第37話「敗北」
僕の「もう一回」を聞いて、ナギが小さく息を吐いた。
何度倒されても同じ言葉を繰り返す相手に、半ばあきれたような息だ。
「……物好きにも程があるね」
そう言いながらも木剣を提げ直す。
断る気はないらしかった。
円の外では誰も声を出さない。
また始まるのを黙って見ているだけだ。
今度は当てにいくのをやめた。
どうせ僕の剣はナギの体に届かない。
それならせめて長く立って、倒される前に一つでも多く見ておきたかった。
分の悪い時はいつもそうしていた。
押し返せないなら、時間を稼いで相手の手の内を覚える。
攻めるための時間ではなく、見るための時間を作る。
掴んだ癖は三つ。左の踵、沈む肩、右から。
頭では分かっている。分かっていても、体が間に合わない。
右を警戒すれば、木剣はもう左の肩を叩いている。
覚えた三つは、それ以上は何の役にも立たなかった。
最初の数回は、空白が一つずつ埋まる手応えがあった。
今はそれもない。
三つの癖を覚えても、四つ目が見えてこない。
打たれても打たれても、頭のノートの先のページは白いままだった。
身体中が熱を持って、痣になるところはもう数えきれない。
あとは、同じ場所を殴られ続けるだけだった。
それでも足は止まらなかった。
書くことが何も増えなくても、倒れれば手が勝手に床を押している。
なぜ立つのかは自分でもよく分からなかった。
勝てるわけでも、もう得るものがあるわけでもない。
それなのに、やめるという選択だけがどうしても頭に浮かばなかった。
痛いとも思わない。悔しいとも違う。
ただ、立っていないと落ち着かない。
それだけが、説明のつかないまま体に残っていた。
何度目かに膝をついた時、影が一つ、僕とナギのあいだに割って入った。
「――そこまでだ」
マルセルだった。
腕を横に伸ばして僕とナギを区切るように立っている。
壁際で見届けると決めていたはずの男が、自分から円の中へ踏み込んでいた。
「十分だろう。これ以上は、ただの稽古でもなんでもねえ」
低い声だった。
僕に向けたものではない。
半分はナギに、もう半分は自分に言い聞かせる声だ。
たぶんマルセルはずいぶん前から入りたかったのだと思う。
それを止めていたのは僕がまだやめると言わなかったからだ。
立てなくなる一歩手前まで来てようやく口実ができた。
そのように聞こえた。
僕は黙って木剣を下ろした。
もう一回、とは言えなかった。
言ったところで結果は見えていたし、食い下がるのは僕のやり方でもない。
立ち上がるだけ立ち上がって、それで終わりにするしかなかった。
セナが駆け寄ってきた。
僕の腕を取って痣になりかけた場所に目を落とす。
口を開くが、何も言わない。
言葉より先に握る手の方が強かった。
「平気だよ」
「……平気なわけ、ないでしょ」
セナの声がいつもより低い。
怒っているのではなかった。
怒れないのだと僕にも分かった。
見物に集まっていた連中もさすがに声を潜めている。
さっきまで面白がっていた空気が、いつのまにか別のものに変わっていた。
魔力ゼロの相棒が何度倒されても立ち上がる。
その繰り返しを誰も笑えなくなっていた。
マルセルは僕を引き起こすと、それからナギに向き直った。
帽子の影の奥をまっすぐ見ている。
さっきまでの「やめさせる」目とは違った。
何かを思い出そうとして半分思い出してしまった目だ。
「……こんなところで、何してる」
低く短い問いだった。
ナギが帽子のつばをわずかに上げる。
影の奥の目が初めてマルセル一人を見返した。
「キミこそ。商隊の護衛は、もう飽きたのかい」
マルセルの肩が一瞬だけ止まった。
「……ここは田舎だ。長く居ついていい場所じゃねえぞ」
「そっちこそ。知った顔で説教とは、らしくないね」
二人とも名前を呼ばなかった。
なのに初めて会った相手に向ける間ではない。
言葉の裏で互いに何かを確かめ合っているような話し方だ。
踏み込まないと決めた者同士が、距離だけ測り合っている。
(マルセルは、この子を知っているのか)
そういえば、と思い出す。
クレウスからの帰り道で初めてすれ違った時もマルセルは妙な顔をしていた。
あれはただの不機嫌ではなかったのかもしれない。
それ以上は読み取れなかった。
二人が並べた言葉は僕の届かないところで閉じていた。
ナギが僕の方へ向き直る。
「魔力ゼロで、ここまでやるとは思わなかった」
淡々としていた。
世辞でも嫌味でもない。
事実を一つ、机に置くような言い方だ。
「正直、最初の一撃で終わると思ってた。
それが、何度倒しても起き上がってくる。
途中からボクの方が何かを試されてるのかと思ったよ」
「でも」
ナギは木剣を肩に預けた。
「勝てないよ。何回やっても。
今日も明日も、たぶんこの先ずっとだ。
リクの剣はボクには届かない」
突き放す響きはなかった。
だからこそ、その言葉はまっすぐ僕の中に入ってきた。
ナギの視線が僕を一瞬だけ捉える。
値踏みでも侮りでもない、分からないものを見る目だ。
「それは――」
「分かってる、って顔だね」
ナギの目がわずかに細くなる。
「勝てないと分かっていて、それでも立つ。
ボクにはその意味が分からない。
敵わない相手のどこを見て、何を残すつもりなんだ」
問いというより独り言に近かった。
答えを待つ気配もなくナギは僕に背を向ける。
その背中が一瞬だけ止まったのを僕は見ていた。
勝った側のはずなのに何かが片づいていない。
帽子を被り直す手つきにその迷いが滲んでいた。
この子は負けたことがないのかもしれない。
だからきっと、負けてなお立つ人間の中身が読めない。
僕はすぐに返せなかった。
立った理由ならいくらでも言えた。
記録のため。盗むため。次のため。
前の世界でも敵わない相手の手元をそうやって近くで見てきた。
でも、それを全部並べても今のナギの言葉には届かない。
勝てない。今日も明日もずっと。
その一言が思っていたよりも深いところに落ちていた。
これまで負けるのは怖くなかった。
負けても、次があると思えたからだ。
今日もそう思おうとした。思えた。
ただ、思いながら、初めて引っかかった。
次を何度繰り返しても届かない場所があるとしたら。
どれだけ手元を盗んでもその差が一歩も縮まらないとしたら。
そのとき僕の「次は違う」はどこへ向かえばいいのだろう。
「追いつこうとして、追いつけない場所がある」
口の中だけでそう転がしてみた。
声には出さなかった。
出してしまえばそれが本当のことになってしまう。
前の世界にもいた。
同じ部署に何の準備もせず、いつも前にいる人間が。
僕が資料を抱えて遅くまで残っても、その男は定時に帰った。
なのに数字だけは僕よりずっと前に出ていた。
あの頃の僕はその差を時間で埋めようとした。
眠る時間を削り、休みを返上し、人より長く机に向かった。
だが、縮まらなかった。
むしろ、年が経つごとに少しずつ離されていった。
僕がノートを真っ黒にして追いかけても、向こうは振り向きもしなかった。
あの時の感覚によく似ていた。
似ているのに同じではない。
あの頃の僕はそれを「才能のない自分のせい」で片づけていた。
頑張りが足りないからだとそう思えば前を向けた。
今は片づけられなかった。
頑張りの量の問題ではないと、体のどこかで分かってしまったからだ。
何かが胸の奥でわずかに軋んだ。
痛みではない。
ずっと当たり前に立っていた床が初めて少しだけ傾いだような感覚だった。
それでもまだ認めたわけではない。
認めてしまえば、立つ理由がなくなる。
だから僕はその軋みに名前をつけないままにした。
名前のないものなら、まだなかったことにできる。
円の外にいた年上の男がゆっくりと動いた。
ナギを呼ぶでもなく、まっすぐ僕の方へ来る。
その視線はナギの剣ではなく、倒れて立った僕に向いていた。
何かを確かめるような、それでいて静かな目をしていた。
男は何も言わずに僕の前で片膝をついた。
痣の中でいちばんひどい脇腹にそっと手を当てる。
そして聞き取れないほど低く何かをつぶやいた。
手のひらの触れたところから、熱がすっと引いていく。
痛みが傷口を中心に潮のように退いていった。
回復魔法だと気づくのにひと呼吸かかった。
ユルの治癒を何度か受けたことがある。
でも、これはそれとは桁違いだ。
触れた一点から、全身の強張りまでほどけていく。
(この人は、付き添いなんかじゃない)
ナギの剣だけでも、ありえない速さだった。
その隣にいるこの男も引けを取らないどころか、それ以上に見える。
気づかないところにもう一人の天才が立っていた。
「無茶をする」
男が低い声で言った。
「何が、あんたをそこまでさせる」
問い詰める響きではなかった。
本当に分からない、という声だった。
僕は少し迷った。
それから、一言だけ答えた。
何と言ったかは自分の胸の中にだけ置いておく。
それを聞いた男が何を思ったのか、僕には読めなかった。
納得したようにも意外そうにも見える顔だ。
僕の知っているどの表情ともどこか違っていた。
気がつくと、痛みはほとんど残っていない。
立ち上がってももう膝は笑わなかった。
「今日と明日は安静にしてろ」
男はそれだけ言うと腰を上げる。
「ナギ」と短く呼んで、出口の方へ歩き出した。
ナギは木剣を見物人の一人に放ってその後を追っていく。
「あの――」
名前を聞こうとした時には二人はもう背を向けていた。
呼び止めた声は練武場のざわめきに紛れて届かない。
結局、あの男の名前は、知れないままだった。
二人の背中が出口の向こうに消えると、囲っていた人の輪もほどけていった。
誰かが「あの相棒、頭おかしいんじゃねえか」と笑う。
悪意のない声だった。
それがかえってよく響いた。
マルセルは何も言わずに僕の隣へ来た。
「……ひでえ面だ」
そう言って僕の頭を一度だけ軽く小突く。
怒っているようで怒っていない手だった。
その手が痣だらけの肩を避けて頭にきたことに僕は気づいた。
口で言うより先に手の方が僕を労っていた。
セナは僕の腕を掴んだままだ。
「リク」
「うん」
「……今日は、もう帰ろう」
僕は頷いた。
セナはそれ以上何も訊かなかった。
僕が動き出すのを急かさずに待っている。
村にいた頃から、こういう時のセナはいつもそうだった。
励ますでも問い詰めるでもなく、そっと隣にいる。
借りた木剣を返した。
頭のノートに残ったのは、今日も三つだけだ。
左の踵。沈む肩。右から。
三つ。
殴られ続けてそれだけしか書けなかった。
そしてその三つを書き足してもナギとの距離は一歩も動いていない。
いつもなら、書き足すたびに少しは前を向けた。
ページが増える分だけ明日が今日よりましになると思えた。
今日はそう思えなかった。
胸の奥の軋みがまだ小さく鳴っている。
僕はその音を聞こえないふりをして頭のノートをそっと閉じた。
明日になれば、いつもの「次」が戻ってくる。
そう思おうとして思いきれないまま、僕は練武場を後にした。




