第26話「Eランク」
セナの冒険者登録から1ヶ月が過ぎた朝、宿の窓の縁にうっすら水滴が並んでいた。
夜のうちに降った雨の名残だ。雪解けの時期はもう過ぎて、雨が地面をそのまま濡らす季節になっている。
廊下の戸が一つ向こうで開く音がした。セナがいつものように先に下りていく足音が階段に響く。
僕は廊下の角で水音が止むのを待ってから自分の戸を開けた。
1メートル半の廊下の感覚はもう体に馴染んでいる。
戸を閉める音、階段を下りる音、水場の音、それから食堂のおかみさんの「おはよう」。
朝の手順は1ヶ月で半ば自動になっていた。
「相棒」になってから受けた依頼はFランクの依頼が11件。
雪かきの後始末、雪解け道の整備、市場の荷運び、薬師の処方の運搬。
2人で1枠を受けても、報酬は1人ずつFランク分が出る。見習いの頃より増えた。
宿代と食費を引いた残りがノートに積もっていく。速度は1ヶ月前より少し速い。
それとは別にマルセルの単発にも何度か臨時で入った。
中型ウルフの討伐を皮切りに、Eランクの街道護衛や魔物討伐の補助。
Fランクの依頼は多くが雑用だったため、マルセルについていった依頼では多くの実戦を経験できた。
セナの拘束魔法が通用する相手の幅もその分だけ広がっていた。
セナが先に食堂を出て広場の方を向いた。今朝はギルドに用がある。
ルナ叔母さんからの呼び出しが昨日の夜に届いていた。
「明日の朝、来な」とだけ書かれた紙が宿の主人から渡された。
中身までは書かれていなかった。
歩きながらセナが小声で言った。
「ルナさん、何だろう」
「分からない」
「依頼かな」
「依頼ならグレスから直接来る」
セナが頷いた。
朝の広場はもう屋台が並び始めていて、スープの湯気が4軒分立っている。
雪解けの時期に閉じていた店もここ数日で全部開いた。
ギルドの戸を押すとルナは奥の小部屋から出てきたところだった。
受付台の脇に立ったまま、僕とセナの方を見て片方の口の端を上げる。
「来たな」
「はい」
「今日呼んだ理由はこれだ」
ルナが手の中の冊子を一度叩いた。
冬の入口の頃に作ってもらった、僕とセナの専用の冊子。中のページが1ヶ月でまた厚みを増している。
「セナ、Eランクへの昇格の実技試験だ」
セナの肩が一度だけ動いた。
動いたというより、息が一度止まって戻った時の動き方だった。
口を開きかけて結局言葉は出てこなかった。
「……早すぎませんか」
「まあ、遅くはないな」
そう言うと、ルナは冊子の縁を指で1度叩いた。
「だが、見習い時代の同行実績はギルド側にも積まれてる。
依頼も11件こなした。マルセルの単発に臨時で入って、Eランクでの実戦経験も何度かこなしてる。
実績は十分だ。
ただ、短期間での昇格は実技試験で実力を測る場合がある。
お前の腕は疑っちゃいないが、決まりは決まりでな」
「……はい」
「試験は明後日の午後。練武場。試験官はグレスだ」
セナが膝の上の手を組み直した。
組み直す強さはこの1ヶ月で1番。嬉しいのか戸惑っているのか、横から見ているだけの僕には分けられなかった。
ただ、その強さは表情には表さない。
「リクは同行できますか」
「観覧席に座って見てろ。だが声は出すな」
「はい」
ルナがそれだけ言って冊子を閉じた。
それから僕の方を見てもう一度口の端だけを上げる。
「お前は何も言わないんだな」
「今はセナの番ですから」
「……順番、ね」
「はい」
ルナが片方の眉だけ上げてそれで会話は終わった。
外に出ると朝の光が広場の石畳に低く広がっていた。
セナが一度立ち止まって腰のFのプレートに手を当てる。
「リク」
「ん」
「明後日の午後」
「うん」
「私、やるよ」
セナはそれだけ言って歩き出した。
歩幅がギルドに入る前より広い。広いけれど速くはない。
セナの中で「絶対」が口の中で抑えられているのが、横にいる僕にはまだ分かる。
---
2日後の午後。練武場にセナが立っている。
天井の高い屋根付きの石床で、四隅の柱の影が午後の光で長く伸びている。
試験官はグレスだった。基礎訓練の時に世話になった教官だ。
砂の場の端にもう1人いた。40代後半の、見たことのない男。革の上着の襟元に小さなギルドの紋章が縫い付けてある。
グレスがその男に何か短く言うと、男は壁際の椅子に腰を下ろした。試験には加わらず、見ているだけのようだった。
僕は観覧席の縁に座っていた。
観覧席といっても木の長椅子が並んでいるだけで、依頼者や見学者が腰を下ろせる程度の場所だ。
今日は僕の他に2人。ギルドの記録係と、ルナ叔母さんが少し離れて壁に背を預けている。
「声は出すな」と言われている。僕にできるのは見ていることだけだ。
村にいた頃から、セナが何かを試される時、僕はいつも見ている側にいた。
「Eランク昇格の実技試験を始める」
グレスがそう告げる。
セナが頷いた。先端の布を外した杖を右手に持って息を一度短く吐いた。
「まず拘束魔法。模擬対象は3つ。動作の設定は中型魔物相当」
砂の中央に木と布で作られた模擬対象が3つ並べられた。
人型に近い形だが、関節の位置が魔物寄りに調整されている。
細工はギルドの工房製で、足元に魔法の起動装置が仕込まれている。
グレスが手を上げた。
「始め」
模擬対象3体が一斉に動き出した。
3つとも砂の上を不規則に進む。歩幅と方向が少しずつ違う設定だ。
セナの杖の先端が動いた。
1体目の足元に光の輪が走る。輪は4本。間隔は狭い。
1体目が砂の上で止まる。
2体目への切り替えはセナの呼吸の継ぎ目で起きた。
息を吸う前と吐く後で杖の角度が変わっている。
2体目の足元に同じ光の輪。本数は5本。
3体目はセナの正面から来た。
セナが半歩だけ右に動いて杖を左から右へ払う。
3体目の足元に走った輪は今までで一番太い。
中型魔物相当の重さを止める時はあれくらいの太さが要る。
町に来てから、セナの拘束魔法の輪は何度も形を変えていた。
3体とも砂の上で停止した。
グレスが短く頷く。
「拘束試験、終了だ」
「ありがとうございます」
グレスが続けた。
「次は実戦相当の実技試験」
砂の中央に新しい模擬対象が置かれた。
今度は中型魔物の模擬ではなく、4本足の小型魔物相当の動作をするものだった。
ただし、3体ある。
動きの速さが今までの倍。
「前半は的だ。動きを止めろ。止め終えたら、最後の1体はこちらで速さを上げる。向かってくるのを防げ」
セナが一度深く呼吸をつく。
息を吐く時間がいつもより長い。準備の長さの分だけ深く集中しているように感じる。
僕は膝の上で手を握っていた。声を出すなと言われた分、手の置き場所がそれしかなかった。
2体が砂の上を進み出した。
1体目の足元に光の輪。続けて2体目にも輪が走る。
今までより速い動きの中で2体とも砂の上に止まった。
残る1体が速度を上げた。
正面からセナへ一直線に迫る。
セナが杖を引いて目の前に薄い光の壁を立てた。
迫った1体が壁にぶつかって弾かれる。
壁は崩れない。
止めた2体の輪も解けていない。
「試験終了」
グレスが手を上げて止めた。
セナが杖を下ろす。
肩が一度だけ大きく上下した。
グレスがもう一度短く頷いた。
「合格だ、Eランク昇格」
セナが頷きを返した。
頷きの動作は短いが、頷くまでの間が普段より長かった。
壁際の男が一度だけ頷いて、静かに椅子を立った。
グレスに何か短く言い置いて、奥へ消えていく。
ルナ叔母さんが壁から背中を起こしてこちらに歩いてきた。
「お疲れさん」
「ありがとうございます」
セナがそれだけ言って腰のFのプレートを指先で確かめた。
今日の終わりに、ここがEに変わる。
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受付に戻ってルナがプレートの裏を新しい板に張り替える。
書き替え自体は短い作業で、Eの刻印が彫られた板に持ち手の革紐を通し直して、セナのフルネームを彫る。
彫る時のルナの指の運びが冬の入口の頃と同じ手順だった。
あの時はFを彫っていた。今日はEを彫っている。
「持ち上げな」
セナがプレートを両手で受け取った。
胸の前で1度握ってから腰の紐に挟む位置に移す。
紐の長さの調整はFの時と同じ位置で済んだ。Fのプレートと、Eのプレートはほぼ同じ大きさだ。
それでも、Eの刻印の重さは違う。
村を出てから半年。セナは見習いから始めて、先月Fランクになって、今日Eランクに届いた。
多くの新人冒険者がEランクに上がるのには、半年から1年程度を要すると前にエマさんが言っていた。
セナは1ヶ月でそれをやった。
「これで今日からお前はEランクのセナだ。よろしく頼む」
「はい」
ルナがそれだけ言って受付台に戻った。
台帳に1行書き加える。書く速度はいつも通り。
ただ、書き終えてから台帳の縁を1度叩いた。叩いた時間が普段より長かった。
「ルナさん」
「ん」
「リクの相棒登録も上限が変わりますよね」
「ああ。Eランクまでの依頼が受けられる」
「はい」
ルナがペン先を止めて僕を見た。
「ただし、相棒の上限は届出元のランクまでだ。
Dランクの依頼は受けられない。それは前にも言ったとおりだ」
「分かってます」
ルナが頷いた。
それから僕の方を見て片方の口の端を上げる。
「お前、嬉しそうだな」
「……顔に出てますか」
「出てない。けど、立ち方で分かる」
僕は何も返さなかった。
ルナはそれ以上は言わずに次の冒険者の対応に入った。
ギルドを出る時、受付近くで何人かの冒険者がこちらを見ていた。
視線が集まる、というほどの強さではないがいつもよりは長かった。
セナはそれに気付きながら、いつも通りの足の運び方で戸を押した。
受付台帳の方を一度だけ振り返ってルナに小さく会釈をしている。
気付かれているけれど、気付いていない振りもしない距離感だった。
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夕方近くまで広場の屋台で軽く食べてから依頼掲示板の前に立った。
Eランクの欄に貼られている依頼を初めて自分のものとして眺める。
「セナ」
「ん」
「これとか」
「街道整備の警備。3日で銀貨2枚」
「半日で帰れる依頼じゃないけど」
「うん」
僕たちが選び終わらないうちに、ギルドの戸が後ろで開く音がした。
背中越しに気配で誰かは分かる。
革の胸当ての擦り傷の位置が、もう体に覚え込まれている。
「よう、ガキども」
マルセルの声だった。
セナが振り返った。その動きはいつもより少しだけ早い。
言いたいことは言わなかった。
代わりに腰の位置がいつもより前に出ている。Eの板の重さを見せる時の立ち方だ。
マルセルが3歩近づいてきてセナの腰の位置で目を止めた。
それから視線を上げてセナの顔を見た。
それだけだった。
マルセルは何も言わなかった。
セナの口がもう一度動きかけて、止まった。
言いかけたのは「絶対」ではない。「Eまで来ました」だったかもしれないし、別の言葉だったかもしれない。
どれであっても、マルセルはそれを聞く前に視線を外していた。
「次の依頼、出てるぞ」
「え、あ、はい」
「街道整備、ロンが受けてる。補助が1枠空いてるな」
「相棒制度で2人で1枠は」
「ロンに聞いてみろ。あいつなら通すだろ」
「はい」
マルセルがそれだけ言って奥のテーブルの方に歩いていった。
歩幅はいつものマルセルの歩幅で、振り向きもしなかった。
セナがしばらく動かなかった。
腰のEの板に指をかけたまま、マルセルの背中が奥に消えるのを目で追っている。
「とりあえずはEを目指せ」と言われた朝から、1ヶ月が経っていた。
今日のセナは、その「E」に上がった状態でこの場所に立っている。
それでも、マルセルは何も言わずに去った。
セナが薄く息を吐いた。
吐く息の長さは怒っている時のものではなかった。
かといって、納得している時のものでもなかった。
冬の入口の頃に村から町に来てから、セナのこの息の吐き方を僕は初めて見た。
「行こうか」
「うん」
「依頼の件は明日の朝でいい?」
「うん」
セナが腰に手を添えたまま戸の方へ歩き出した。
僕は2歩遅れて歩き出す。
歩幅はいつもより短かったが、向きはギルドの戸の方をしっかり向いていた。
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ギルドを出る前にもう一度、奥のテーブルの方を見た。
マルセルが椅子に座って麦酒の杯を持っている。エマさんとユルさんはまだ来ていない。
1人で杯を傾けている時のマルセルは僕たちの方を見ない。
ただ、麦酒を口に運んでから杯を置く時に、小さく口の中で何か言った。
僕には聞こえなかった。
聞こえなかったが、口の動きの形は「伸びてんな」に似ていた気がした。
戸を押して外に出る。
夕の鐘がまだ鳴る前の広場は屋台の灯りが点り始めたばかりで、人の数がさっきより多い。
セナが少しだけ前を歩いている。
Eのプレートの重さがそうさせているのか、それとも別の重さがそうさせているのかは、今の僕にはまだ分からない。
「セナ」
「ん」
「明日、ロンさんに聞いて、街道整備の依頼を受けよう」
「……うん」
セナは頷きながらプレートに指を触れた。
その時間は、今朝に触れていた時間より少し長かった。
帰り道は屋台の灯りの間を抜けていく。
雪解けの匂いはもう薄くて、代わりに花の匂いが屋台の隅から混じる。
春が来た、と思った日から1ヶ月。今夜は春そのものの匂いがしていた。
宿に戻っても、セナはすぐに部屋へ入らなかった。
自分の戸の前で立ち止まったまま、僕の方を見ずに口を開いた。
「リク」
「ん」
「何も言ってもらえなかった」
「うん」
セナの声が戸の向こうで一度途切れた。
「『ガキじゃない』とも言ってもらえなかった」
「うん」
「……まだ、足りないってことかな」
セナの声は静かだった。怒っている声ではない。
ただ、確かめている時の声だった。
「足りないかどうかは、マルセルさんが決める」
「うん」
「セナが決めるのは別のことだ」
「……うん」
セナがそれだけ言って、自分の部屋の戸を閉めた。
1メートル半の廊下を挟んだ自分の部屋に戻る。
机にランプを灯してノートを開いた。
今日書くべき行は2つだった。
Eランク/試験通過
無言/「ガキじゃない」は出なかった
書いてから、線を引いて、横にもう1行書き足した。
足りないかどうかは、マルセルが決める
3行を並べて読み返した。
3行目の意味はセナにはたぶん伝わっている。今夜じゃなくても、いつか伝わる。
御守りに手を当てた。
布の温度は宿の部屋の温度に並んでいた。
今夜の御守りは冬の入口の頃と同じ静かさで僕の掌の中にあった。
セナの戸の向こうで何かの音が一度だけした。
紙をめくる音だったかもしれないし、別の音だったかもしれない。
聞こえた音の正体を今夜は確かめないでおく。
明日の朝、ロンを訪ねる時にセナがどんな足の運び方で歩き出すかで、今夜の音の意味も少し分かる気がした。
ランプを消した。
窓の外で春の風が宿の窓を一度撫でた。
冬の入口の風よりも温度の高い、けれど夏の風よりはまだ柔らかい風の音だった。




