第36話「模擬戦」
あの合同討伐から数日が過ぎても、ナギと呼ばれた子と連れの男はテルナにいた。
流れ者だと聞いたが出ていく気配はない。
ギルドの隅で依頼を選んでいる二人を何度か見かけた。
受けるのはいつも人手の足りない討伐ばかりだった。
腕を遊ばせておくのが惜しい、とでも言うように。
その日、僕は練武場の端でセナの打ち込みを見ていた。
冬の練武場は息が白い。
床の石は冷えて振り下ろす木剣の音だけがよく響く。
Dに上がってから、セナは前より長く剣を振る。
打ち込みの数。崩れが出る回数。息が上がるまでの時間。
僕はそれを膝の上のノートにつけていた。
セナの剣はまだ伸びている。
村にいた頃より速く、テルナに来た頃よりも重い。
伸びを数で残しておけば、次にどこを直せばいいかが後から見える。
前の世界でも僕にできたのはそういう地味な記録の積み上げだけだった。
セナが打ち込みの合間にこちらを覗き込んだ。
「また数えてるの」
「癖だよ」
「ふうん。私の崩れ、減った?」
「減ってるよ。三本に一本が、四本に一本になった」
セナが笑ってまた剣を構え直す。
数えられるのはいつもセナの伸びの方だった。
森で会った二人のことはまだノートの隅に残っている。
あの動きに追いつく方法は何日経っても一行も書けていない。
書けないまま、僕はその空白を毎日見ていた。
そこへ、その二人が来た。
帽子の子が、まっすぐ僕の前に立った。
連れの年上の男は、いつものように一歩離れて後ろへ控えている。
「キミに頼みがある」
「……はい」
「一度、手合わせしないか」
僕は剣を握らない。魔力もない。前に出ることもない。
手合わせを申し込まれる理由が、すぐには分からなかった。
「僕は戦いません。前で剣を振るのはセナ。僕はもう一人の方です」
「知っている。だからだよ」
帽子の影の奥で目だけがこちらを向いた。
「キミは戦わないのに戦いの真ん中にいた。
魔力ゼロで剣も抜かず、声だけで人を動かしていた。
あんなものは見たことがない。
それが実戦でどう動くのかをボクは確かめたい」
冷たい声だった。
侮っている響きはない。強さを測る時の目だ。
獲物を値踏みするのではなく、物差しに乗らないものをもう一度確かめにきた。
そんな目だった。
森でこの子は僕を一度すれ違っただけで片づけて去った。
それが今日は自分から名前のない相手に手合わせを申し込んでいる。
この子の中で何かが引っかかったままになっている。
セナが打ち込みの手を止めた。
こちらへ来ようとして足が止まる。
何か言いたげに口を開くが、声は出てこない。
剣を握った手だけが、固く握り直されていた。
森でナギの動きを見たのはセナも同じだ。
あれに僕が立ち向かうのが、どういうことか分かっている。
分かっているから、止めたいのに止める言葉が見つからない。
マルセルもいた。
壁際で別の組と話していたのが、こちらに気づいて足を向ける。
「おい、やめ――」
言いかけて、僕の顔を見て口を閉じた。
たぶん僕は断る顔をしていなかった。
マルセルはそれ以上何も言わず、腕を組んで壁に背を預け直した。
止めるのをやめた、というより、見届けることにした背中だった。
年上の男は円の外で動かない。
口を挟む気配もない。
僕とナギの両方が見える位置に自然と立っている。
この手合わせを一番見たいのは、案外この男なのかもしれない。
勝てないのは分かっている。
合同の森で僕はあの子の動きを一行も書けなかった。
始まりと終わりだけが見えてあいだは空白のまま残った。
追おうとした線は途中でいつも切れた。
その空白を今日なら埋められるかもしれない。
遠くから見ているだけでは追えなかったものが、
正面で向かい合えば、体のどこかで分かるかもしれない。
殴られた場所は目に見えなくても痛みで分かる。
これは勝ち負けではない。
いちばん近くで取る、一回きりの記録だ。
前の世界でも、僕にできたのはそれだけだった。
勝てない打ち合わせでも、議事録を取る席にだけはいられた。
敵わない相手の手元を近くで見て、盗めるところを盗む。
次は、いつもそこからしか始まらなかった。
だから、断る理由がなかった。
「……お願いします」
「物好きだね」
「よく言われます」
ナギの口元がほんの少しだけ動いた。
笑ったのかもしれない。帽子の影でそこまでは見えなかった。
「そういえば、まだ名乗ってなかったね。ボクはナギ」
「知ってます。前にそちらの方が呼んでいたので」
ナギの目が帽子の影でわずかに動いた。
「……よく覚えてるね。キミは?」
「リクです」
「リク。魔力ゼロのリク、か」
「木剣で。寸止めはしない。当たったところで終わりだ」
「当たったら、ですか」
「当てられたら、そこで終わり。逆はたぶん起きない」
言い方に角はない。事実をそのまま置いただけだ。
マルセルが壁際で小さく舌打ちした。
口は出さないと決めた人間の黙りきれない音。
練武場の隅に小さな円ができた。
僕は木剣を一本借りた。
握り慣れない。重さの置き場所が、手のどこにも収まらない。
セナの隣で何百回と見てきた構えを見よう見まねで作ってみる。
形だけはそれらしくなった。中身は何もない。
ナギは木剣を片手に提げただけだった。
構えとも呼べない。
ただ立っているだけの形だ。
なのにどこを探しても入り込む隙がない。
立っているというより、いつでも動ける一点に置かれている。
セナが唇を結んで見ている。
マルセルは動かない。
年上の男の視線が、僕とナギのあいだを一度だけ往復した。
「いつでもいいよ」
僕は息を整えた。
相手の重心。最初の一歩が出る向き。
いつものように半拍だけ早く読もうとした。
人の動きには必ずその前ぶれがある。
肩。腰。目。どこかが、動く方向を先に教えてくれる。
ナギにはその前ぶれがなかった。
円の中が、しんとした。
セナの息もマルセルの舌打ちももう聞こえない。
聞こえるのは自分の心臓の音だけだ。
それが一つ鳴るあいだに終わる。そんな予感がした。
読む。
その前に。
ナギが消えた。
視界から、ふっと。
どこへ動いたのか、いつ動いたのかも分からない。
次に分かったのは空の色だった。
背中に固い石床の感触がある。
僕はもう、倒れていた。
立ち上がろうとして手をつく。
その手も何をされて倒れたのかを覚えていない。
痛みはある。
なのに痛みの来た方向さえ辿れない。
何が起きたのか、頭のノートには一行も書けなかった。
立ち上がる。
膝に力が入らない。
それでも倒れたままでいる理由はなかった。
「もう一回、お願いします」
ナギは何も言わずにまた木剣を提げた。
さっきと同じ、構えない構え。
今度は読むのをやめた。
読もうとした半拍が、そのまま隙になる。
だから読まずに目だけを相手の足元に張りつけた。
せめて動いた瞬間を見届けるために。
見えたのは砂が一粒だけ跳ねたことだった。
次に分かったのはまた床の感触。
今度は肩を打たれていた。
さっきとは違う場所だ。違う方向から来た、とだけ分かる。
白かった行に「肩」と書ける。
立ち上がる。構える。消える。倒れる。
何度繰り返したか。途中で数えるのをやめた。
立つたびに僕は一つずつやり方を変えた。
最初は足を見た。次は腰。その次は踏み込む時の息の音を聞こうとした。
正面で受けるのをやめて半身で待った。
当たる瞬間に力を抜いて倒れ方だけでも軽くしようとした。
前の世界で動かない仕組みを直す時もこうだった。
原因が分からないなら、一度に一つだけ条件を変える。
変えて結果を見てまた一つ変える。
続ければいつかは当たりに行き着く。
ここでは当たりに行き着く前に毎回倒された。
どれも結果は変わらない。
変わらないのに倒れる場所だけが毎回違う。
左の肩。右の脇腹。膝の裏。手首。
打たれた場所が、ノートの空白を一つずつ埋めていく。
勝てるとは始めから思っていない。
でも倒されるたびに、見えなかったものが一つずつ言葉になる。
打たれた数だけ、その輪郭が少しずつ立ってくる。
何度目かの時、初めて一つだけ見えた。
最初の一歩が、右ではなく左の踵から出た。
それだけだ。書いた次の瞬間にはもう倒れていた。
その次は消える直前に肩がほんの少し沈むのが見えた。
沈んでから動くまでの間が、たぶん人の半分もない。
間に合わないと分かっていても「肩が沈む」と書けた。
三つ目に気づいたのは、もっとあとだ。
ナギは毎回、僕の利き目の側から入ってくる。
見えにくい方を最初から選んでいる。
気づいても体はついていかない。
それでも「右から」と書けた。
勝てない相手の中に、初めて一つだけ癖を見つけた。
空白の真ん中に一文字ずつ文字が入っていく。
勝ち負けとは関係のないところでノートだけが厚くなる。
打たれるたびに僕は確かに何かを持って帰っていた。
倒れ方だけは、途中から変わってきた。
打たれる瞬間に力を抜くと、起き上がりが半呼吸だけ速くなる。
痛みは減らないが、立ち直る速さは確かに上がっていた。
届かない相手の前で、そこだけが今日の僕の伸びた数字だ。
木剣はまだ、ナギの体のどこにも触れていない。
触れる前にいつも僕の方が床にいる。
体のあちこちが熱い。明日には痣になる場所が、もう十は超えていた。
立てなくなる一撃だけは、ナギは外していた。
殺さない手加減ではない。終わらせない手加減だ。
この子はまだ、僕で何かを確かめ続けている。
何度目かで立ち上がるのが少し遅れた。
膝が言うことを聞かない。
ここでやめても誰も僕を責めはしない。
敵わない相手に相棒が一人で挑む理由なんてどこにもなかった。
それでも手をついて立った。
やめる理由を探すより、立つ方が早かった。
セナはもう、見ていられないという顔をしていた。
「リク」
名前を呼んだきり、続きが出てこない。
一歩こちらへ踏み出してその足をまた止める。
止めに入りたいのに入れない。
僕がまだやめると言っていないからだ。
村にいた頃から、セナは僕がこうなった時のことを知っている。
喚くわけでも、もう一度と力むわけでもない。
ただ、やめるとは言わない。それだけだ。
だからセナは今日も、何も言えずに立っているのだと思う。
マルセルは壁に背を預けたまま、一度も口を開かなかった。
腕を組んで倒れては立つ僕を見ている。
止めるべきかどうかを測るのをもうやめた目だった。
一度だけ、マルセルと目が合った。
「やめろ」とも「無理すんな」ともその目は言わない。
倒れたら立てとでも言うようにわずかに顎を引いただけだ。
あの年上の男の視線も変わっていた。
ナギの剣ではなく、倒れて立つ僕の方を追っている。
何かを確かめるように一度だけ小さく頷いた。
いつのまにか、練武場の隅に人が増えていた。
別の組で訓練していた連中が、手を止めてこちらを見ている。
魔力ゼロの相棒が、天才に何度倒されても立ち上がる。
その妙な光景から目が離せないようだった。
誰も声を上げない。
木剣が床を打つ音と、僕が立ち上がる音だけが、円の中で繰り返された。
何度目かに倒れた時、ナギの動きが一瞬だけ止まった。
「リク、まだ立つのかい」
「はい」
「勝てないよ。何回やっても」
「知ってます」
知っていてなお立つ理由が、この子には分からない。
帽子の影の奥で目がそれを探していた。
森で僕に向けた、あの理屈に合わないものを見る目より、もう一歩だけ近い。
倒しても倒しても、終わらない。
そのことに、この子の方が戸惑い始めている気がした。
僕は木剣を握り直した。
握り方はさっきより指一本ぶんましになっている。
それだけのことが、いまの僕には記録に値した。
「もう一回、お願いします」




