第32話「見えない病」
朝、セナと二人で西の区へ向かった。
マルセルは商隊の引き渡しの立ち会いがある。
荷が片付くまでの半日を、僕たちは薬師街に使う許しをもらっていた。
「無駄足になっても文句を言うなよ」とマルセルは言った。
それは行ってこいという意味だともう分かる。
西の区は広場を抜けて川沿いに北にある。
昨夜セナが宿の紙に書き取った道順をたどる。
地図は僕。聞くのはセナ。それが今日の役割だ。
川沿いには薬種を商う店や医院が軒を連ねていた。
乾いた薬草の匂いが通りに低くたまっている。
看板にはテルナでは見たことのない薬の名がいくつも並んでいた。
それを見ているだけで、ここがどれだけ多くの病を扱う街かが分かった。
通りには杖を頼りに歩く老人もいた。
子供を抱えた母親もいた。
遠くから来たらしい身なりの旅人もいた。
皆それぞれの病を抱えて、この街の誰かを訪ねてきている。
テルナでは薬師の数だけ答えがあった。
ここにはその何十倍もの答えがあるはずだ。
そのどれか一つが、僕の探しているものかもしれない。
大きな街には村やテルナでは会えない医者がいるはずだ。
母さんの病の根っこを知っている誰かが、この人の多さのどこかにいるかもしれない。
地脈調整剤で進みは抑えている。半年に一度ルナの伝手で村へ送る薬で、母さんはどうにか保っている。
でも抑えているだけだ。根っこのことはテルナの薬師も誰も言わなかった。
ここなら違うかもしれない。そう思うと足が少し速くなった。
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最初の医院は立派な構えだった。
待合いに人が並び、白い前掛けの医者が奥に座っている。
順番を待つあいだに、診察を終えて出てくる人の顔をいくつも見た。
安心した顔もある。そうでない顔もある。
どちらが多いとも言えなかった。
順番が来て、セナが症状を説明する。
村に残した母のこと。
熱が長く引かないこと。
季節の変わり目には起き上がれなくなること。
村の他の誰もかからないこと。
地脈調整剤で進みを抑えていること。
医者は途中で頷いた。
最後まで聞く前にもう答えを決めている頷き方だった。
「地脈の病だな。調整剤を切らさんことだ。それで進みは止まる」
「治す方法は無いのですか」
「ない。あれは抑えるだけの病だ。根を断つ薬をわしは知らん」
医者の目はもう次の患者の方を向いている。
僕たちは礼を言って店を出た。
店を出たところでセナが小さく息を吐いた。
「まだ一軒目だしね」
「うん」
セナは気を取り直すように次の店の場所を確かめた。
僕より先に肩を落として、僕より先に顔を上げる。
村にいた頃からそうだった。
二軒目は薬師の店。
ここでは病の話にあまり踏み込まれなかった。
「調整剤が要るならCランク以上の伝手がいる。あんたら持ってるのかい」
「伝手はあります」
「なら、わしから言うことはない。切らすな」
薬師は病の名すら口にしない。
テルナと同じで、買えない者に名前を聞かせない。
それが薬師なりの線引きなのだと前にマルセルから教わった。
大きな街でも線の引き方は変わらない。
三軒目の医者は年配で、少しだけ丁寧だった。
セナの説明を最後まで聞き、母の歳と、村の場所と、いつ頃から起き上がれなくなったかまで尋ねてくれた。
それから眉を寄せた。
「妙だな。魔力の乏しい者はこの病にはかからん。地脈の魔力を溜め込むには、まず溜める器が要る。お前の母御は、その器が乏しいのに溜めている」
「なぜ、なんでしょうか」
「分からん。器のない者が水に溺れるようなものだ。理屈に合わん」
医者は腕を組んで、母の歳をもう一度確かめた。
「生まれはどこだ。村の出ではないのか」
「……はっきりしないんです。母は昔のことをあまり覚えていなくて」
「ふむ」
医者はそこで少し黙ったが、それ以上は踏み込まなかった。
「まあ、わしの手には負えん。地脈の病であることは動かん。調整剤を続けることだ」
聞いたことのない経過。
医者はそう言ったきり、続きを言わなかった。
僕はその言葉だけノートに書いた。なぜ魔力の乏しい母さんがこの病になるのか。
そこに踏み込める医者は一人もいなかった。
皆そこで口をつぐむか、首を傾げるだけだ。
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昼を過ぎる頃には、回った医院の数だけ答えが積み上がっていた。
どの口も最後は決まって途中で止まる。その先へ進める者はいない。
分かっていたことを、大きな街でもう一度確かめただけだった。
前の世界でもこういう日があった。
答えの出ない問い合わせを窓口から窓口へ回された。
担当が代わるたびに同じ説明を繰り返し、返ってくる言葉だけが揃って同じだった。
あのときの足の重さを僕は体で覚えている。
窓口が増えても答えが増えるとは限らない。
それを知っているぶん、今日の僕は前ほど浮足立たずにいられた。
セナの口数が減っていく。
僕は焦りを顔に出さないようにした。
薬で止めても母さんの時間は少しずつ減っている。それは分かっている。
だからといって、ここで走っても何も拾えない。
順番だ。
今できることから順に。ルナの声を頭の中で借りた。
借りないと足が前へ進まなかった。
母さんは、僕が薬を送るたびに短い返事をよこす。
「無理をするな」とだけ書いてある。心配をかけまいとする字だ。
だから僕も見えなかったとは書けない。書くなら、進んだことだけを書きたい。
そのためにも、今日のもう一軒は最後まで回ろうと思った。
「リク、休もう。次でいったん最後にしよう」
セナが屋台の隅を指した。
水を一杯ずつ買って、立ったまま飲んだ。
冷たい水が喉を通ると少しだけ頭が静かになる。
それだけで、また次の店へ向かう気になれた。
「最後、どこにする」
「親父が言ってた店。西の区の外れの、変わり者の薬師」
「うん。そこで終わりにしよう」
最後の店は、川沿いの道がほとんど尽きる場所にあった。
宿の親父が言っていた、珍しい病ばかり診る老薬師の店だ。
戸を押すと本の匂いがした。床から天井まで古い書物が積まれている。
乾いた紙と薬草の匂いが、これまでのどの店より濃い。
棚に収まりきらない本が床にも積み上がって、小さな塔をいくつも作っている。
背表紙の文字はどれも古く、読めないものもある。
こんなに本のある場所はテルナにもミルヴァ村にもなかった。
ここにある紙の量だけ、この老人は誰かの病を書き留めてきたのだろう。
痩せた老人が奥の机で書き物をしていた。顔も上げずに口を開く。
「地脈の病か」
「……まだ何も言っていません」
「戸の開け方で分かる。藁にもすがる開け方だ。そういう客はたいてい同じ病を抱えてくる」
老人は筆を置いて、ようやく顔を上げた。
「先に言っておく。わしも治す法は知らん。根を断つ薬はこの世にまだない。お前さんの前に立った医者も、皆そう言っただろう」
「はい」
「正しい答えだ。腹は立つだろうがな」
それも同じ答え。
でも老人はそこで終わらなかった。
「お前さん、なぜ村の者はかからんのに母御だけかかるのかと、聞いて回っただろう」
「……はい」
「答えられた者はいなかったはずだ。わしにも答えられん。だがな」
老人はしばらく宙を見た。古い棚の奥を探るような目だった。
「ずっと昔に、よく似た患者を一人だけ見た。北の生まれの男だ。
地脈の病のはずが、あの男には症状が出ていなかった。
薬も飲んでいないのにだ。名は忘れた。
だがあれだけは妙でな。今でも覚えている」
「症状が、出ていなかった」
「ああ。理由はわしにも最後まで掴めなんだ。出る者と出ない者がいる。それだけは確かだ」
「その男は、今どこに」
「知らん。ずっと昔の話だ。今も生きているかも分からん」
「どんな人でしたか」
老人は少し笑った。
「無口な男でな。自分の体のことを、まるで他人の体みたいに正確に話した。医者でもないのにだ。
どこが詰まってどこが流れているか、自分で分かっているような口ぶりだった」
「他には、何か」
「ああ。それともう一つ、おかしなことがあった。あの男は地脈の濃い土地を避けなかった。
病持ちは普通、流れの強い場所を怖がる。だがあの男は、むしろ確かめるように歩いていた。
今思えば、何かを知っていたのかもしれん」
僕はその一言を、頭の中で二度繰り返した。
老人は薬研に手を戻す。乾いた薬草を挽く音が、本だらけの店に低く響く。
聞きたいことはまだあった。
でも、この人が覚えているのはここまでだと分かった。
ノートに残ったのは、結局この一行。
『地脈の病でも、症状の出ない例がある。北の生まれの男。』
確かなことは何もない。
名前も、理由も、その男が今どこにいるかも分からない。
それでも村にいたら一生知らなかった一行だ。
抑えるしかないという壁に、初めて小さな穴が一つ空いた。
老人が、僕の手元のノートをじっと見ていた。
「さっきから書いておるな。医者の言うことを、いちいち」
「忘れるので。後で読み返すと、ばらばらの話が一本に繋がることがあるんです」
「ふむ」
老人は何か言いかけて、やめた。代わりに少しだけ口の端を上げた。
「役に立つかは知らんぞ」
「いえ。……充分です。ありがとうございます」
老人はもう書き物に戻っていた。
店を出る僕の背中に、独り言のように声がかかった。
「その書く癖、悪くない。覚えておけば、いつか線と線が繋がることもある」
店を出ると日が傾いていた。
川沿いの道を二人で宿の方へ歩き出す。
水面が夕日を返して、薬種の店の影が長く伸びていた。
行きに通った道を同じ順で戻る。
朝はあれだけ期待して速くなった足が、今は普通の速さに戻っていた。
落胆ではない。走って届くものではないと体が分かっただけだ。
しばらく黙って歩いてから、セナが口を開いた。
「リク」
「ん」
「きっと、いつか——」
そこで言葉が止まった。
セナは「絶対」とよく言う。
今日もきっと、絶対見つかるよ、と続けるつもりだったのだと思う。
でもセナは、その言葉を最後まで言わなかった。
「……ごめん。こういうのは簡単に言えないね」
「いいよ」
「でも、一個も拾えなかったわけじゃない」
「うん。一個だけ線がもらえた。それで今日は充分だ」
セナは少し黙って、それから小さく頷いた。
安請け合いをしないのは、本気で母さんのことを考えている証拠だ。
言い切らなかったセナの方を、僕は信じた。
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宿に戻る頃にはすっかり日が落ちていた。
夕飯のあと、僕はノートを開いて今日のことを書いた。
回った医院の数。言われたこと。抑えるしかない、治す法はない。
それから老薬師の一行。
『症状の出ない例がある。北の生まれの男。』
根っこは見えないままだ。
大きな街なら答えがあるかもしれないという期待は外れた。
ただ、村の薬師の沈黙の前で立ち止まっていた頃とは違う。
手の中に、細い手がかりが一本だけある。
ゼロと一は違う。
母さんへの手紙にはまだ書けない。
かもしれない、を本気で待ってしまう人だ。
確かな一行になるまではノートの中に置いておく。
窓の外でクレウスの夜の音が低く続いていた。
明日には荷の引き渡しが終わる。
半月の道の、帰りが始まる。
持って帰れるのは、抑えるための薬と、一行の手がかり。
それと、隣で一緒に回ってくれた相棒だ。
一人で窓口を回り続けた前の世界とは、そこだけが違っていた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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