第34話「セナ、Dへ」
クレウスから戻って三日が過ぎた。
体はまだ半月の道を覚えている。
朝に宿の天井を見上げると、揺れない天井がかえって妙に静かだ。
遠征のあいだは毎朝ちがう空の下で目を覚ましていた。
同じ天井が三日続くだけで町に戻ったのだと体が分かる。
冬の入りのテルナは屋台の湯気が前より濃い。
戻ってきた日、屋台の親父は「おう、生きてたか」と笑った。
半月いなかっただけでそう言われる。
それくらいの留守だった。
ノートの隅には街道で書いた一行がまだ残っている。
追えなかった動きとひとつの名前。
帰ってからも、ふとした拍子にあの足の運びを思い出す。
でも、いまはその話じゃない。
クレウスで聞いた薬師の話も、まだ確かな一行になっていない。
母さんへの手紙は、確かめられることが増えてから書く。
帰ってきた人間には、帰ってきた人間の段取りがある。
半月で溜まった町の用事から先に片付けよう。
---
ギルドに顔を出したのは遠征の報酬を受け取るためだ。
半金はクレウスの支部で受け取って、残りはこのテルナで受け取る。
そういう手続きのつもりで来ていた。
「セナ。ちょうどいい、話がある」
ルナ叔母さんが受付台の奥から手招きした。
出してきたのは台帳ではなく、僕とセナの専用の冊子だ。
クレウス遠征の分まで書き足されてページがまた厚くなっている。
「Dランク昇格の実技試験だ」
セナの息が一度止まった。
止まって、それからゆっくり戻る。
「……Dランクって」
「飛ばしてはいない。お前の番が来ただけさ」
ルナが冊子の縁を指で叩いた。
「Eランクに上がってから、依頼をよくこなした。
マルセルのパーティで実戦も積んだ。今度の遠征も、半月の長丁場を無事に勤め上げてる。
実績は足りてる」
「でも、まだ一年も経ってません」
「早いのは才能のあるやつの特権だ。引け目に思うな」
ルナが少しだけ声を落とした。
「ただ、決まりは決まりでな。
Eランク昇格の時と同じだが、短い期間での昇格は実技で実力を測る。
お前の腕を疑ってるわけじゃない。
三日後の午後、練武場でやる。グレスが見てくれる」
セナが膝の横で手を握った。
握った指の関節が白い。
嬉しいのか怖いのか、隣にいる僕にもまだ読めない。
セナの口の中で「絶対」が一度ふくらんで、それから飲み込まれた。
言わないと決めている時の顔だ。
「リクは」
「見てるだけだ。リク、声は出すなよ」
「はい」
ルナが冊子を閉じて僕の方をちらと見た。
それから片方の口の端を上げる。
「お前は相変わらず、自分のことみたいな顔だな」
否定はしなかった。
セナのことと自分のことを、分けて考えたことがない。
「セナのことなので」
「……まあ、いい」
ギルドを出ると、冬の風が広場をまっすぐ抜けていった。
セナはいまはEランクだ。
三日後にはきっとDランクになる。
僕は登録もしていない相棒のままだ。
腰のプレートはセナの隣を歩くための板で、そこにランクの刻印はない。
それでも、置いていかれている気はしなかった。
セナが前を行くのは村にいた頃からずっとそうだ。
僕は2歩後ろでその背中の向きを読んできた。
順番が違うだけだ。
そう思うことにしている。
前の世界でも、僕はいつも誰かの後ろから現場に入った。
先に入った人間のやり方を覚えてその隙間を埋めるのが僕の役だった。
先頭に立つ才能は最初から持ち合わせがない。
それは別の世界でとっくに知っている。
---
三日後の午後。練武場へ行くと、セナはもう砂の上に立っていた。
天井の高い石床はEランクの試験のときと同じ場所だ。
柱の影が、冬の低い光で床に長く落ちている。
試験官はグレス。
端に、前の試験のときにもいた紋章の男が座っていた。
今日も砂には下りてこない。壁際の椅子から、ただ見ている。
僕は観覧席の隅に腰を下ろした。
セナが試される場で、僕はいつもそれを外から見てきた。
村にいた頃からずっとだ。
「Dランク昇格の実技試験を始める」
グレスが告げた。
セナが頷いて杖の先の布を外す。
「Eの試験では拘束と防御を見た。
今回はもう一つ、仕留めるところまで見せてもらう」
砂の中央に模擬対象が三つ並ぶ。
今度は動きが速い。
Eの時の倍では足りないと一目で分かる速さだ。
グレスが手を上げた。
「始め」
三体が砂を蹴って散った。
セナの杖が動く。
一体目の足を、光の輪が下から捉えた。
止まった肩へ、続けて二撃目――今度は拘束ではない。
杖の先で固めた光が、止めた的の胴を撃った。
Eの試験では見なかった動きだ。
止めて、撃つ。
拘束のあとに攻撃が続けて来る。
セナが前を撃つようになったのはこの半年のことだ。
止めるだけだったセナが、止めたあとに自分から仕留めにいく。
クレウスへの道でもセナはそうやって魔物を落としていた。
村にいた頃のセナは僕を後ろに置いて前で剣を振る子だった。
いまは剣も拘束も攻撃の魔法も、一つの動きの中につながっている。
僕は声を出せないかわりに試験の組み立ての方を見ていた。
止めて、撃つ。それを三体ぶんくり返す。
グレスは易しい順に並べて最後だけわざと崩している。
前の世界で会議を後ろから眺めていた時と、目の使い方は変わらない。
誰がどの順で何をするか。
それを読むだけなら僕にもできる。
できないのはその真ん中で杖を振ることの方だ。
二体目も同じだった。
止めて撃つ。
あいだに呼吸の継ぎ目がほとんどない。
最後の一体だけ、グレスが速度を上げた。
残る一体がセナめがけてまっすぐ突っ込んだ。
セナは下がらなかった。
半歩だけ横に出て迫る的の足を輪で刈る。
つんのめった的の頭上から固めた光が落ちた。
砂の上で的が止まる。
「試験終了」
グレスが手を上げた。
セナが杖を下ろす。
張りつめていた肩が、一度だけ大きく上下する。
グレスが短く頷く。
「合格だ。Dランク昇格」
セナが頷きを返した。
頷くまでにひと呼吸ぶんの間があった。
僕は観覧席から、それをただ見ていた。
止めて撃つ。
その一連が、もう考えてからの手順には見えなかった。
体が先に知っている動きだ。
街道で見たあの子の足をふと思い出した。
考えるより先に体がそこにある、あの身ごなし。
セナのいまのは、あれと同じ種類のものに見えた。
僕はそれを観覧席から見ている。
今日も、見ている側だ。
それを悔しいとは思わなかった。
その気持ちならずっと前に置いてきた。
ただ、セナの背中がまた1歩分遠くなった気がした。
---
ギルドに戻ると、ルナがプレートの板を替えにかかっていた。
板はEからDへ。替えるルナの手つきは前に一度見たから、もう目では追わない。
「持ちな」
セナが両手で受け取って、胸の前で一度だけ握りしめた。
大きさはEの板と変わらない。
なのに、Dの刻印の分だけ重く感じる。
ルナが台帳に何か書き加えてペンを置いた。
それからいつもより低い声で言った。
「セナ。少しだけ言っておく」
「……はい」
「ランクの話だ。Eまでは駆け出し、周りもそう見る。
だがDからは一人前の冒険者として見られる。半人前のつもりでいると足をすくわれる」
セナが背筋を伸ばした。
「それと、いまはマルセルのところに入ってるが、その気になればお前が頭でパーティを組むこともできる。
Dじゃなきゃ組めない決まりはない。ただ、たいていの連中はこのあたりで組み始める」
セナが何か言いかけて、やめた。
ルナはかまわず続けた。
最後の一つだけ、声がさらに低くなる。
「Dになれば、受けられる依頼の難度も上がる。
難度が上がれば相棒に負わせる危険も上がるってことだ」
ルナの目が僕の方へ一度だけ動いた。
「一年一緒にやってきたからって忘れるな。
リクはまだ正式な冒険者ですらない。
こいつをどこまで連れていけるかはお前のランクと判断にかかってる。Dからはその重さが変わる」
セナはすぐに答えなかった。
僕も、何も言えなかった。
ルナの言うとおりだ。
僕が持っているのは相棒のプレート一枚で、そこには僕を守る力も、僕が負える責任も刻まれていない。
危ない時に僕の分まで背負うのはいつもセナの方だ。
「分かってます」
セナの声は低かったが、迷いはなかった。
「リクを連れていくと決めたのは私です。最初から」
「……そうか」
ルナがペンを取り直した。
言うべきことは言った、という手の動きだった。
村を出てから、セナは見習いで始めてFになり、Eになり、いまDに届いた。
新人がEに上がるだけで半年から一年かかると前にエマが言っていた。
セナはその一年もかからずに、もう二つ昇っている。
僕に数えられるのはいつも、セナに増えていく数字の方だ。
ギルドの戸が開いてマルセルが入ってきた。
エマもユルも、まだ顔を出していない。
革の胸当ての擦り傷の位置で振り返らなくても誰か分かる。
マルセルは3歩でこちらに来てセナの腰の板で目を止めた。
それから視線を上げてセナの顔を見る。
Eの試験のあとも、マルセルはこうしてセナの板を見た。
あの時は何も言わずに視線を外した。
今日は違った。
「Dか」
「……うん」
「ガキにしては上等だ」
セナの肩が小さく動いた。
「ガキじゃない」とは今日も言わなかった。
でも「上等だ」はあの無言の夜のあとに初めて聞く言葉だった。
セナは何か言いかけてやめた。
代わりに腰の板に指をかけて軽くうつむく。
うつむいた口元が笑うのをこらえている。
マルセルはそれだけ言うと奥の席へ離れていった。
足取りはいつものマルセルのままだ。
振り向きもしなかった。
「ガキ」と「上等」が一つの言葉に並んだのは初めてだ。
マルセルの中で何かの目盛りが一つだけ動いたのかもしれない。
動いたとしても、それを言葉にする人ではない。
掲示板の前に移ると、見覚えのある背中があった。
ガランだ。
村を出て初めての外の依頼で僕とセナに同行した中堅の冒険者。
「ゼロ? マジか」と最初に言った人で、帰り道に「使えるじゃねえか」と言った人でもある。
ガランは掲示板の紙を一枚見てから、腰に提げた帳面のようなものを開いていた。
前衛の男が依頼の前に何かを書きつけている。
「おう、戻ったか。クレウスはどうだった」
「はい。三日前に」
「長丁場だな。まあ、無事ならいい」
ガランが帳面を閉じかけて僕の視線に気づいた。
「……なんだ」
「いえ。書いてるんだな、と思って」
ガランが鼻を鳴らした。
「お前の真似だよ。気に食わねえがな」
それから少し早口になった。
「前にお前と組んだ時、依頼の前にいちいち昔の記録を見てたろ。
どこで何が出たとか、前の隊が何で手こずったとか。
あれを真似してみたら、こないだ先に気づけた。崖際の落石だ。
……癪だが、悪くなかった」
いつのまにか、ガランの相棒のハルが矢筒を背負って横に立っていた。
「いい目は移る」
それだけ言ってハルはまた口を閉じた。
僕はうまく返事ができなかった。
自分のやっていることはただの段取りだ。
ない情報とある情報を分けて、ある方から手をつける。
それだけのことだ。
前の世界でも、新しい現場に入る時はまず前の人間の残した記録を読んだ。
誰がどこでつまずいたか。
それを先に知っておくと、踏まなくていい失敗が一つ減る。
そんな当たり前のことを中堅の冒険者が帳面に写している。
それがなんだか据わりが悪かった。
僕は「たまたまです」とだけ言った。
ガランが「ふん」と笑って掲示板に向き直る。
セナが横で小さく笑っているのが分かった。
「リクのやり方、広まってるね」
「広まってないよ。ガランさんが物好きなだけ」
「ふうん」
セナはそれ以上言わなかった。
言わないまま、なぜか少し得意そうだった。
---
ギルドを出ると、もう日が傾いていた。
冬の入りの夕は早い。
屋台の灯りがぽつぽつと点り始めている。
帰り道、セナが少し先に立って歩く。
腰のDの板が歩くたびに革紐の上で小さく揺れる。
「リク」
「ん」
「明日からDランクの依頼も受けられるね」
「うん」
「リクも私の相棒だから、同じ依頼に一緒に入れるんだよ」
そうだった。
相棒の上限は届出元のセナのランクまで。
セナがDに上がった分、僕の立てる場所も広がる。
「セナが上がると、僕の行ける所も増えるんだな」
「そうだよ。だから――」
セナが振り返った。
夕日でDの板が一度光る。
「だから、置いていかないよ」
セナは時々、僕が言葉にしないものを先に拾う。
昔からそうだった。
僕は「置いていかれるなんて思ってない」とは言わなかった。
言うと、たぶん嘘になる。
思っていないわけではないから。
代わりにこう言った。
「うん。順番に行こう」
セナが頷いてまた前を向いた。
3歩前。
いつもは2歩のところが、今日は1歩ぶん遠い。
その1歩を、追える1歩と見るか、届かない1歩と見るか。
今日のところは、追える方に数えておきたい夕方だった。
冬の風が、二人の背中を押すように吹いていた。
ノートの隅の一行はまだ消していない。
あの足の運びに追いつく方法は、今日もまだ書けないままだ。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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