第22話「兆し」
冬の入口から3週間が過ぎていた。
軒の氷柱が朝の光に当たって先から水滴を落とす。
昨日まで凍っていた地面が今朝は少しだけ柔らかい。
雪の表面に靴跡が残らない朝がここ数日続いている。
雪が腐る匂いがする、と村にいた頃に父さんが言っていた。
雪が水に戻る前の土と混じり始める匂い。
テルナの広場でも同じ匂いがした。
僕とセナはマルセルたちとの長期依頼以外にこの3週間で小さな依頼を9件こなした。
雪かき、倉庫整理、雪道の道案内、商隊の荷運び、夜警の補助、迷い犬探し。
どれも長くはなかったし、危ない場面もほとんどなく、1日に2つ以上の依頼をこなした日もあった。
報酬は銅貨で受け取り、銅貨は宿代と食費で消えた。残りはルナの冊子に額だけが記録されていく。
書かれた数字を見ても僕にはまだ実感がなかった。
ノートのページが増えただけ進んだ、と僕は思っていた。
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朝のギルドで掲示板の前に立つとルナが奥から声をかけてきた。
「リク、セナ。ちょっと」
受付の脇に立つとルナが1枚の依頼書を指で叩いた。
「街道の北側で魔物の集団が見られたって報告だ。
昨日の朝に通った商隊の御者が見たらしい。中型が3か4。
討伐じゃない。商隊の通行を護衛しながら、出てきたら追い払う形だ」
「はい」
「Eランクで出てる。受注はロン。補助で見習いを連れたいって言ってきた」
「ロンさん」
「単独でやってる前衛剣士だ。雑だが目はいい」
「はい」
ルナがそこで一度、声を落とした。
「セナ、杖を持っていけ。短剣はリクが」
「はい」
「あと——ロンは初対面で見習いを試すタイプだ。気にすんな」
「分かりました」
掲示板の方を振り返ると、ロンの背中がギルドの戸を押して外へ出ていくところだった。
背に背負った剣の柄が戸の隙間から最後に見えた。
東門の外で待っていたロンは僕たちを見て一度だけ眉を寄せた。
革の鎧の左肩に古い傷の跡がある。剣は腰に1本、背に1本。
歳は40に届くか届かないか。髭は短く、目だけが思っていたより明るかった。
「ガキか」
「はい」
「マルセルの推薦か」
「はい」
「……まあいい。行くぞ」
ロンが先に歩き出した。
雪解け道は所々ぬかるみがあって、足の置き方を選びながら歩く。
セナが横で杖の握り方を直しているのが視界の端に映った。
街道に出てからロンが肩越しに言った。
「お前ら、魔物見たことあるか」
「あります」
「何だ」
「小型を1群。秋の頃です」
ロンが鼻で笑いかけて止めた。鼻で笑うというよりは口の端だけ動かす笑い方。
「ノートでも取ってんのか」
「取ってます」
「……まあ、いいけどな」
それ以上は何も言わなかった。
僕とセナは何も返さずにロンの背中を見ながら歩いた。
街道の北側で商隊の馬車が止まっている。
御者が手綱を握り直してこちらを見る。商人は1人。荷馬車は1台だけだった。
ロンが商人と短く話して、馬車の前に出る。
「行くぞ」
「はい」
馬車が動き出してすぐ、街道の左手の林から枝の鳴る音がした。
雪解けの林は音がよく抜ける。葉が落ちて雪が湿っているからだろう。
ロンが一度だけ手を上げた。馬車が止まる。
林の中から黒い影が3つ出てきた。
中型——犬科の魔物に近い形をしていたが肩の高さが普通の犬の倍ある。
毛が湿って黒く見える。歯が並んだ口元が低く構えている。
「3体か」
ロンが剣を抜いた。
「ガキども馬車の後ろに下がれ」
「はい」
僕とセナは馬車の後ろに回った。
セナが杖を構える。先端の布は外してきていた。冬の布は凍る、とマルセルが言っていた。
1体目がロンに向かって突っ込んだ。
ロンが半歩だけ横にずれて、剣を払う。1体目が地面に倒れる。
だが2体目がロンの右側に回り込んだ。
3体目は——馬車の左から僕たちの方へ。
「セナ」
「うん」
セナが杖を前に出した。
息を一度短く吐いて、それから手の指を杖の先端に向ける。
3体目の足元に光の輪が走った。
細い拘束魔法は初めて見た時より輪の数が多い。間隔も狭い。
3体目が前脚を止める。輪が4本、それから5本、それから——足首の上で止まった。
輪の本数が増えていることにセナ自身も気付いていない様子だ。
僕は腰の短剣を抜いて、3体目の側面に回る。
肩の腱、と父さんがどこかで言っていた。
鹿を捌く時に父さんが指で測っていた角度。喉のもう少し下、肩の付け根の手前。
父さんは指で測ってから刃を入れていた。僕は同じ角度で剣を入れる。
3体目が前のめりに倒れた。
重さが手に伝わる。生き物が止まる重さ。秋の初依頼で覚えた感覚と同じだった。
「リク、後ろ」
セナが叫んだ。
ロンの右側に回っていた2体目が今度は馬車の方へ向き直っている。
ロンが叫ぶ前に僕は石を1つ拾って投擲した。
左目を狙ったが目に入るかは賭けだった。当たればいい、当たらなくても顔を振れば動きは鈍る。
そこまで頭の中で先に考えていたから、迷う時間は要らなかった。
石は2体目の左目の少し上に当たった。
2体目が首を振った瞬間、ロンの剣が背中から入った。
3体目に拘束をかけていたセナの杖がもう一度光った。
拘束の輪がほどけて、別の形に変わる。今度は1本だけ、太い輪が3体目の首にかかった。
セナの呼吸が一度だけ深くなる。
拘束を保ったまま魔法の形を切り替えるのは村の頃のセナにはできなかった動きだ。
僕は短剣を抜いて、3体目の喉の角度に入れた。
3つとも動かなくなった。
セナが杖を下ろして、口の中で何か言いかけた。
「絶対」と言いかけて止めた。今夜の握りの方がたぶん本物の絶対だった。
ロンが息を整えながら振り返った。
肩の傷が雪に擦れている。だが血は出ていなかった。
「……お前ら」
ロンが剣を布で拭きながら言った。
「見習いの分際でこれか」
僕は何も答えなかった。
セナも答えない。
答える順番ではないと二人とも分かっていた。
ロンが商人の方を振り返って短く頷いた。
商人が荷馬車を再び動かす。
御者の手綱の握り方が最初に見た時より柔らかくなっていた。
信用された、と僕は受け取った。
街道に戻ってから、ロンが歩きながら言った。
「ガキ」
「はい」
「あの拘束魔法、誰に習った」
「母です」
「母親、魔法師か」
「元、冒険者と聞きました」
「……ふん」
ロンが歩く速度を落とした。
「お前の方は誰に習った」
「誰、というか」
「投擲だ。当てる前から、場所が決まっていた目をしてた」
「父です。鹿を捌くのを見ていたので」
「鹿か」
「はい」
「ふん」
ロンがそれ以上は聞かなかった。
歩き出してから、口の端だけがもう一度動いた。笑ったのか苦笑したのか分からない動き方。
僕は何も返さずに歩いた。
セナが横で杖の握りを直しているのがまた視界の端に映った。
握りを直す動作はセナが落ち着く時の癖だ。村の頃から何度も見てきた。
今日の握り方は普段より静かだった。よく出た、と分かっている時の握り方。
口の中で「絶対」を一度抑えた後の、握り方の静かさだった。
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ギルドに戻ったのは午後の鐘の少し前。
ルナがいつもの台帳を開いていた。
ロンが受付の前に立って報告を済ませる。短い報告だった。
ロンが奥に下がってから、ルナが僕とセナを手招きで台の脇に呼ぶ。
「お疲れさん」
「はい」
「ロンが何か言ってたか」
「拘束魔法、誰に習ったって」
「何て答えた」
「『母です』って」
「アーシャさんの名前は出してないな」
「はい」
「賢明だ」
ルナがそれだけ言って、台帳の脇から専用の冊子を取り出した。
僕とセナだけの冊子。冬の入口に作ってもらった物だ。
表紙はまだ薄いままだが中のページに厚みが出ている。
ルナがペンで何かを書き込む。普段より長い時間だった。
書きながらルナが口の端だけを一度上げた。
「セナ」
「はい」
「お前、ちゃんと記録残してるよ」
「……はい」
「F登録後の昇格は普通、半年から1年。実績の積み方で短くなる」
「はい」
「お前の場合、見習い期間中の同行実績がギルド側に既に積まれてる。
正式登録したら、すぐE上がれるかもね」
セナが何か言いそうな口の動きをして、結局言わなかった。
膝の上で組んでいた手の指が一度だけ強く握り合わさり、すぐにほどけた。
握る動作はセナが落ち着く時の癖だ。けれど、今日の握りはいつもより強かった。嬉しい時に出る強さだった。
セナはそれを顔に出さない。顔に出ない代わりに手に出る。村の頃から知っている。
今日は手に出る回数が今朝より2回多かった。
「叔母さん」
「ん」
「セナの杖、上の方の握りが緩んでる気がしました」
「ふうん」
「次の依頼までに直したいです」
「分かった。職人を紹介する」
ルナが台帳の縁を指で1度叩いた。
それから、僕の方を見て、片方の口の端を上げた。
「お前は何も言わないんだな」
「セナの方がよく動いてました」
「……まあ、お前らしいか」
僕は何も返さなかった。
やっぱり、セナはセナだ。
僕の中でそれだけが残った。
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ギルドを出て、宿に戻る道は午後の光が斜めに当たっていた。
広場の屋台が湯気を出し始める時間で人の数も増えてきている。
僕は広場の隅、ある店の前で1度足を止めた。
店先に小さな木彫りの飾りがいくつか並んでいた。
親指の先ほどの大きさで、紐を通して胸元に下げる形のものだ。
木の色が違ったり、彫り目が花の形をしていたり、紐の編み方が違ったり、形は同じでも細部が一つずつ違う。
1つだけ、紐の色が母さんが使っていた絹糸の色に近いものがあった。
アーシャさんが母さんに教えた、結び方の癖がある糸の色だ。
「リク」
「ん」
「何?」
「いや、何でもない」
「ふうん」
セナはそれ以上は聞かなかった。
僕は次に通る時に確かめればいい、と思った。
宿に戻った夜はいつもより部屋が静かだった。
おかみさんが「今日は早かったね」と言ったがそれ以上は何も聞かなかった。
スープを2杯と黒パン。器を返して、階段を上がる。
部屋に入ってからセナが寝台の縁に腰を下ろした。
ランプを灯して、しばらく窓の方を見ていた。
窓の外は街灯がぽつぽつ点り始めていて、雪解けの水が屋根から滴る音がときどき混じる。
「リク」
「ん」
「私、15歳になったら——」
セナが一度言葉を切った。
言葉を切る時のセナの呼吸は村にいた頃から短い。短く切って、息を継いで続ける。
続けるまでの間が今夜は普段より長かった。
「部屋、分けたほうがいいのかな」
僕は寝台の縁に腰を下ろして、机に置いたノートに手を当てた。
答えはもう自分の中にあった。3週間前の宿場の夜から、エマさんの「ふうん」を聞いた夜から、ずっと頭の隅に置いていた問いだった。
ただ、声に出すのが足りていなかっただけだ。
今夜のセナが先に声に出した。
「うん」
「うん?」
「叔母さんに相談してみる」
「……うん」
「宿のおかみさんにも」
「うん」
セナが膝の上の手をもう一度組み直す。
今夜の握りはギルドでルナの言葉を聞いた時の握りに似ていた。
何かを認めかけている時の握り方。
ただ、ギルドの時より、左手の親指が一度だけ右手の甲を撫でた。撫でる動作は村の頃にもあった。怖い時にやる癖だ、と一度だけアーシャさんがこぼしていた。
「冒険者としても別行動の依頼が増えるかもしれないし」
「うん」
「だから、たぶん、そろそろ」
「うん」
セナが言い終わってから、僕は短く付け加えた。
「夏の前には形になると思う」
「夏の前」
「叔母さんが動いてくれたら、もっと早く決まる」
「うん」
「でもセナの15歳までに決めなくていい」
「……うん」
セナが目を伏せた。
伏せた目蓋が一度動いて、それから止まる。
村にいた頃に算術の問題を解いていた時の動きと同じだった。解けた時の動きではない。解こうとして、止めた時の動きだった。
セナがそれだけ言って、もう一度窓の方を見た。
窓の外の街灯の数は3週間前と変わらない。
変わったのは僕とセナの方だった。
セナが布団に潜って、寝息を立て始めるまで時間がかかった。
たぶん、別の理由もある。でもセナがそれを言わない時は僕も聞かない。
言わない順番をセナが先に決める時は僕は待つだけだ。村の頃から続いている距離感だった。
僕は机のノートを開いて、新しい行に1行書き足した。
「宿のおかみさんに相談」
書いた後、線を引いて、横にもう1行書き足した。
「叔母さんにも」
書いてから、ランプを消した。
部屋の中で残ったのはセナの寝息と雪解けの水滴の音と僕の呼吸だった。
御守りに手を当てた。
布の温度は宿の部屋の温度になっていた。
冬の入口の頃より、宿の部屋の温度の方が高い。雪解けの夜は外の温度が思っているより上がる、と村にいた頃に父さんが言っていた。
温度が変わらない夜は続けやすい夜だと僕は思った。
変わるのは僕とセナの方で温度はその後ろからついてくる。
今夜の御守りは冬の入口の頃と同じ静かさで僕の掌の中にあった。
セナの寝息が一定の長さで聞こえている。
明日、ルナ叔母さんに相談しに行く。それから宿のおかみさんに話を通す。
雪解けの水滴が軒のどこかでもう1度落ちる音がした。
春が近い、と僕は思った。
セナの15歳が近い。
僕とセナの部屋が分かれる日が近い。
近いものは、まだ形を持たない。
いくつかの兆しを、今夜はそのまま掌に置いておく。




