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第31話「クレウスの街」

クレウスの門をくぐると、音の量が一気に変わった。


荷車の車輪が石畳を鳴らす音。物売りの声。どこかで打たれる鐘。

この門は以前にもくぐった。だから街そのものに驚きはない。

ただ、前は商隊の最後尾で縮こまって通り過ぎただけだ。今は荷の脇を護衛として歩いている。

同じ門でも足の運び方が違う。


大通りはテルナの倍の幅。

人が途切れない。荷を積んだ馬車が二列ですれ違い、その間を売り子や使い走りの子供が縫っていく。

僕は人の流れの速さを目で測った。どこで詰まりどこが空くか。

前の世界でも朝の人波をこうやって読んでいた。改札の前。階段の降り口。

人がぶつからずに流れる線が一本だけある。それを見つけて歩く。ここでも変わらなかった。

満員の駅で覚えたことが、こんな所で役に立つとは思わなかった。


空気の匂いも違った。香辛料と馬と、人の匂いが混ざって、テルナの土と薪の匂いとはまるで別ものだ。

耳に入る言葉の訛りも少しずつずれている。東へ1週間歩いただけでこんなに変わる。

人の波には、見たことのない肌の色も、聞いたことのない言葉も混じっていた。

東の果てから西の海際まで、大陸の半分がこの街に集まってくるのだと、商人が往路で話していた。


大通りの両側には店が隙間なく並んでいた。

布地。香辛料。鉄物。革。テルナでは月に一度の市でしか見ない品が、ここでは毎日当たり前に積まれている。

看板の数だけでこの街がどれだけの物と金を回しているのかが分かった。


セナも隣で通りを見回していた。

「大きい街だね。何回来ても」

「うん」

「今度はちょっとは、中を見て回れるね」

セナが少しだけ胸を張った。すぐに照れてまた前を向く。


隊商は大通りの先の倉庫に荷を入れた。

天井は見上げるほど高い。奥は薄暗くて見通せない。

商人が帳面を片手に数を読み上げ、御者が荷を下ろしていく。

僕はこの1週間、頭の中で数えてきた荷の数と帳面の数が合うかを横で確かめた。

一つも欠けていない。坂で転がりかけた樽も、魔物が出た朝も越えて荷は全部ここまで運ばれてきた。


「お前さんの数えは正確だな」


傷の男がそれだけ言って雇い主の方へ歩いていった。

褒められたのかどうか確かめる前に、その背中は人波に紛れていた。

最初に「子供は黙ってろ」と言った相手だ。坂の前と、いまと。声の温度が少し動いたのは確かだった。


マルセルが商人と短く話して戻ってきた。


「荷の引き渡しに三日かかる。その間はこの街で待ちだ」

「宿は」

「東門の方に取った。広場の真ん中じゃない」

「……前と同じですね」

「ああ」


それだけ言って先に歩き出す。

前の冬もマルセルはこの街で通りの端の宿を選んだ。

あのときは気に留めなかった。


---


翌朝、マルセルについてクレウスのギルド支部へ寄った。

護衛の報酬は半分をこの支部で受け取る手続きになっているらしい。


支部の中は驚くほど広かった。

受付が五つ並んでいる。掲示板は壁の一面を埋めて、依頼の紙が隙間なく貼られていた。

僕は思わずその前で足を止めた。

討伐。護衛。調査。運搬。報酬の額の桁が一つ二つ大きい。

Eランクでも受けられる依頼がいくつもある。


奥の卓では、磨き込まれた装備の冒険者たちが地図を広げていた。

身につけている物の値も声の落ち着き方も、テルナのギルドにいる連中とはどこか違う。


慌てる者が一人もいない。誰もが自分の次の動きを既に決めている顔をしている。

同じギルドのはずだ。それでも、ここに流れている空気は一段上の格をしていた。

テルナで一番強いと言われている冒険者が、この街では中ほどに埋もれるのかもしれない。


端の受付では、ひときわ装備の整った数人がAランクの討伐の受注を済ませて出ていくところだった。

残された依頼の紙が一枚、係の手で静かに剥がされる。

テルナでは年に何度あるかの大依頼が、ここでは朝の手続きの一つとして流れていく。


僕は護衛の報酬の半金を受け取り、ノートに日付と額を書きつけた。

マルセルが横で「失くすなよ」とだけ言う。


「ここでも依頼は受けられるんですか」


受付の女の人に聞くと、相手は僕の相棒プレートを一目見て頷いた。


「登録はどの支部でも同じよ。基本的に大陸のどこでもテルナと同じランクの依頼を受けられるわ」

「そうなんですね」

「でも、今は護衛依頼の途中でしょう。基本的には依頼中はよその依頼を掛け持ちはできないわ。順番通りにね」


順番。

ルナがよく使う言葉を、知らない街の受付からも聞いた。

焦って手を伸ばしても届かない。

今はこの護衛を最後まで運ぶのが先だ。


それでも僕は、掲示板の桁の大きさからしばらく目を離せなかった。

ここで動けばテルナの何倍も早く稼げる。

母さんの薬の足しになる金をもっと早く積めるかもしれない。


今は受けられない。でも、いつか自分とセナの足でこの街の掲示板の前に立つ日が来るのかもしれない。

そう考えると、貼られた紙の桁がただ大きいだけのものではなくなった。


セナが横で掲示板を見上げていた。


「すごい数だね」

「うん」

「テルナの十倍はあるんじゃない」

「十二倍。受付も五つある」

「数えたの?」

「癖だよ」


セナが小さく笑ってからもう一度壁の紙の量を見上げた。

その目は僕と同じ場所を見ていた。たぶんセナも、いつかここで、と思っている。

口に出さなくても、二人ともこの街の桁を覚えて帰るつもりでいた。


---


支部を出て大通りを戻る途中。

向こうから来た恰幅のいい男がマルセルを見て足を止めた。


「……マルセル? おい、マルセルじゃないか」


マルセルの足が一瞬だけ止まった。

振り返る前に、肩のあたりが一度だけ強張ったのが横から見えた。


「……誰だったか」

「忘れたか。昔ジョゼさんの店に出入りしてた、商会のドルフだ。お前がまだ帳場に座ってた頃の」

「ああ」


それだけだった。マルセルの声は低いままだ。

男はかまわず喋り続けた。


「いやあ見違えたな。剣なんか提げて。家を出たって聞いたが本当だったか。

今は弟さんが立派に店を継いでるよ。ルカさん……あの坊主がもう、商会をひとつ任されてるんだ」

「そうか」

「ジョゼさんも歳だ。あんたは長男なんだ。戻ればまだ——」

「俺は戻らん」


マルセルの声が初めて少しだけ固くなった。

男が口をつぐむ。

マルセルはそれ以上何も言わず軽く頭を下げて歩き出した。

男は何か言いかけて、結局その背中を見送るだけだった。


僕とセナは黙ってついていった。

マルセルの歩く速さがいつもより少し速い。早くこの通りを抜けたい足どりだ。

いつもは雑な歩幅のこの人が、肩を縮めるみたいにして人混みを縫っていく。

しばらく歩いてから、マルセルが誰に言うでもなくぼそりと言った。


「……弟が継いだなら、俺がいないのが正解だろ」


それきり口を閉じた。

僕は聞かなかった。

マルセルにジョゼという家があって、弟がいて、帳場に座っていた時期があった。

いま分かったのはそれだけだ。


帳場に座るマルセルの姿は、剣を提げた今からはうまく像を結ばない。

それでも声を固くするくらいには、その家はまだマルセルの中に残っている。


前の冬、マルセルがこの街で「時間がない」と言って一晩で発とうとした理由が、少しだけ形になった。

あのとき急いでいたのは、たぶん荷の都合だけではない。

会いたくない誰かがこの街にいる。それだけのことだったのかもしれない。


でも、それを口にはしない。

マルセルにも語らない場所がある。僕にも前の世界の話がある。同じことだ。


前の世界で僕にも帰りたくない場所があった。

配属の決まった朝に机だけが用意されていて、誰も僕の名前を覚えていなかった部屋。

あそこへ戻れと言われたら、僕もきっと同じ顔をする。


マルセルの背中が、少しだけ近く感じた。


セナがそっと僕の袖を引いて首を横に振った。

聞くな、という合図だ。僕も頷いた。

こういうとき、セナは僕より先に空気の重さに気づく。

村にいた頃からそうだった。


---


昼過ぎ、薬師街への道を聞くために広場の方へ出た。

一日でいちばん人が多い時間だ。

屋台の湯気。釣り銭をはじく音。値切る声。広場の賑わいが一度に押し寄せてくる。


その雑踏の中で、二人連れとすれ違った。


一人は小柄で、つばの広い帽子を目深にかぶっている。

子供のような背丈なのに、人波の中での歩き方に迷いがなかった。


僕は人の流れの線を時間をかけて読む。

けれどその子は、線を探す素振りすらない。

考えるより先に体が空いた場所へ入っていく。

混んだ広場が、その子の前だけ最初から空いているみたいに見えた。


隣に年上の男が一人。落ち着いた足取りで半歩だけ後ろについている。

前に出るでも守るでもなく、ただ位置を保っていた。


小柄な方が、すれ違いざまに一度だけこちらを見た気がした。

目が動いただけだ。意味はない。

人波がすぐに二人を飲み込んで見えなくなった。


「いまの」


セナが振り返る。

「なに?」

「……いや。なんでもない」


噂の二人、という言葉が頭をかすめた。

クレウスの周りに若いのが二人。

片方は子供みたいな歳で腕が立つ。


いや、ただの通りすがりだ。子供連れなんて街にいくらでもいる。確かめようもない。

僕は頭の隅にその背中をしまって薬師街への道に戻った。


それでも、人波の中で一度も迷わなかったあの歩き方だけが後から引っかかった。

あんなふうに歩ける人間を僕はもう一人だけ知っている。


セナだ。


才能のある人間の動きをその隣でずっと見てきた。あの子の歩き方はそれによく似ていた。

それが誰なのかは、まだ何も分からないままだ。


---


宿に戻る頃には日が傾いていた。

東門の宿は通りの端で、大通りの喧騒はここまで届かない。


夕飯のあと、セナが僕の部屋の戸を叩いた。

手に宿で借りた紙を一枚持っている。


「明日、どこから回る?」

「宿の親父が言ってた西の区から。珍しい病を診てる薬師がいるって」

「遠い?」

「広場を抜けて川沿いに北。半日あれば回れる」


セナが紙に道順を書き取った。字は僕より大きくて丸い。


「マルセル、今日ずっと機嫌悪かったね」

「……街のせいだよ」

「ふうん」


セナはそれ以上聞かなかった。

昼の通りのことを察している。察した上で聞かないでおくと決めた顔だ。


「明日は朝早く出よう。聞ける薬師は全部聞きたい」

「うん。リクが地図、私が話す係ね」

「いつもと逆だね」

「たまにはね」


セナが笑って戸を閉めた。


それから僕はノートを開いて今日のことを書いた。

支部の掲示板の桁。受付の数。荷の引き渡しの日数。薬師街までの道順。


それから、すれ違った二人連れのこと。

確かなことは何も書けないから、ただ「若い二人。迷わない歩き方」とだけ書いた。


書きながら、この街の大きさをもう一度思った。

テルナでは数えれば足りた人や荷がここでは数え切れない。それだけ医者も薬師も多い。

母さんの病を知っている誰かが、この人の多さのどこかにいるかもしれない。


明日から薬師を回る。

前の冬は回れなかった。今度こそだ。


窓の外でクレウスの夜の音が低く続いていた。

テルナの夜よりずっと底が深い。

その音のどこかに、マルセルの語らない過去も、すれ違った二人連れも、母さんの病の答えも紛れている。

まだ何ひとつ掴めていない。


ただ、朝になればこの街を自分の足で歩ける。

今はそれで充分だった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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