第28話「重なってきた日々」
朝の市場が動き出す音で目が覚める。
宿の窓の外で荷車の車輪が石畳を鳴らしている。
野菜を運ぶ音。それを台に並べていく音。夏の終わりの匂いがした。
乾いた土にまだ青さの残る葉の気配が混じっている。
テルナ町に来てから季節は何度か変わった。
最初に着いたのは冬の入り口だった。あれから春が来て夏が過ぎて、いまは秋の手前にいる。
セナは春に正式登録を済ませ、その季節にはもうEランクに上がっていた。
僕はその相棒だ。今の年齢では正式登録ができないから、セナの届出に名前を連ねる形でギルドに通っている。
もともとは母さんの薬を探しに町へ来た。
そんな僕たちの推薦人をマルセルが引き受けてくれて、見習い同行者として雑用と基礎訓練から始めた。
それがいまは、依頼をこなすたびに自分たちの欄へ記録が積まれていく。
僕は起き上がり枕元のノートを開いた。昨日の最後に書いた行を読む。
今日やることを頭の中で並べ直してから服を着た。
窓の外がまだ薄暗いうちに動くのは村にいた頃からの癖だ。
朝のいちばん静かな時間に頭の中を一度片付けておく。
そうしておくと、その日のどこかで慌てずに済む。
誰かに教わったわけではない。気づいたら、もうそうしていた。
宿を出ると通りはもう動いていた。屋台の親父が「兄ちゃん」と声をかけてくる。
「今日もか」
「はい、今日もです」
「気をつけてな」
「ありがとうございます」
それだけのやりとりが、いつのまにか当たり前になっていた。
毎朝決まった時間に決まった道を通るからか、何人かに顔を覚えてもらった。
親しいわけではない。それでも通りに自分の通る場所ができるのは悪くないものだ。
ギルドの扉を開けると、もうマルセルが掲示板の前にいた。
「来たか」
「はい」
「今日のは北の森だ。中型の角持ちが出てる」
マルセルが依頼書を一枚こちらに寄こした。書式はもう何度見たかわからない。
それでも僕は中身を読む前にまず日付と依頼主と報酬の欄を確かめた。
それから魔物の種類。出現位置。過去の討伐記録があるかどうか。
「昨日、北で角持ちの討伐記録があります」
「あるな」
「群れの残りかもしれません」
「だろうな」
マルセルが顎を引いた。掲示板から依頼書を一枚外して上着に押し込む。
「行くぞ」
「はい」
セナが宿の方から走ってきた。
「ごめん、遅れた」
「大丈夫。間に合ってるよ」
「リク、ほんとに朝早いよね」
「そうかな。いつも通りだよ」
「そのいつもが早いんだって」
セナはそう言って笑った。走ってきたせいで結んだ髪が少し崩れている。
エマとユルはもうギルドの裏口で支度を終えていた。
エマが弓のつるを指で弾いて音を確かめている。
ユルはその横で杖の先を布で拭いていた。
「揃ったか」
「お待たせしました」
「北なら、早く出れば昼過ぎには戻れるね」
エマはそう言って矢筒を背負い直した。
ユルが「まあ、天気も持ちますね」と空を見上げる。
マルセルが先頭で歩き出した。
街道に出ると土の色が先月までと違っていた。
乾いた茶色だった地面が雨のあとの濃い色に戻っている。
道の脇の草も穂を垂れはじめていた。季節が動いている。
歩きながら僕は昨日の台帳を頭の中で開いていた。
討伐された個体の体格。出てきた位置。使われた戦い方。
書かれている情報は多くない。
それでも「書いてあること」と「書いていないこと」を分けておくだけで、今日の動き方が変わる。
書いていないことの方がよく役に立った。
誰がどの方角から追い込んだのか。何分かかったのか。
そこが抜けている記録は結果しか残っていない。結果だけでは次に活かせない。
「マルセル、北の斜面に登り口があります」
「使うのか」
「昼過ぎに戻るなら、こっちが速いです」
「……わかった」
マルセルが進路を変えた。少し行くとエマが横に並んでくる。
「リク、今日も早かったね」
「準備が早かったので」
「どこからどこまでが準備なんだよ、お前は」
エマは笑いながら言った。
長く組んでいる相手は笑い方が少しずつ寄っていくのかもしれない。
エマとマルセルのそれはどこか似ている。
セナは少し前を歩いていた。
Eランクに昇格してから段取りで前に出ることが増えている。
マルセルが何か言うと、いちばん早く動くのはセナだ。
僕はその背中を見ながら歩く。一歩か二歩、後ろを。
並ぶよりそのくらいの距離がちょうどよかった。
前に出るのはセナで、僕はその分だけ全体が見える。
役割が、気づけばこういう形に落ち着いていた。
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北の斜面の登り口は思ったより使いやすかった。
直登より遠回りに見えて、足場が固いぶんだけ速い。
エマが「ほんとに近いな」と言う。ユルが小さく笑った。
マルセルは何も言わない。ただ、歩く速さは落ちなかった。
角持ちを見つけたのは昼前だった。
中型が二体。少し離れて、別々に草を食んでいる。
僕はしゃがんで足跡の散り方を見た。
蹄の跡は二頭分。ただ、群れの規模ではない。
来た方角が左右で違う。二頭は別々に流れてきて、たまたま同じ餌場に行き着いたらしい。
木の幹の角の傷も新しいものと古いものが一つずつ。連れなら傷は寄る。
「二頭います。でも群れじゃありません」
「根拠は」
「跡の方角が左右で違います。連れなら傷も寄るはずです。別々のはぐれかと」
マルセルは少し黙って、それから頷いた。
「一頭ずつ片付ける。どっちからだ」
僕は二頭を見比べた。
右の一頭は耳がよく動いて、こちらを気にしている。左は頭が低く、動きが鈍い。
「右からです。左は気づくのが遅い。先に右を片付けてから回れます」
配置は見慣れた形になった。
マルセルが正面、エマが弓、ユルが後ろ、セナが拘束。
僕は横へ流れて二頭の間に立った。どちらが先に動くか、声にするためだ。
右の一頭が頭を振った。その振り方を見て僕は声を出した。
「右、来ます」
セナの拘束が一拍早く展開する。
右の角持ちの前脚に光の輪がかかり、踏み出そうとした足が半分だけ遅れた。
その半分をマルセルは見逃さない。鎚が角の付け根を叩く。
崩れたところへエマの矢が首の側面に入り、ユルの光が足元を固めて二撃目が落ちた。
一頭目が沈むと、左の角持ちがようやく顔を上げた。
「左、来ます。さっきより遅いです」
僕の声で、もう全員が向きを変えている。
セナの拘束、マルセルの踏み込み。さっきと同じ手順がもう一度なぞられた。
左は読んだ通り反応が遅れて、その分だけ楽だった。
二頭が倒れて、それで終わった。
僕は攻撃には加われない。
代わりにどちらを先にやるか、誰がどこへ動けば一手で済むかを半拍だけ早く声にする。
倒れる向き。足の流れ。味方の位置。
それを見ているのが、いまの僕の役目だ。
終わってみると、思ったより早かった。
二頭でも、手順さえ決まっていれば一頭の倍はかからない。
ユルが角持ちのそばにしゃがんで、毛並みと脚の具合を確かめた。
「二頭とも痩せてますね。群れから外れて、だいぶ経っていたみたいです」
ユルはそっけなくそう言って立ち上がった。
確かめたことを確かめた分だけ口にする。
その淡々とした感じが僕は嫌いではない。
帰り道、誰も特別なことは言わなかった。
ただエマが一度だけ「最近、こういう日が増えたな」と言った。
マルセルは答えなかった。答えないのはたぶん肯定を意味している。
セナが僕の隣に来て小声で言う。
「リクが先に言ってくれると、やっぱ動きやすいや」
「たまたまだよ」
「たまたまじゃないよ、絶対」
セナは前を向いたまま言い切った。
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ギルドに戻って依頼書を受付に出した。報酬を受け取り台帳に署名する。
隣の窓口で、最近登録したばかりの若い冒険者が受付の人に何か尋ねていた。
「あの相棒の子、行く前に毎回台帳を見てるって本当か」と言っている。
受付の人が「ええ、毎回ね」と笑って答えた。
若い冒険者は少し考える顔をして、それから掲示板の方へ歩いていった。
僕は自分のことだと気づくのに少しかかった。
ただ、気づいても特に何も思わなかった。
台帳を見るのを忘れないようにしているだけだ。
誰かに見せるためにやっていることではない。
マルセルは掲示板の前に戻って何かを眺めていた。
「お前ら」
「はい」
「悪くない動きだった。……だが調子に乗るなよ、ガキども」
それだけ言ってまた掲示板の方を向く。
褒めるのが得意な人ではない。最後のひと言は照れ隠しだろう。
事実だけ伝えるのが据わりが悪くて、つい余計なものを足す。
そういう不器用さがこの人にはある。
その夜はいつもの食堂で四人と飯を食った。
エマがエールを頼んで、ユルはパンをちぎって皿の汁につけている。
マルセルは離れた席で先に飲んでいて、こっちには手も振らない。
それでも僕らが座ると、店主に「あいつらにも同じものを」と低く言ったのが聞こえた。
セナが肘でつついてくる。
「ね、聞いた」
「聞いた」
「ああいうとこだよね、あの人」
僕は頷いた。ああいうところがあの人だ。
近くの卓で依頼帰りらしい一団が声を張っていた。
「——クレウスの方に、若いのが2人いるらしいぜ。まだ子供みたいなのに、相当やるって」
「ふうん」
聞くともなく耳に入っただけだった。僕は気に留めず、セナの話に頷き返した。
夕食のあいだ、セナはよく喋った。
今日の角持ちのこと。次に受けたい依頼のこと。村への手紙にまだ何を書くか決まらないこと。
僕はだいたい聞いている側だ。相づちを打って、たまに短く返す。
それだけでもその日の終わりが少しやわらかくなる。
エマが二杯目を頼む声がして、ユルが眠そうにあくびをした。
いつもの夜だ。
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宿に戻った夜、僕はノートを開いた。
今日のことを書く。
北の斜面の登り口を使った。二十分で終わった。はぐれの一頭だった。
あと、次に北へ行くときは、はぐれの出やすい時季かどうかを先に確かめておくこと。
書きながら最初のページから何枚かめくってみた。
来たばかりの頃の字は荒れている。
書く時間も惜しかったし、書いても次の日に読み返さないこともあった。
途中から字が落ち着いてきている。大きさが揃って間隔も整っている。
書くこと自体に慣れたからだ。
それと――書いたものを後で使うようになったから。
覚えていたつもりのことを、僕はよく忘れる。
だから書く。書いておけば困らない。それだけのことだ。
ペンを置くと肩のあたりに重さを感じた。
熱というほどではない。芯のところが少しだるい。
こういう疲れ方を前にもした覚えがあった。
ずっと昔だったのか、つい最近だったのか、どこでとは思い出せない。
僕はそれをそのまま流した。
寝れば治る。たいていのことは寝れば治る。
そうやって体を慣らしてきた。
隣でセナが手紙の続きを書いていた。村への返事をずっと書きかけにしている。
「リクさ、もうすぐ誕生日じゃん」
ペンを止めて顔を上げた。
「そうだっけ」
「そうだよ。秋でしょ。私ちゃんと覚えてるもん」
セナはそう言ってまた手紙に目を戻した。
そういえばそうだった。
村にいた頃は、誰かに言われるまで自分の誕生日を忘れていることがよくあった。
祝うような余裕も相手もいなかった。
もっと前の別の世界でも同じだった。
その日もたしか何かの締め切りの途中だった。
だからこれが普通だと思っていた。
ここでも、放っておけば忘れる。
「絶対お祝いするからね」
「いいよ、そんなの」
「よくない」
セナは前を向いたまま言い切った。
手紙のペンは止まっている。たぶん、もう中身は僕のことに移っている。
やがてセナは手紙を畳んで立ち上がった。
「おやすみ。また明日」
そう言って自分の部屋へ戻っていく。
僕はもう少しノートを見てから灯りを落とした。
外で誰かが笑う声がした。
テルナ町の夜が続いていく。
止まらなかっただけの日々が、ノートの厚みになって指の下に残っていた。
何が変わったのか、自分ではよくわからない。
それでも、めくれるページは増えている。
明日もまた一枚、増えるはずだ。




