第3話「差」
あの夜以降、セナはよく僕の家に来るようになった。
夕方の畑仕事のあと、夜にうちに寄って、母さんと父さんに挨拶をしてから、僕の部屋に来る。
2人で何かを話すわけでもなく、ただ机の前に座っていることもあった。
セナの家は近所だった。1つか2つ年が上で、昔から世話を焼くのが上手かった。
あの夜のことが、たぶん少しだけ理由になっている。
本人はそうは言わなかったし僕も聞かなかった。
セナがうちに来ると、母さんが「セナちゃん、よく来てくれるね」と言って、台所から声をかけた。
父さんは何も言わなかった。でも、夕食の時にセナの分の皿が用意されていることがあった。
父さんは聞かなくても気がつく人だ。
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7歳の夏、セナと木に登った。
村の外れにある大きな木。子供が登るには十分な枝ぶりで、昔からそういう場所だった。
樹皮はざらついていて、夏の匂いがした。葉の擦れる音が頭の上から落ちてくる。
セナが先に上る。
するすると、軽そうに登っていく。
「魔力で体が少し軽くなる感じがするんだよね」
上から声がした。
「こういう時、便利」
続いて僕も登った。
3本目の枝を掴んだ時、足をかけていた枝がぼきっと折れた。
尻をついた。
大した高さじゃなかったが、土が固くてしばらく痺れた。
セナが上から覗いていた。
「大丈夫?」
「うん」
「無理しなくていいよ」
「大丈夫」
立ち上がってもう一度、木を見上げた。
さっきと同じ枝に手をかければ、また折れる。
今度は少し上に生えている太めの枝を選んだ。
3本目を掴む前に、枝の太さを指でつまんで確かめた。
びくともしなかった。
4本目に入る時も、同じことをした。
セナの隣まで行くと、村が見えた。
家の屋根、畑、井戸、人影。普段は見上げる空が、今は同じ高さにある。
「上からだと、村って小さいね」
「うん」
「でもセナが先にいると、なんか落ち着く」
セナが少し笑った。
「そういうとこ、リクは」
どの枝に体重をかけるか。
どこに手をかければ安定するか。
1度落ちると、そういうことを自然に考えるようになった。
セナはそれを考えなくても登れる。
でも考えれば、たぶん登れる。
降りる時の方が、登る時より難しかった。
足元が見えない。次の枝に体重を預ける時、その枝が太いかどうかは目では確かめられない。
セナが先に降りた。
僕はセナが踏んだ枝だけを選んで降りた。
セナの体重を支えた枝なら、僕の体重も支えられる。
地面に足が着いた時、ほっとした。
セナが「やっと降りてきた」と笑った。
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8歳の秋、村の外れで魔物に遭遇した。
セナと2人で、薪用の木を拾いに行った帰り道、脇の藪で何かが動いた。
葉の揺れ方が風と違った。
立ち止まると、藪の奥から茶色いものが出てきた。
犬よりは小さく、毛並みは粗い。牙が短く突き出ている。
たまたま迷い込んだのか、魔物は1匹だけだった。
逃げられるのか、大人を呼びに行く時間があるかどうか、微妙なところだった。
セナが手を前に出した。
魔力の光が出た。白くて強い光だった。
空気が一瞬、ぴんと張る。
魔物がひるんで方向を変えた。
僕は地面を見た。
石が3つ、4つ、足元に散っている。
一番丸みのある石を拾った。指先に重さが乗った。
魔物が森の方へ体を向けかけている。
向かう方向に半歩先回りするようにして、投げた。
当たった。
魔物がまたひるんで、今度は森の方へ走っていった。
葉を踏む音が遠ざかっていく。
2人でしばらく、その場に立っていた。
セナが息を一つついた。
僕も同じだった。
「今の、すごかった」とセナが言った。
「どっちが」
「どっちも。でも私は魔力があるから当然として、リクがよく当たったと思って」
「当てようと思って投げたから」
セナが少し笑った。
「そういうとこだよ」
「どういうとこ」
「迷ってないとこ。石、選ぶときも、投げるときも」
何がそういうとこなのか、よくわからなかった。
ただ——投げる前に少しだけ考えた。
魔物が次に向かいそうな方向。石が届く距離。
考えたことを「すごい」と言われる意味が、よくわからなかった。
セナが歩き始めた。
「父さんに言う?」
「言わなくていいんじゃない?追い払えたし」
「うん。追い払えた」
藪に戻ると、薪用の枝を残してきていた。
拾い直して、家への道を歩いた。
帰り道、セナが何度かこっちを見た。
何も言わなかった。
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9歳の春、剣の基礎を習い始めた。
村にいるヴァルドおじさんがたまに教えてくれた。
元々は冒険者だったらしい。今は村の守りをしていた。
腕の傷が古かった。声は低い。教えるのには向かない人だった。
それでも、頼まれれば断らなかった。
型を覚えるのに、セナは半日かかった。
僕は1週間かかった。
1日目。型を見せてもらった。
足の位置、腰の角度、腕の伸ばし方。
何度か繰り返してみたが、なんとなく合っていなかった。
どこが違うのかわからなかった。
2日目。もう一度見せてもらいながら、今度は足元から順番に確認した。
足を肩幅に開く。重心をやや前に。右手を上、左手を添える。
1つ1つ確認すると、前日より少しましになった。
3日目。雨が降った。
濡れた地面でやってみたら、足が滑った。
足の踏み方を変えた。少しよくなった。
靴の底に泥がついた。家に帰ってから落とした。
4日目。セナが来て並んでやった。
セナの動きを横から見ると、重心の置き方が違うとわかった。
セナは右足の親指の付け根に体重を乗せている。僕は土踏まずで支えていた。
真似してみた。少し近づいた。
「大丈夫?」とセナが聞いた。
「大丈夫」と答える。
本当に大丈夫だった。
遅れていることは知っていた。でも止まる理由がなかった。
5日目。今日は1人でやった。
30回目あたりで腕が重くなってきた。
50回目で、4日目より型が崩れていた。
なぜ崩れたかはわからなかった。
もう一度、足元から確認した。
それでも、戻らなかった。
やめた方がいいのかと、少しだけ思った。
でも、やめなかった。
やめる理由がなかった。
6日目。ヴァルドおじさんに見せた。
「悪くない」と言われた。
褒めているのかどうかはわからなかった。
ヴァルドおじさんは、それ以上は何も言わなかった。
ただ、目を一度こちらに向けて、何か頷いた。たぶん頷いた。
7日目の朝。
型を出した瞬間、なぜか体が迷わなかった。
昨日まで考えていた「足はこう、腕はこう」が消えていた。
ただ、そうなっていた。
何が変わったのかは、自分ではわからなかった。
ヴァルドおじさんが、少し間を置いてからぽつりと言った。
「お前は、覚えるんじゃなくて、積んでるな」
意味はよくわからなかった。
でも、なんとなく頷いた。
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ある日、父さんが鍛冶場で仕事をしていた。
僕はその横で座って見ていた。
特に話しかけるつもりはなかったが、なんとなく見ていた。
炉の火が赤かった。
熱が顔に当たる。
炭の匂いが鼻の奥に溜まる。革のエプロンが擦れる音、ふいごが動く音、それから鎚の音。
鉄を掴んで炉に入れ、温まったら取り出して台の上に置き、鎚で打つ。
それを繰り返していた。
打つたびに火花が散った。
リズムが一定だった。
迷いがなかった。
手は焼けていた。指が太く、爪のあいだに古い炭が入り込んでいた。
ぶつかった跡や火傷の跡が、いくつも重なっていた。
それでも動きは正確で、鎚を持つ手の角度は1度も変わらなかった。
いつからこうできるようになったんだろう、と思った。
最初からできたわけじゃないはずだ。
何千回、何万回とやって、体に入ったんだろう。
剣の型と、たぶん同じだ。
ヴァルドおじさんが言った「積んでる」が、こういうことかもしれない。
「父さんは魔力使わないの?」
気づいたら聞いていた。
父さんは手を止めなかった。
鉄が赤いうちに打つ。打つ瞬間を逃さない。
その合間に、短く言った。
「使わなくてもできる」
それだけだった。
追加の説明はない。
僕もそれ以上の質問はしなかった。
鎚が鉄を打つ音が続いた。
規則正しく、一定のリズムで。
ただその言葉が——どこかに残った。
使わなくてもできる。
そういうものが、あるんだ。
鉄が炉に戻される。
火に入った瞬間、鉄の色が変わる。
僕はしばらく、それを見ていた。
鎚の音が、まだ続いていた。
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日が傾く頃、父さんは手を止めた。
炉の火を落とし、革の前掛けを外した。
「飯にしよう」
それだけ言って、家の方へ歩き出した。
僕も後について歩いた。
家に戻ると、母さんが台所で何かを煮ていた。
ふと、スープの匂いがした。
母さんは僕の顔を見て、少し笑った。
「父さんと一緒だったの」
「うん」
母さんはそれ以上聞かなかった。
父さんも何も言わなかった。
僕も話さなかった。
ただ——使わなくてもできる、という言葉が、夕飯のスープを飲んでいる間、ずっと頭の隅に残っていた。




