第29話「14歳」
何も変わらない朝に目が覚めた。
14歳になった。
頭の中で確かめても昨日との違いは見つからない。
体の感じも考えることも昨日のままだ。
僕にとって誕生日はあまり実感のないものらしい。
村にいた頃は母さんが朝に気づいてくれた。
特別なごちそうではない。いつものスープに卵が一つ落ちているだけだ。
母さんは「おめでとう」とは言わない。その皿を少しだけ僕の前に押してよこす。それが合図だった。
父さんは何も言わず、その日だけ薪を多めに割っておいてくれた。
セナは毎年きまって野の花を一輪持ってきた。摘んだばかりの、名前も知らない花だ。何も言わずに窓辺へ置いていく。
静かで、それでも確かに祝われていた。そういう朝だった。
もっと前の世界のことはうまく思い出せない。
祝われた記憶があったのかどうかも曖昧だ。
覚えているのは机に積まれた書類と、窓の外が暗くなる速さくらいのものだ。
誰かが「お先に」と帰っていって、自分だけが残っている。そんな夜ばかりだった。
その日もたいてい誰かの予定の合間に紛れて過ぎていった。
今年は忘れていなかった。
昨夜セナにあれだけ念を押されたから。
それでも今日も依頼はある。いつも通りこなすだけだと思っていた。
---
昼の依頼は小さなものだった。
町外れの薬草園で根を掘り返す野ネズミの駆除をセナと僕でこなす。
半日で終わって報酬は雀の涙だ。
それでも台帳の記録はちゃんと一件増える。
セナは朝から機嫌がよかった。
帰り道もずっと口の中で鼻歌のようなものを鳴らしている。
時々こちらを見てすぐ目をそらす。何か隠している顔だった。
「セナ、今日やけに機嫌いいね」
「リクのおかげかもね」
「……意味わかんない」
「いいから」
そう言ってまた鼻歌に戻る。
何かあるのは明らかだったが、聞いても無駄なのはわかっていた。
ギルドに戻ると受付にはルナがいた。
僕とセナの報酬を台帳につけながら、こちらを見もせずに言う。
「14になったんだってな」
「はい」
「ふうん」
それだけだった。
ルナは叔母だ。父さんの妹で、この町のギルドの受付をしている。
村を出た僕とセナがここでやってこれたのは半分はこの人のおかげだ。
無愛想だが面倒見のよさを隠そうとして隠しきれていない。
村を出る時、普段無口な父さんが珍しく叔母さんの名前を口にした。『困ったらルナを頼れ』と。
叔母さんは僕が小さい頃に町へ出て行ったから、当時の顔はもう覚えていない。
それがいまは毎日この受付で顔を合わせている。
「メシはちゃんと食ってるか」
「食ってます」
「ならいい」
ルナは台帳をぱたんと閉じた。
「マルセルが朝から妙にそわそわしてた。今日はもう上がっていい。早く行きな」
セナが横で袖を引く。
ルナは何か知っている顔だったが、それ以上は言わない。
去り際、背中に声がかかった。
「エラたちにも、たまには手紙でも書いてやれ。誕生日くらいはな」
村に残してきた、病を抱えたままの母さんのことだ。
母さんに手紙を書くのはいつも少しだけ気が重い。
元気だと書けば本当よりも軽くなるし、心配ごとを書けば遠くで気に病ませる。
だから書く手が止まりがちでつい後回しにしていた。
「……書きます」
「順番だ。今やれることをやってりゃいい」
順番。ルナがよく使う言葉だ。
焦って手を伸ばしても届かないものは届かない。今できることから順に。
ルナの手元ではもう次の依頼書が開かれていた。
ルナはそう言って次の冒険者の対応に戻った。
僕はその横顔を一度だけ見てギルドを出た。
外はもう日が傾いている。
屋台が店じまいを始め、通りに焼けた油と埃の匂いが残っている。
セナは何も言わずに先を歩く。その足取りはやっぱりどこか浮いていた。
---
食堂のいつもの卓にマルセルとエマとユルが先に座っていた。
僕が顔を出すとエマが「お、来た来た」と片手を上げる。
卓の真ん中にいつもより品数の多い皿が並んでいた。
パンに煮込み、滅多に頼まない焼いた肉まである。
店主がこちらを見て、何か知っている顔で奥へ引っ込んだ。
呑み込めずに立っているとセナが背中を押した。
「座ってよ。今日はリクの日なんだから」
誕生日を祝われる。
その場に僕はうまく体が慣れなかった。
人が集まって自分のために卓を囲む。こんなことはたぶん初めてだ。
嬉しいより先に落ち着かなくて、手の置き場所に困って卓の端を指でなぞった。
「ぼけっとすんな。冷めるぞ」
マルセルがぶっきらぼうに言った。
席に着くとセナが真っ先に肉を取り分けてくる。
エマがエールの杯を掲げ、ユルが「まあまあ、まずは食べましょう」と笑う。
気づけば僕の皿の上だけ妙に盛られていた。
「リク、肉くらい自分で取れるだろ」
「セナが盛ってくるんですよ」
「今日はいいの」
エマが横から「過保護だな」と笑い、セナが「うるさい」と返す。
いつもの言い合いだ。聞いているだけでその日の強張りが少しほどけていく。
マルセルは何も言わずただ飲んでいる。
ただ、空になった僕の杯に黙って水差しを傾けた。
礼を言う間もなく、もう自分のエールに戻っている。
ユルが「賑やかですね」と誰にともなく呟いた。
湯気の立つ皿と、エマの笑い声と、店の奥から流れてくる脂の匂い。
温かいものを慌てずに食べる。
それだけのことが思っていたよりずっとよかった。
飯がひと段落するとマルセルが布に包んだ何かを卓に置いた。
「やる。手入れ用だ」
開けると小ぶりの砥石と革の手入れ油が入っていた。
新品ではない。よく使い込まれて手に馴染む形をしている。
手に取るとひんやりと重い。マルセルが長く使ってきた手の跡が表面に残っていた。
「お前らは装備の手入れが雑なんだよ。特にセナ」
「私!?」
「ナイフの研ぎが甘い。普段から使うものは丁寧にやれ」
照れ隠しのようにマルセルはエールをあおる。
祝いというより説教の体をしていた。
でもこれがこの人なりの渡し方だと、もうわかっている。
自分の道具を一つ黙って分けてくれたのだと思う。
エマは「私は気の利いたもんは持ってないよ」と笑って、矢を一本卓に転がした。
「あんたの予備。今度の依頼で使いな。当たるかはあんた次第だけど」
「ありがとうございます」
ユルが布袋を差し出してくる。
中には傷薬の小瓶がいくつか入っていた。
「リクくんは前に出ないけど、擦り傷くらいはするでしょう。まあ、お守りです」
「……ありがとうございます」
派手なものは一つもなかった。
どれも明日の依頼でそのまま使えるものばかりだ。
渡し方も中身もこの人たちらしいと思った。
砥石を手のひらで一度握ってみる。ひんやりとして見た目より重い。
矢のはずを指でなぞり、傷薬の瓶の蓋を確かめる。
明日になればどれも当たり前の道具に戻る。
それでも卓に並んだそれを僕はもう一度手に取った。
最後はセナだった。
古びた手帳を一冊、僕の前に置く。
表紙の角が少し擦れている。
「町の古物屋で見つけたの。リク、ノートの減り早いから」
「……これ」
「中はまっさら。いっぱい書けるよ」
僕はその手帳をしばらく見ていた。
表紙の角の擦れは、誰かが先に使っていた証だ。
それでも中の紙は白くて、まだ何も書かれていない。
前の使用者は中の紙を入れ替えて、長く利用していたのだろう。
僕の手の中にある手帳は、新品よりも少し重く感じた。
ありがとう、と言うのが正しいのはわかっている。
でもそれだけだと足りない気がして言葉が出てこない。
村の朝なら母さんに一言で済んだ。
ここではもう少し何か言うべきで、でも続きが浮かばない。
「気に入らない?」
「すごく、いい。ありがとう」
僕のお礼を聞くとセナは笑った。満足そうだった。
たぶんこの席を裏で組んだのはセナだ。
朝からの機嫌も鼻歌も、これだったのだといまになってわかる。
「辛気くさい顔すんな、ガキが」
マルセルがそう言ってまた飲んだ。
「14でその辛気くささは大したもんだよ」とエマがからかう。
ユルが小さく笑った。
ささやかな卓だった。
それでも自分のために皿が並ぶのは村を出てから初めてだ。
村の朝の卵から、ずいぶん遠くまで来た。
---
卓が落ち着いた頃、マルセルがふいに言った。
「お前ら、冬前に長いのが一本入る」
「長いの?」
「クレウス行きの商隊護衛だ。往復で半月。実入りはいい」
エマが「ああ、今年もあれか」と杯を置いた。
「冬の恒例だね。低ランクでも頭数で入れる、数少ない高単価」
「道のりは長いが、危ない区間は決まってる。準備さえすれば外れの少ない依頼だ」
マルセルの説明はいつも通り淡白で、無駄がない。
ユルが「準備、リクくんの得意でしょう」と笑った。
セナが「半月か。長いね」と呟く。
半月分の荷。道中の水場と宿。隊商の人数と荷の量。危ない区間はどこか。
頭の中では確かめておくことが勝手に並びはじめていた。
半月は長い。それでもやることは、結局いつも通りだ。
僕はその名前をもう一度頭の中で転がした。
クレウス。
昨夜の食堂で、若いのが2人いると誰かが話していた。あの又聞きの街だ。
ただの噂で、気に留めるほどのことでもない。
それでも頭の隅に小さく残った。なぜか消えなかった。
それより別のことが浮かんでいた。
前の冬に訪れたクレウスは、テルナよりもずっと大きな街だった。
大きな街なら母さんの病を知っている医者がいるかもしれない。
人が多く集まる街には、それだけ多くの医者がいて、多くの薬がある。
村では聞けなかった話が聞けるかもしれない。
期待しすぎるなと自分に言い聞かせながら、それでも少し前のめりになっていた。
ルナの言葉がまだ耳に残っていた。
「クレウスって、前に同行させてもらった時に行った、東の大きい街だよね」
セナが言った。
「……ああ」
マルセルの返事が一拍だけ遅れた。
さっきまで緩んでいた横顔が少し硬くなっている。
クレウスの名を口にしたときだけ、声の温度が下がった。
祝いのあいだずっと崩していた表情だった。それがその一言で戻っていた。
でもマルセルはそれ以上は何も言わない。
エールを飲み干し、「詳しいことは明日話す」とだけ残して立ち上がった。
僕はその背中を見送った。
祝いの日の夜の締めにしては、ずいぶん静かな飲み方だった。
---
宿に戻ってから、もらった手帳ではなく便箋を一枚出した。
叔母さんから言われたことが、まだ引っかかっていた。
母さんへの手紙だ。書きかけのまま何日も置いてある。
ペンを取ってまず「元気です」と書いた。
短い三文字なのに、書き出すまでに少し時間がかかる。
それからクレウスのことを書こうとして手が止まった。
大きな街なら医者がいるかもしれない。
でも、かもしれない、を書くわけにはいかない。
母さんは、そういう一言を本気で待ってしまう人だ。
だから確かなことだけを書いた。
冬前に遠くの街へ依頼で行くこと。道は長いが危ない区間は決まっていること。無事でいること。
それから、誕生日にみんなに祝ってもらったこと。
砥石と矢と傷薬と、古い手帳をもらったこと。
母さんはこれを読んで少しだけ笑うだろうか。
最後の一行はペンを宙で止めたまま、少し迷ってから書いた。
「来年の誕生日も、ここで迎えていると思います」
書いてみると、悪くなかった。
手紙に封をする。明日叔母さんへ頼もう。
村まではしばらくかかる。それでもいつか必ず母さんの手に届く。
ペンを置いて灯りを落とす。
クレウス。前の冬に訪れた大きな街をもう一度思い返す。
母さんの薬。マルセルの硬い横顔。若いのが2人という声。
どれもまだ形になっていない。
ただ半月後にはその街に立っている。
それだけはもう決まっていた。




