表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
36/97

第32話「見えない病」

朝、セナと二人で西の区へ向かった。


マルセルは商隊の引き渡しの立ち会いがある。

荷が片付くまでの半日を、僕たちは薬師街に使う許しをもらっていた。

「無駄足になっても文句を言うなよ」とマルセルは言った。

それは行ってこいという意味だともう分かる。


西の区は広場を抜けて川沿いに北にある。

昨夜セナが宿の紙に書き取った道順をたどる。

地図は僕。聞くのはセナ。それが今日の役割だ。


川沿いには薬種を商う店や医院が軒を連ねていた。

乾いた薬草の匂いが通りに低くたまっている。

看板にはテルナでは見たことのない薬の名がいくつも並んでいた。

それを見ているだけで、ここがどれだけ多くの病を扱う街かが分かった。


通りには杖を頼りに歩く老人もいた。

子供を抱えた母親もいた。

遠くから来たらしい身なりの旅人もいた。

皆それぞれの病を抱えて、この街の誰かを訪ねてきている。


テルナでは薬師の数だけ答えがあった。

ここにはその何十倍もの答えがあるはずだ。

そのどれか一つが、僕の探しているものかもしれない。


大きな街には村やテルナでは会えない医者がいるはずだ。

母さんの病の根っこを知っている誰かが、この人の多さのどこかにいるかもしれない。

地脈調整剤で進みは抑えている。半年に一度ルナの伝手で村へ送る薬で、母さんはどうにか保っている。

でも抑えているだけだ。根っこのことはテルナの薬師も誰も言わなかった。


ここなら違うかもしれない。そう思うと足が少し速くなった。


---


最初の医院は立派な構えだった。

待合いに人が並び、白い前掛けの医者が奥に座っている。


順番を待つあいだに、診察を終えて出てくる人の顔をいくつも見た。

安心した顔もある。そうでない顔もある。

どちらが多いとも言えなかった。


順番が来て、セナが症状を説明する。


村に残した母のこと。

熱が長く引かないこと。

季節の変わり目には起き上がれなくなること。

村の他の誰もかからないこと。

地脈調整剤で進みを抑えていること。


医者は途中で頷いた。

最後まで聞く前にもう答えを決めている頷き方だった。


「地脈の病だな。調整剤を切らさんことだ。それで進みは止まる」

「治す方法は無いのですか」

「ない。あれは抑えるだけの病だ。根を断つ薬をわしは知らん」


医者の目はもう次の患者の方を向いている。

僕たちは礼を言って店を出た。


店を出たところでセナが小さく息を吐いた。


「まだ一軒目だしね」

「うん」


セナは気を取り直すように次の店の場所を確かめた。

僕より先に肩を落として、僕より先に顔を上げる。

村にいた頃からそうだった。


二軒目は薬師の店。

ここでは病の話にあまり踏み込まれなかった。


「調整剤が要るならCランク以上の伝手がいる。あんたら持ってるのかい」

「伝手はあります」

「なら、わしから言うことはない。切らすな」


薬師は病の名すら口にしない。

テルナと同じで、買えない者に名前を聞かせない。

それが薬師なりの線引きなのだと前にマルセルから教わった。

大きな街でも線の引き方は変わらない。


三軒目の医者は年配で、少しだけ丁寧だった。

セナの説明を最後まで聞き、母の歳と、村の場所と、いつ頃から起き上がれなくなったかまで尋ねてくれた。

それから眉を寄せた。


「妙だな。魔力の乏しい者はこの病にはかからん。地脈の魔力を溜め込むには、まず溜める器が要る。お前の母御は、その器が乏しいのに溜めている」

「なぜ、なんでしょうか」

「分からん。器のない者が水に溺れるようなものだ。理屈に合わん」


医者は腕を組んで、母の歳をもう一度確かめた。


「生まれはどこだ。村の出ではないのか」

「……はっきりしないんです。母は昔のことをあまり覚えていなくて」

「ふむ」


医者はそこで少し黙ったが、それ以上は踏み込まなかった。


「まあ、わしの手には負えん。地脈の病であることは動かん。調整剤を続けることだ」


聞いたことのない経過。

医者はそう言ったきり、続きを言わなかった。

僕はその言葉だけノートに書いた。なぜ魔力の乏しい母さんがこの病になるのか。

そこに踏み込める医者は一人もいなかった。


皆そこで口をつぐむか、首を傾げるだけだ。


---


昼を過ぎる頃には、回った医院の数だけ答えが積み上がっていた。

どの口も最後は決まって途中で止まる。その先へ進める者はいない。

分かっていたことを、大きな街でもう一度確かめただけだった。


前の世界でもこういう日があった。

答えの出ない問い合わせを窓口から窓口へ回された。

担当が代わるたびに同じ説明を繰り返し、返ってくる言葉だけが揃って同じだった。

あのときの足の重さを僕は体で覚えている。

窓口が増えても答えが増えるとは限らない。

それを知っているぶん、今日の僕は前ほど浮足立たずにいられた。


セナの口数が減っていく。

僕は焦りを顔に出さないようにした。

薬で止めても母さんの時間は少しずつ減っている。それは分かっている。

だからといって、ここで走っても何も拾えない。


順番だ。


今できることから順に。ルナの声を頭の中で借りた。

借りないと足が前へ進まなかった。


母さんは、僕が薬を送るたびに短い返事をよこす。

「無理をするな」とだけ書いてある。心配をかけまいとする字だ。

だから僕も見えなかったとは書けない。書くなら、進んだことだけを書きたい。

そのためにも、今日のもう一軒は最後まで回ろうと思った。


「リク、休もう。次でいったん最後にしよう」


セナが屋台の隅を指した。


水を一杯ずつ買って、立ったまま飲んだ。

冷たい水が喉を通ると少しだけ頭が静かになる。

それだけで、また次の店へ向かう気になれた。


「最後、どこにする」

「親父が言ってた店。西の区の外れの、変わり者の薬師」

「うん。そこで終わりにしよう」


最後の店は、川沿いの道がほとんど尽きる場所にあった。


宿の親父が言っていた、珍しい病ばかり診る老薬師の店だ。

戸を押すと本の匂いがした。床から天井まで古い書物が積まれている。

乾いた紙と薬草の匂いが、これまでのどの店より濃い。


棚に収まりきらない本が床にも積み上がって、小さな塔をいくつも作っている。

背表紙の文字はどれも古く、読めないものもある。

こんなに本のある場所はテルナにもミルヴァ村にもなかった。


ここにある紙の量だけ、この老人は誰かの病を書き留めてきたのだろう。

痩せた老人が奥の机で書き物をしていた。顔も上げずに口を開く。


「地脈の病か」

「……まだ何も言っていません」

「戸の開け方で分かる。藁にもすがる開け方だ。そういう客はたいてい同じ病を抱えてくる」


老人は筆を置いて、ようやく顔を上げた。


「先に言っておく。わしも治す法は知らん。根を断つ薬はこの世にまだない。お前さんの前に立った医者も、皆そう言っただろう」

「はい」

「正しい答えだ。腹は立つだろうがな」


それも同じ答え。

でも老人はそこで終わらなかった。


「お前さん、なぜ村の者はかからんのに母御だけかかるのかと、聞いて回っただろう」

「……はい」

「答えられた者はいなかったはずだ。わしにも答えられん。だがな」


老人はしばらく宙を見た。古い棚の奥を探るような目だった。


「ずっと昔に、よく似た患者を一人だけ見た。北の生まれの男だ。

地脈の病のはずが、あの男には症状が出ていなかった。

薬も飲んでいないのにだ。名は忘れた。

だがあれだけは妙でな。今でも覚えている」


「症状が、出ていなかった」

「ああ。理由はわしにも最後まで掴めなんだ。出る者と出ない者がいる。それだけは確かだ」

「その男は、今どこに」

「知らん。ずっと昔の話だ。今も生きているかも分からん」


「どんな人でしたか」


老人は少し笑った。


「無口な男でな。自分の体のことを、まるで他人の体みたいに正確に話した。医者でもないのにだ。

どこが詰まってどこが流れているか、自分で分かっているような口ぶりだった」


「他には、何か」


「ああ。それともう一つ、おかしなことがあった。あの男は地脈の濃い土地を避けなかった。

病持ちは普通、流れの強い場所を怖がる。だがあの男は、むしろ確かめるように歩いていた。

今思えば、何かを知っていたのかもしれん」


僕はその一言を、頭の中で二度繰り返した。

老人は薬研に手を戻す。乾いた薬草を挽く音が、本だらけの店に低く響く。

聞きたいことはまだあった。

でも、この人が覚えているのはここまでだと分かった。


ノートに残ったのは、結局この一行。


『地脈の病でも、症状の出ない例がある。北の生まれの男。』


確かなことは何もない。

名前も、理由も、その男が今どこにいるかも分からない。

それでも村にいたら一生知らなかった一行だ。

抑えるしかないという壁に、初めて小さな穴が一つ空いた。


老人が、僕の手元のノートをじっと見ていた。


「さっきから書いておるな。医者の言うことを、いちいち」

「忘れるので。後で読み返すと、ばらばらの話が一本に繋がることがあるんです」

「ふむ」


老人は何か言いかけて、やめた。代わりに少しだけ口の端を上げた。


「役に立つかは知らんぞ」

「いえ。……充分です。ありがとうございます」


老人はもう書き物に戻っていた。

店を出る僕の背中に、独り言のように声がかかった。


「その書く癖、悪くない。覚えておけば、いつか線と線が繋がることもある」


店を出ると日が傾いていた。

川沿いの道を二人で宿の方へ歩き出す。

水面が夕日を返して、薬種の店の影が長く伸びていた。


行きに通った道を同じ順で戻る。

朝はあれだけ期待して速くなった足が、今は普通の速さに戻っていた。

落胆ではない。走って届くものではないと体が分かっただけだ。


しばらく黙って歩いてから、セナが口を開いた。


「リク」

「ん」

「きっと、いつか——」


そこで言葉が止まった。

セナは「絶対」とよく言う。

今日もきっと、絶対見つかるよ、と続けるつもりだったのだと思う。


でもセナは、その言葉を最後まで言わなかった。


「……ごめん。こういうのは簡単に言えないね」

「いいよ」

「でも、一個も拾えなかったわけじゃない」

「うん。一個だけ線がもらえた。それで今日は充分だ」


セナは少し黙って、それから小さく頷いた。

安請け合いをしないのは、本気で母さんのことを考えている証拠だ。

言い切らなかったセナの方を、僕は信じた。


---


宿に戻る頃にはすっかり日が落ちていた。


夕飯のあと、僕はノートを開いて今日のことを書いた。

回った医院の数。言われたこと。抑えるしかない、治す法はない。

それから老薬師の一行。


『症状の出ない例がある。北の生まれの男。』


根っこは見えないままだ。

大きな街なら答えがあるかもしれないという期待は外れた。

ただ、村の薬師の沈黙の前で立ち止まっていた頃とは違う。

手の中に、細い手がかりが一本だけある。


ゼロと一は違う。


母さんへの手紙にはまだ書けない。

かもしれない、を本気で待ってしまう人だ。

確かな一行になるまではノートの中に置いておく。


窓の外でクレウスの夜の音が低く続いていた。

明日には荷の引き渡しが終わる。

半月の道の、帰りが始まる。


持って帰れるのは、抑えるための薬と、一行の手がかり。

それと、隣で一緒に回ってくれた相棒だ。

一人で窓口を回り続けた前の世界とは、そこだけが違っていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ