第33話「持ち帰ったもの」
クレウスを出て三日が過ぎた。
帰りの隊商は荷が軽い。
買い付けた品を少し積んでいるだけだから、行きより足が速い。
往路で覚えた段取りは、帰りにはもう体に馴染んでいる。
どの坂で荷が傾くか。どのあたりで魔物が出るか。
ノートを見返さなくても先に手が動く。
半月の道は最初の数日と終わりの数日でまるで別の道だ。
来たときよりずっと短く感じる。
傷の男はもういない。クレウスで別の隊につくと言って別れた。
去り際に「達者でな、坊主」とだけ言われた。
最初に「子供は黙ってろ」と言った相手だ。半月で呼び方が一つだけ変わった。
たったそれだけのことがなぜか足取りを軽くする。
セナは隣で鼻歌を鳴らしている。
マルセルは先頭。エマは荷馬車の上。ユルは御者の後ろ。
いつもの配置だ。
冬の入りの空は低い。風はもう冷たい。それでも雪はまだ来ていない。
「帰りは早いね」
セナが言った。
「荷が軽いから」
「それと、リクが道を覚えたから」
「セナだって覚えてるだろ」
「私は鼻歌で覚えるの」
意味の分からないことを言ってセナはまた鼻歌に戻った。
街道沿いの集落で一度水を補給してまた歩く。
行きに泊まった集落の宿の親父が、帰りも僕の顔を覚えていた。
「無事だったか」と一言だけ。
半月前は名前も知らなかった人だ。
道は同じでも、すれ違う人の顔が少しずつ知った顔に変わっていく。
半月も歩けば道はただの道でなくなる。
クレウスで得た一行はノートの隅にしまってある。
母さんへの手紙はまだ書かない。
確かな一行になるまでは置いておく。
それでも来たときより手の中のものは増えている。
半月の道もあと半分だ。
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昼を過ぎて街道が森を抜ける開けた場所に出た。
そこで少し前を行く二人連れに気づいた。
一人は小柄で、つばの広い帽子を目深にかぶっている。
襟の高い上着が、首筋まで覆っていた。
隣に年上の男が一人。
——クレウスの雑踏ですれ違った二人だ。
忘れるはずもない。
あの、人波の中で一度も迷わなかった歩き方。
混んだ広場でも開けた街道でも足取りが一つも崩れない。
歩く線を読んでいるのではない。
線の方がその子を避けて空いていくように見える。
「ねえ、あれ」
セナも気づいて僕の袖を引いた。
「うん。クレウスの」
「やっぱり、あの時の」
「たぶん」
二人とこちらの隊商はつかず離れず同じ街道を進む形になった。
向こうがこちらを気にする様子はない。
小柄な方は前だけを見て歩く。
年上の男はその半歩後ろを保っている。
クレウスのときと位置取りまで同じだ。
セナがちらちらとそちらを見ては剣の柄に手をやる。
気になって仕方ない様子だった。
僕も、つい二人の足元を目で追ってしまう。
次にどこへ足が出るか。読もうとして読めない。
それがずっと引っかかっていた。
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それが出たのは道が細くなる岩場の手前だった。
岩場に入る手前で僕は一度足を止めた。
両側が高い。上から見下ろせる死角が多い。
荷を狙うならここだ。
前の世界の通勤路にも、こういう詰まりやすい場所があった。
人でも荷でも、狭い所で事故は起きる。
嫌な感じがしてマルセルの背中に声をかけようとした。
その前に、藪が鳴った。
得物を持った男たちが転がり出てきた。野盗だ。
岩場の死角で荷を狙って待っていたらしい。数は六、七人。
一人や二人ではない。隊商一つを潰す気の数だ。
「囲まれるぞ! 馬車を固めろ!」
マルセルが叫んだ。
僕の頭がいつものように回り始める。
野盗の出てきた向き。馬の位置。逃げ場のない岩場。
荷馬車二台のあいだが手薄だ。そこを抜かれたら馬が暴れて隊が割れる。
「右の馬、綱を短く! 御者は荷の陰へ! 左から二人来ます!」
声を投げるとエマが荷馬車の上から弓を引いた。
ユルの杖の先に光がともる。
セナが前へ出て剣を抜いた。
空いた手にはもう拘束の光が回り始めている。
マルセルが正面の二人へ踏み込む。
半年でこの隊はここまで動けるようになった。
僕が向きを読み、セナが止め、マルセルが斬る。
その形がもう体に入っている。
セナの拘束の光が、突っ込んできた一人の足を絡めて止めた。
動きの止まった肩をマルセルの剣の腹が打つ。
鈍い音とともに野盗が崩れる。
エマの矢が、二人目の得物を持つ手をかすめて飛んだ。
それでも相手は七人だ。こちらはこちらの戦いで手一杯だった。
僕は声を出し続けた。次に空く場所。
次に詰まる場所。馬の怯えた向き。
——けれど。
僕たちが形を作るよりずっと早く終わった場所があった。
先を行っていた小柄な子が、振り返りもせずに動いた。
何が起きたのか僕には追えなかった。
気づいたときには野盗の三人が地面に伏していた。
隊商の脇へ回り込もうとした連中だ。
誰も悲鳴を上げる間すらない。
小柄な子はもう次の一人の正面に立っている。
剣を振る動きが僕の目には映らなかった。
間合いの詰め方にためらいも構えの準備もない。
考えるより先に体がもうそこにある。
一人を倒すたびに、次の一人の正面へ最短の線で移っている。
回り込みもフェイントもない。
ただ、いちばん速い道だけを通る。
僕が紙の上で何度も引こうとして引けなかった線を、その子は足で引いていた。
僕はいつも相手の動きを読んで半拍早く声を出す。
その読みがまるで追いつかなかった。
読むための隙がどこにもなかったからだ。
「速い」のひと言では足りない。
速さは慣れればいつか目が追う。
あれは追う手前で全部が終わっている。
野盗は腕の立つ相手ではなかったかもしれない。
それでも、荒事に慣れた連中だ。
僕たちなら、けが人を出さずに収めるのに数分はかかる。
その数分を、あの子は数呼吸に縮めた。
強い、とも少し違う。手間が、最初から省かれている。
残った野盗が得物を投げ捨てて逃げ出した。
マルセルが正面の二人を片付け、エマの矢が逃げ遅れた一人の足を止めた。それでこちらの戦いも終わった。
始まったと思った戦いがもう終わっていた。
マルセルが剣を提げたまま低く息を吐いた。
「……速いな」
普段、他人の腕を口にしない人だ。
その一言だけでいまのが何だったかが知れた。
エマが弓を下ろす。
「私の矢より速いんだけど。なに、あの子」
セナは何も言わずに前を見ていた。
剣を握ったままの手が少しだけ固くなっている。
村でいちばん強かったセナが、初めて見上げる側に回っていた。
商人と御者は、助かったことより呆気にとられている方が大きいようだった。
「あんな子供が」
御者の一人が小さく呟く。
僕も同じ気持ちだった。
けれど、子供みたいな歳で腕が立つ二人組の噂を、僕はもう聞いていた。
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小柄な子が剣を収めてこちらを見た。
近くで見ると本当に僕やセナと変わらない歳に見えた。
背は僕より少し低い。線の細い体つきだ。
つばの広い帽子を目深にかぶっていて、顔の上半分は影に沈んでいる。
見えるのは口元と、細い顎の線だけ。
声も、その口元の幼さも、まだどこか少年とも言い切れない。
ただ、こちらを見上げたときに帽子の影からのぞいた目だけは、歳に合っていなかった。
静かな目をしている。勝った高ぶりも人を助けた誇りも何もない。
当たり前のことをしただけ、という顔だ。息も上がっていない。
剣についた汚れを一度だけ振って落とすと、もう次のことを考えている目になった。
さっきの七人が、その子には道端の小石を払う程度のことだったのだと知れた。
僕は隊列を出て礼を言いに近づいた。
「助かりました。ありがとうございます」
「べつに。こっちに来た分を片付けただけだよ」
低くはない、淡い声だった。
その子の目が僕の腰のプレートに留まった。
見習い上がりの相棒のプレートだ。
「キミ、冒険者かい?」
「相棒の登録者です。正式な登録はこっちで」
僕がセナを指すと、その子はセナのプレートと剣を一度ずつ見た。
後ろのマルセルにも一度だけ目をやったが、ただの大人の付き添いとしか見ていない目だった。
すぐに僕へ戻ってくる。
「キミは、さっき後ろで何をしていたんだい?」
「向きを声に出していました。馬と、人の」
「戦わないのかい?」
「魔力がないので。前には出ません」
「魔力は?」
「ゼロです」
一瞬、間があいた。
その子は何かを確かめるように僕をもう一度見た。
値踏みでも侮りでもない。理屈に合わないものを見る目だ。
魔力ゼロの人間がなぜ隊の真ん中で声を出していたのか。
その答えをこの子の物差しは持っていない。
そんな目だった。
「……そう」
それだけ言って背を向けた。
そのとき、マルセルの様子に気づいた。
あれだけ腕の立つ相手なのに、その子に一度も声をかけなかった。
普段なら「どこの所属だ」とでも言う人だ。
なのに今日は、帽子の影になったその顔をじっと見ていた。
剣の腕に見入る目ではない。
どこかで会ったような、それでいて思い出せないような——落ち着かない目だ。
僕と目が合うと、マルセルは小さく舌打ちして顔を背けた。
クレウスに入ってから、この人はときどきこんな顔をする。
やっぱりこの街には、マルセルが置いてきた何かがある。
年上の男はずっと後ろに立っていた。
歳は17か18に見える。落ち着いた、地味な身なりの男だ。
腰に短い杖を提げているから、魔術師なのだろう。
けれど戦いのあいだ、一度もそれに手をかけなかった。
あの子が片付けるのを、当たり前のように後ろで見ていた。
その男がその子に並んで歩き出す。
戦闘時は何もせず、最後まで立っていただけだ。
それでいて、隙はどこにも見当たらない。
出る必要がなかった、という立ち方だった。
去り際、その男の視線が僕の手元を一瞬かすめた。
僕はいつのまにかノートを開いていた。さっきの動きを書こうとしていたのだ。
追えなかった動きを、追えなかったと書き残すために。
男は何も言わない。ただほんの少しだけ目を細めた。
それから何事もなかったように前を向いた。
「ナギ、行くぞ」
年上の男が小柄な子をそう呼んだ。
ナギ。
それが、あの子の名前らしい。
クレウスの周りに、若いのが二人。片方は子供みたいな歳で腕が立つ。
噂には名前がなかった。
いま、その片割れに名前がついた。あの噂は、何も大げさではなかった。
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二人の背中が街道の先へ消えるまで僕は見ていた。
才能というものをあんなに近くで見たのは初めてだ。
セナの剣も魔法も速い。村にいた頃から僕はずっとその速さの隣にいた。
だから速さには慣れているつもりだった。
でもいまの子のは違った。
セナの速さは見ていれば追える。
今日より明日、半月前より今と、少しずつ目が慣れていく。
けれどいまの子の動きには慣れる取っ掛かりがなかった。
攻める前の迷いがない。最初からそこに在って結果だけが後に残る。
僕には一生あの動きはできない。それははっきり分かった。
不思議と悔しさはなかった。
前の世界でも天才には何度も会った。
一を聞いて十を動かす人が同じ部署にいた。
僕は十を聞いて、やっと一を動かす側だった。
だから差そのものには慣れている。
慣れていないのは、その差を前にしても手が勝手にノートを開くことの方だった。
ただ、できないと分かることと何も持たないことは違う。
僕はノートに追えた部分だけを書いた。
野盗の立ち位置。間合いを詰める最後の半歩。
逃げ出すまでのたぶん三呼吸。
それから、年上の男が呼んだ名前を一つ。
『ナギ』
見えなかったところは空白のまま残した。空白も記録だ。
前の世界でも、最初は空欄だらけの議事録から始めた。
回を重ねるうちに、行間の方が先に埋まっていった。
向こうの足はこちらよりずっと速い。
先へ行って、じきに見えなくなる。
たぶん、この帰路で会うことはない。
それでも書いておけば忘れない。会わない相手の名前でも。
セナが横に来た。
「すごかったね」
「うん」
「リク、また書いてる」
「追いつけないなりに、ね」
セナは少し笑ってそれから前を向いた。
笑っているのにその横顔はどこか悔しそうにも見える。
剣を握っていた手のことを僕は黙っていた。
たぶんセナは僕とは違うものをあの子に見ている。
僕は届かない動きとして見て、セナは追いつきたい背中として見ている。
一人を見て、立っている場所が違った。
それでも二人とも、消えていく背中からしばらく目を離せなかった。
半月の道の帰り。
クレウスで一行、街道で一人。
持って帰るものがまた少しだけ増えた。




