第23話「セナ、15歳」
セナの15歳の朝、雪は完全に消えていた。
廊下の戸が一つ向こうで開く音がした。
先週、ルナ叔母さんが宿のおかみさんに話をつけてくれた。
セナの部屋は廊下を挟んで僕の向かい側になった。
廊下を挟んだ距離は1メートル半ほどだ。
声をかければ届く距離だが戸は閉まっている。
閉まっている戸の音は廊下の角まで届く。
セナの戸が閉まる音を聞いてから、僕は自分の戸を開けた。
順番は逆にしないようにしている。先に出るとセナを待たせるし、後ろから歩くと急かしているように聞こえる。同じ時間に廊下に出るのが今のところ一番収まりがいい。
ここまで続いていた習慣は部屋が分かれてからも変わらない。
変わらないのはセナと僕の方が同じ場所にいるからだ。
1メートル半の廊下は村にいた頃の家と家の間より近い。
それでも、村の頃に同じ家にいた時より戸の音が間に増えた。
増えた戸の音の分だけ朝の時間の組み立て方が変わった。
セナが先に階段を下りる足音。それから水場の蛇口の音。
僕は廊下の角でそれが終わるのを待つ。
食堂で朝の支度を済ませてギルドに向かう。
外の空気は冬の入口と、冬の終盤と、春の入口でそれぞれ違う。
今朝のテルナの空気は3つ目だった。
セナが普段より3歩前を歩いていて、僕は2歩遅れる。
普段は2歩前のセナが今朝は3歩前。誕生日の朝の足の運び方らしい。
踵の地面への置き方も今朝はいつもより軽い。地面が湿っているのに足跡が浅い。気持ちが地面を踏む強さを決めるのだろう。
ギルドの戸を押す。
ルナが受付の奥にいた。台帳を閉じてこちらを見る。
「来たな」
「はい」
「今日だね」
「……はい」
セナがプレートの台に進む。
ルナがプレートを取り出して、台の上に置いた。銅より少し薄い色の板で表に『F』と刻まれている。
裏にはセナのフルネーム——冬の入口の頃にセナがルナ叔母さんに伝えたのと同じ形のフルネームが彫られていた。
ルナはプレートを受け取り台の中で2度叩いた。
「正式登録、受理した。Fランクのセナだ」
「ありがとうございます」
「冒険者として、よろしく頼む」
セナがプレートを両手で受け取った。
持ち上げる時の腕の動き、握り直す指先、それから胸の高さで一度止める動作。
プレートを胸の前で握ったまま、セナが息を一度吸って、それから吐いた。
ルナの目がセナの動きを最後まで見ていた。
「前祝いはなしだ。あんたが選んだの今日だった。それだけだ」
「はい」
セナが頷いた。プレートを胸の前から、腰のベルトに通す紐に挟む位置に移した。
紐の長さはまだプレートに合わせて調整していない。
受付台のあたりを見渡したがマルセル達の姿はなかった。
依頼中か、別の用事か。誰かが知らせるわけでもない。
F登録は知らせるべき相手には届く速度で届く。叔母さんが言いそうなことだ。
ギルドを出ると春の光が広場の石畳に低く広がっていた。
午前の空気はまだ少し冷たい。けれど、冬の入口の頃のような乾いた冷たさではなく、湿りを含んだ冷たさだった。
セナが立ち止まって、ベルトのプレートに手を当てている。
「セナ」
「ん」
「よかったね」
「うん。リクも来年だね」
「……うん」
それだけだった。
セナの「絶対」が口の中で抑えられているのが僕には分かった。
口に出してしまうと泣くと知っているから抑える。村の頃から続いている動き方だった。
セナはプレートを腰の紐に挟んだまま、しばらく広場の方を見ていた。
広場の屋台の手前で雀が2羽、地面の何かをついばんでいる。
雀の動きが止まる瞬間とセナの呼吸が止まる瞬間が一度だけ重なった。
重なってからセナはまた歩き出した。
歩き出してからの足の運び方がギルドに向かう時より少しだけ重くなっていた。
重さの種類は悲しい時の重さではなく、大事なものを腰に下げて初めて歩く時の重さだった。
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午後、宿に戻って軽く食べてから僕はもう一度外に出た。
セナには「ちょっと」とだけ言って広場の隅まで戻る。
冬の入口の頃に足を止めた。あの店だ。
店先には木彫りの飾りが並んでいる。
冬の入口の時から並んでいた1つを僕は確かめた。
親指の先ほどの大きさで紐の色が母さんの絹糸に近い。
アーシャさんが母さんに教えた、結び方の癖がある糸の色。
冬の入口に通った時は売れずに残っていた。
3週間ほど経っても同じ位置に同じ向きで残っている。
店主は僕を覚えていた。「また来たか」と短く言って、木彫りを掌に乗せた。
僕は銀貨1枚を差し出してその1つを受け取る。釣りはなかった。
銀貨1枚は安くない。けれど、今朝までに僕の手元にあった額の中ではちょうどよかった。
クレウス行きの長期依頼で得た取り分から、宿代と食費と装備の修繕費を引いた残り。銀貨1枚あまり。
1枚をここに置いた。残りは冊子に記録される側に戻る。
宿に戻りセナの部屋の戸を一度叩いた。
「リクだけど、入って良い?」
「うん。入って」
戸を開けるとセナは机に向かってノートを書いていた。
Fランクになった日の出来事を今日のうちに書いておく癖。
村の頃から、何か区切りのある日にはいつも1ページ多めに書いている。
「セナ」
「ん」
「これ、誕生日のやつ」
セナが顔を上げた。
「いつ」
「冬の入口の頃に見て、今日買った」
「……ふうん」
それだけ言って、僕は木彫りを机の上に置いた。
セナが目だけそれを見て、それから僕の方を見て、それからもう一度それを見た。
セナの口がもう一度動きかけて、止まった。
「絶対」と言いかけて止めたのを今日は2度目で僕は聞いた。
「……ありがとう」
「うん」
セナが木彫りを掌に乗せた。
紐の色を指でなぞって、それから絹糸の結び目を確かめる動作をした。
アーシャさんがセナに教えた癖の確認方法だった。
「お母さんの結び方の色だ」
「うん」
「リクも知ってたんだ」
「……うん」
セナは木彫りを胸の前で握ってしばらく動かない。
握り方はギルドでプレートを受け取った時の握り方と似ていた。
1日に2回、セナは大事なものを胸の前で握ることになった。
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夕方、宿の主人が階段の下から声をかけてきた。
「リク、ちょっと」
僕が下に降りると主人が机の脇に小さな包みを置いた。
「あんたの村から届いてた」
「はい」
「朝の便で来てた。昼前には着いてたんだけど、セナの祝いの日だって聞いてたから夕方にした」
「ありがとうございます」
主人が片方の眉だけ上げた。
「次の便は3日後だ。返事を書くなら急がなくていい」
「はい」
包みを抱えて階段を上がる。
セナが部屋から出てきて、廊下で僕の方を見た。
「村から?」
「……うん」
セナがそのまま部屋に戻り、僕も後ろから入って戸を閉めた。
机にランプを灯して包みを2人の間に置く。
紐の結び方がアーシャさんの癖だった。母さんも同じ結び方を見て真似していたから僕も知っている。
紐を解くと布の中から出てきたのは油紙に包まれた金属と紙の束。
油紙の中身は小型のナイフだった。
僕が今持っているナイフより短くて、握りの形が違う。女性の手に合わせた形だ。
セナが両手で受け取って刃を立てる。
窓の光に向ける動作は、村にいた頃に父さんがヴァルドおじさんと話していた時に何度か見た動作だった。
「父さんの鎚目だ」
「うん」
「……鞘も」
刃の側面に薄く残った鎚目の痕は、村の鍛冶場でヴァルドおじさんが「これ以上は均すな」と父さんに言っていた時の鎚目に似ている。
父さんは均しすぎる癖がある、と母さんも言っていた。
今回の鎚目はその癖を抑えた打ち方だった。誰かに渡す前提で打った刃の鎚目だ、と僕は思った。
鞘の革は母さんが裁縫で使っていた革と同じ柔らかさだった。
父さんが鍛えて、母さんが鞘を縫ったのだろう。2人の作業をヴァルドおじさんが横で見ていたかもしれない。
ナイフの刃の縁、握りの内側、鞘の縫い目。
3つに父さんの手と母さんの手が混じっていた。
セナが鞘を一度抜いて、それからゆっくり戻した。抜く時の角度と戻す時の角度が同じだった。
村でアーシャさんが薬箱の蓋を開ける時の角度に似ていた。
紙の束は4枚。はじめの1枚はアーシャさんからのようだった。
「お母さんの字だ」
セナが声に出して読み始めた。
「『セナ、15歳おめでとう。
あなたの15歳のために、ガレンさんに小さなナイフを作ってもらいました。
理由はあなたが知る順番で知っていい。
ただ、今日、それを持っていてくれることが私の今日の一番の安心です』」
セナが一度息を吸った。
「『この手紙を送った朝、私はお父さんとガレンさん・エラさんの家で朝ごはんを食べていました。
4人ともあなたとリクのことを順番に話していました。それぞれが、それぞれの形で』」
セナの目がアーシャさんの字の最後の行で止まった。
セナの口の端が一度だけ上がった。
笑った、というよりは安心した時の口の動き方。
「……ありがとう」
セナがそれだけ言って、紙を膝の上にそっと置いた。
2枚目はヴァルドさんの一行。
「『冒険者になったか。なら、今までよりもメシ食わないとな』」
セナが小さく笑った。
「お父さん、いつもこれ」
「うん」
3枚目には父さんの字で1行だけ書かれていた。
「『鍛冶屋として、おめでとう。鎚目、見ろ』」
父さんの字を僕は1度だけなぞった。
「鎚目、見ろ」というのは父さんが鍛冶場でナイフの善し悪しを教える時の口癖だった。村にいた頃、父さんは僕とセナの両方に同じ言葉を何度も使っていた。
4枚目は母さんの字だった。
「『セナへ。15歳おめでとう。
薬は今も続いています。前より動ける時間が増えました。
今度こちらに帰ってきた時には、私の料理をちゃんと出せます』」
セナが「『私の料理』」と小さく繰り返してから、紙を膝の上に置いた。
セナは手紙を全部読み終えてから、ランプの脇に重ねた。
紙の角を揃える動作は母さんが封筒を閉じる前にいつもしていた動作だった。
セナの手の動きに母さんの手の動きが入っている。
「リク」
「ん」
「……怖くなかった?」
「何が」
「『一緒に来て』って言った時。あの朝」
あの朝、というのは旅立ちを決めた朝のことだろう。
母さんが倒れた次の日の朝。セナが「街へは私が行く」と先に言って、それから僕に「一緒に来て」と頼んだ朝。
僕は「わかった、行く」と返した。順番はそうだった。
セナの問いの形が短くなる時は、本人の中で問い自体は長い時間温められている。
あの朝のことをセナはずっと聞こうと思っていた。聞くまでに時間を置いていた。
「……少しだけ」
「そっか」
「セナは?」
「私も。少しだけ」
セナがそれだけ言って、ランプの炎をしばらく見ていた。
「私も。少しだけ」はセナにしてはやけに短い言葉だった。
普段のセナならもう一文付け足す。「でも、リクが先に言うって決めた後だったから、私は私の順番で決めただけ」のような言い方をする。
今夜のセナは付け足さなかった。
付け足さない時のセナは付け足したい言葉が他にある。でもそれを今夜は言わない。
言わない時のセナの動き方も僕は知っている。
膝の上の手が一度だけ強く握り合わさり、すぐにほどけた。
左手の親指が右手の甲を1度だけ撫でた。
冬の入口の宿の夜と同じ動き方だった。怖い時にやる癖だ、と一度だけアーシャさんがこぼしていた、あの動き方。
僕は何も聞かなかった。
セナが付け足さない夜を今夜は僕も守る。
冬の入口の夜と今夜とたぶんもう1回か2回。それから、セナがいつか付け足す。今夜じゃない。
「あの朝のセナは」
「ん」
「ヴァルドおじさんに何か言ってた?」
「うん」
「何」
セナがあの朝を思い出す目をした。
「『リクと一緒に街へ行きます』」
「それだけ?」
「それだけ」
「……普通に言ったの?」
「普通に。たぶん、いつもの私で」
セナがそれだけ言って、もう一度ランプの炎を見た。
普通に言ったセナの「いつもの私」を僕は村で何度も見ている。
そのセナがあの朝は怖かった、と今夜言った。
怖くても普通に言える人を僕はセナの他に知らない。
---
セナが手紙を重ね、ナイフと木彫りと一緒に机の端に並べた。
机の上の3つ。ナイフは父さんと母さんの作。木彫りは僕の選び。手紙は村の4人の手から。
セナがランプの炎をしばらく見て、それから僕を見た。
「リク」
「ん」
「今日はありがとう」
「うん」
それだけ聞くと、僕は立ち上がってセナの部屋の戸を開けた。
「また明日」
1メートル半の廊下を挟んだ自分の部屋に戻る。
戸が閉まる音の後に春の風が宿の窓を一度だけ撫でた。
自分の部屋の机には何も置かれていない。
ナイフも木彫りも手紙もセナの部屋の机の上にある。
セナは今、机の前で何を考えているだろう。
村の4人を思い返しているのか、それとも僕のことか。たぶん両方だ。
今夜はそれを聞くことはない。
明日、叔母さんに会いに行く。
薬を続けるためのランク上げ。セナと2人でどう動くか。
ノートに2つ書き足した。
離れていても家族は見ていてくれる。
御守りに手を当てる前に手の温度がいつもより高いのに気付いた。
セナの15歳が僕の手にも移っていたのだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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