埋めようとしていた。
勝てないのは分かっている。それでも負け方には種類がある。
何も見えずに倒れるのと、一つ見て倒れるのとでは後に残るものが違う。
あの日の僕は後者へ半歩だけ近づいた。
あともう少しだけ、半歩だけ前へ進めたかった。
やり方は前の世界と変わらない。
動かない仕組みを直すときは原因を一つずつ潰していく。
一度に一つだけ条件を変えて結果を見てまた一つ変える。
こんな作業は何度も経験している。いくつもの不具合をこうやって直してきた。
才能で飛び越える代わりに目の前の段差を一段ずつ登る。
三つの癖から対策を組んだ。
利き目の右から来るなら、はじめから半身を右へ向けておく。
そうすれば消える瞬間が視界の隅に残るかもしれない。
踵が浮くより早く、間合いを半歩切っておく。
肩が沈むのを合図に受けるのではなく身体ごと流す。
どれも小さい工夫だ。
ひとつでナギに勝てるものはひとつもない。
だからこそ、小さいことから積んでいく。
積めば、倒れるまでの時間が一秒は延びる。
僕に増やせるのは勝ち負けではなく、その一秒だった。
その刹那を増やすために、僕は何枚も紙を使った。
ナギの動いた線を引いて、来た角度に矢印を添える。
あの時も記録だけは誰より丁寧に取っていた。
出来の悪い人間が生き延びるには、後から振り返れる物がいる。
才能のある人間は、たぶんこんな紙は一枚も持っていない。
持つ必要がないからだ。
ふと顔を上げると、セナが打ち込みの手を止めてこちらを見ていた。
目が合うと、何も言わずに木剣を構え直して、また打ち込みに戻る。
村にいた頃、僕がひとつのことに沈み込むとセナはいつもこうだった。
急かさず、覗き込まず、近くで自分のことをしている。
一度だけ、セナが手を止めて訊いてきた。
「ねえ、そんなに書くことある?」
「負け方を書いてるんだ」
「……勝ち方じゃ、なくて?」
「勝ち方は、どうやっても僕には書けない。
でも負け方なら、いくらでも書ける」
セナは何か言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
代わりに、足元に転がっていた僕の水袋を拾って、膝の上のノートの横に置く。
それから何も言わずに、また打ち込みに戻っていった。
マルセルも気づいていたと思う。
ギルドの隅でノートを広げる僕を何度か遠くから見ていた。
声はかけてこない。
いつもより長く、その目だけがこちらに留まっていた。
セナがキリの良い数まで打ち込みを行い、僕の方へ歩いてくる。
その間に、この十日の工夫を紙の上で形にすることができた。
あとは試すだけだ。
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ナギとあの男はまだテルナにいた。
出ていく気配はない。
人手の足りない討伐ばかりを選んでは淡々とこなしている。
その日、僕は練武場の隅でナギに声をかけた。
口を開く前に一度だけ息を整える。
勝てない相手へ自分から挑むのは理屈に合わない。
それでも確かめたいことがあった。
「もう一度、お願いできますか」
自分から手合わせを頼むのは初めてだった。
ナギが帽子のつばの下で目を上げる。
「リク、キミから来るとはね」
「試したいことが、いくつかあるんです」
「……いいよ。面白い」
ナギは木剣を一本、無造作に提げた。
あの日と変わらない、構えとも呼べない構え。
立っているだけなのに入り込む隙が見当たらない。
セナが壁際で足を止めた。
心配を隠すのが下手なくせに止めには来ない。
僕がやめると言わないのを知っているからだ。
マルセルも腕を組んで円の近くに立った。
円の外にはあの日に僕を治した男がまた立っている。
ナギの剣ではなく、僕の方をもう一度見ていた。
何を確かめているのかは相変わらず読めない。
「いつでもいいよ」
ナギの一言を皮切りに二人の間に緊張が生まれる。
今度は読もうとしなかった。読もうとした半拍がそのまま隙になるのはもう知っている。
代わりに半身を右へ向け、来ると決めた方向だけを外さずに待った。
ナギが動いた。
やはり右からだった。
見えたわけではない。
待っていた方向と来た方向が重なっただけにすぎない。
それでも木剣を引きつけて初めて一撃を受け流せた。
鈍い音が腕の芯まで抜けていく。
踏みとどまった。倒れなかった。
あの日は何度やっても届かなかった一撃を、初めて自分の木剣で逸らせた。
その手応えが、腕の震えになって残っている。
円の中が小さくざわついた。
息を継ぐ間もなく、二手目が来る。
左の踵が浮いて肩が沈む。
紙に書いた順番のまま、合図が並んだ。
受けるのをやめて身体ごと横へ流す。
ナギの木剣がさっきまで僕のいた場所を空に切った。
二手。
あの日は一手も保たなかった相手の前で僕は二手立っていた。
セナが小さく声を上げる。
組んでいたマルセルの腕がわずかに下りた。
見物の数人が足を止めてこちらを見ている。
三手目。
踏み込んでくるナギの初動に半歩だけ先に身体が動いた。
振り出した木剣の先が、初めてナギの袖をかすめた。
触れた、と言えるほどでもない。
布の端を、ほんのわずかに揺らした程度だ。
どれだけ伸ばしても届かなかった背中に、指の先がいま触れた。
(これだ)
前の世界で動かなかった仕組みが初めて回った朝を思い出す。
誰も褒めない、歯車がひとつ噛み合っただけの朝。
あのときと同じ手応えがいま剣を握る手に伝っていた。
方法は間違っていなかった。
課題を一つずつ潰していけば、届かない差じゃない。
その分だけ、ナギの背中が近くに見えた。
四手目は肩の沈みが浅かった。
合図は合図だ。
半歩だけ引いて切っ先を鼻先でやり過ごす。
五手目でナギの足がふいに送り足へ変わった。
紙には書いていない動き。
身体が勝手に半身を深くしている。
木剣が頬の横をかすめて前髪を一筋持っていった。
打たれても倒れる前に身体が次の形を作る。
あの日は一手も立てなかった円の中で僕はもう五度、剣を合わせていた。
勝てるとは思っていない。
だが、見えている。
闇雲に打たれるだけだったナギの動きが、初めて細い線になって僕の中を流れた。
書きためた三行が身体の中でようやくつながっていく。
紙の上の文字が、剣の速さに追いついた一瞬だった。
見物の輪がいつのまにか倍になっている。
誰かが「あの相棒、本当に動いてねえか?」と低くつぶやいた。
セナは口元を手で押さえて瞬きもせずに見ている。
マルセルは組んだ腕をほどいて一歩前に出ていた。
このまま積み上げていけば、いつか――
そう思った瞬間、ナギの気配が変わった。
帽子の下の目がすっと細くなる。
それまで遊ばせていた左手が初めて木剣の柄に添えられた。
添えられた。それだけのことだった。
なのに円の中の空気の重さが変わる。
さっきまで片手で僕に付き合っていたのだと、その左手が教えていた。
次の一歩は見えなかった。
さっきまで見えていた踵も沈む肩も何ひとつ追えない。
同じ右から来たはずなのに速さがまるで違う。
受け流すつもりだった腕が空を掻く。
半身に構えた意味も半歩切った間合いもまとめて飛び越えられた。
気づいたときにはまた床に倒れていた。
どう打たれたのかも分からない。
背中に触れた石床の冷たさだけが先に伝わってきた。
痛みより先に分かってしまった。
僕が一段上がったその上にナギはもう一段、上にいた。
さっきまでのナギはまだ本気の途中だったのだ。
こちらが追いつきかけて初めて向こうは次の段を出してきた。
追いついたと思った場所は相手の通り道でしかなかった。
立ち上がる。構える。
「もう、一度」
今度は、一手も保たなかった。
構えた、と思った時にはもう床に倒れていた。
乗り越えたはずの視界の先には、もっと高い段差が現れている。
近づいたと思った距離が、瞬きのあいだにまた開いていた。
もう一度立っても、結果は同じだった。
さっき五手まで合わせられたのが、まるで嘘のようだ。
あの五手は、ナギが片手を遊ばせているあいだの、ほんの貸し出しでしかなかった。
才能は止まっていなかった。
僕が必死に一段を登るあいだに、向こうは涼しい顔でさらに上を作る。
詰めれば詰めるほど、その先がまだあると見せつけられる。
さっき指先が袖に触れた感触がまだ残っている。
あの一瞬だけは確かに近かった。
だからこそ、開いた距離が前よりも遠く感じた。
届きかけた手をそのまま振り払われたようだった。
これが追いつけない、ということなのかもしれない。
ナギが木剣を下ろした。
「今日は、五手まで合わせたね」
それだけ言って背を向ける。
褒めているのか、ただ確かめただけなのか、僕には読めない。
帽子の影でその表情は最後まで見えなかった。
歩き去るナギをあの男が出口で迎える。
何か短く言葉を交わして二人は練武場を出ていった。
去り際、あの男の視線がもう一度だけ、倒れた僕をかすめた気がした。
僕は床に座り込んだまま、しばらく立てなかった。
マルセルが隣に来て腰を下ろす。
「……惜しかったな、とは言わねえぞ」
「はい」
「あんなもん、惜しくもなんともねえ。届いてねえんだからな」
突き放すようでそうではなかった。
マルセルは膝に肘を置いてナギの去った方を見ている。
「俺もな、昔からそこそこ剣はできた。
だから、なんとかなるでずっとやってきた。
お前みたいに書いて考えて組み立ててなんてのは一度もやったことがねえ」
初めて聞く話だ。
「それである時から、ぱたっと伸びなくなってな。
気づいたら同じところを何年もうろうろしてた。
経験は積んでた。積んでただけだ。何ひとつ積み上げちゃいなかった」
昔、一度だけ勝てない剣士に会った。
そんなふうにもマルセルは言った。
名前もその相手がその後どうなったかも口にしない。
言わないまま、遠い昔の自分を見ているような横顔だった。
「あの頃の俺がもし、お前みたいに一つずつ書いてたらな。今ごろ、もう少し上にいたのかもしれねえ」
それきりマルセルは口を閉じた。
語る代わりに、セナに預けていたはずの僕のノートを僕の膝に落とす。
「お前のそれは、俺にはできなかったやつだ」
その声にいつもの軽口の温度はなかった。
からかうでも慰めるでもなく、自分の昔をひとつ置いていくような声だった。
マルセルが自分のことをこんなふうに話すのを僕は初めて聞いた。
いつも前にいて、いちばん強くて、迷いのない人だと思っていた。
そのマルセルにも超えられなかった相手がいたのだ。
膝の上のノートが、急にずしりと重くなった気がした。
ガキ、とは言わなかった。
いつもなら一言、減らず口を挟むところで今日は何も挟まない。
僕の肩を一度だけ叩いて腰を上げた。
「立てるようになったら来い。飯くらい付き合ってやる」
その背中を僕は座ったまま見送った。
ナギには今日も届かなかった。
一段上がってみせたら、その上からまた見下ろされただけだ。
登っても登っても、段差はいつも僕の一歩先で高くなる。
それを思うと、立ち上がる理由が一瞬だけ見えなくなった。
胸の奥の軋みは、あの日より少し大きくなっていた。
それでも僕は膝に手をついて立ち上がった。
立てるようになったら来い、とマルセルは言った。
だったらまず立つところからだ。
その軋みのとなりにマルセルの一言が小さく残っている。
俺にはできなかったやつだ。
意味はまだ半分も分からない。
分からないまま、僕はその言葉を頭のノートの隅にそっと書き留めた。




