第20話「長期依頼(前)」
朝、廊下に出た時、隣の戸が閉まる音より先に自分の足が止まっていた。
セナが先に階段を下りる音。それから水場の蛇口の音。
僕は廊下の角でそれが終わるのを待っていた。
待っているという意識はない。気がついたら立っていた。
下の食堂のおかみさんが鍋を動かす音。
階段の踏み板が鳴ってセナが上がってくる。
「リク、もう下りていいよ」
「うん」
水場で顔を洗いながら、いつから廊下で待つようになったのかを考えた。
村にいた頃はこういう間がなかった。家の中で水場は1つで順番もないようなものだった。
テルナに来てからいつの間にかこうなっている。
習慣、と言うほど長くはない。だが順番のないところに順番ができていた。
それを意識したのはたぶん今が初めてだった。
朝の鐘が遠くで4回鳴った。
冬の入口の鐘は乾いている。空気が冷えていると音の届き方が変わる。
食堂の窓の外、軒の下に小さな氷柱が下がっていた。
昨日まではなかったものだ。
セナがスープを口に運びながら言う。
「今日、依頼掲示板、見に行こう」
「うん」
「冬の依頼、増えたよね」
「だね」
「ルナさんは無理しない依頼から取れ、って」
「そう言ってた」
「だから、行ってから決めよう」
セナの言葉数はこの数日で日に日に短くなっている。
---
ギルドの前には見知った背中があった。
革の胸当ての擦り傷の位置で分かる。マルセルだ。
朝の広場に立っているのを見るのは久しぶりだった。
秋の間、午前のマルセルは大抵まだ宿で寝ていた。
「お、来たな」
「マルセルさん」
「掲示板、見に来たのか」
「はい」
「ちょうどいい。ちょっと付き合え」
マルセルはそのままギルドの戸を押した。
広間の壁に貼られた依頼書の数は秋の頃より目に見えて減っている。
代わりに1枚あたりの紙が大きい。報酬の数字も目立つ位置に書かれている。
冬の依頼は数が減って単価が上がる。動ける人間が減るからだ。
マルセルの指が右上の1枚に伸びた。
紙の上で2回、軽く叩く。
『商隊護衛・クレウス往復/12日/報酬・銀貨45枚+経費/護衛Eランク3名・補助若干名募集』
セナが横で息を一度止めた。
普段、Eランクの依頼の総額はもっと控えめだったはずだ。
3人で割れば、1人あたり12日間で銀貨15枚。
Dランクのマルセルからすれば低めの報酬にはなるがEランクからすれば破格の依頼だ。
そこから見習いの僕とセナへの分け前が引かれる。マルセルから同行先の判断で渡される形だ。
日当の相場で12日働けば、2人で銅貨300枚前後。銀貨にして3枚弱。
銀貨20枚で母さんの薬2回分が買えると言われた金額に対して、自分たちの取り分だけで3枚弱。
それでも冬の宿代と食費を引いてもまだ残る額だった。
「これ、受けるか」
「クレウスって、東の街道の」
「東街道。5日で着いて、用足してから同じ工程で帰ってくる。商隊についていくだけだ」
「補助若干名って、見習い同行で入れますか」
「俺が推薦人で出せば入れる。お前ら2人で1枠分のつもりで動け」
「……いいんですか」
「だから声をかけた」
マルセルはそれだけ言って、依頼書を爪で剥がした。
受付の方へ歩いていく。背中越しに言った。
「明後日朝、出る。装備整えて、宿の精算も済ませとけ」
セナが僕の方を見た。
「冬の入口で長期依頼」
「うん」
「無理しない依頼から、ってルナさんに言われた」
「言われたね」
「これ、無理しない方かな」
「マルセルさんがついてる」
「……そうだね」
それで決まった、と僕は思った。
迷う材料は少なかった。冬は続ける季節だ。
受付の奥からルナが出てきて、マルセルの差し出した紙を受け取った。
僕とセナの顔を見て、片方の眉だけ上げる。
「2人とも長期は初めてだな」
「はい」
「雪はまだだが夜は冷える。出発前には装備をもう一度確認しておきな」
「はい」
「あと——」
ルナがそこで一度、声を落とした。
「マルセルの言うことは聞け。ただ、聞き過ぎるな」
「……はい」
「あいつは雑だ。雑だが勘はいい。雑な部分は自分で補え」
「はい」
マルセルが横で何か言いかけて、やめた。
口の端だけが少し動いて、それから戻った。
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宿に戻って装備を広げた。
机の上に2人分の荷物を並べる。
セナの上着、僕の上着、毛布、水筒、火打石、油紙に包んだ干し肉、それからナイフ。
セナの杖。
ナイフは父さんが研いでくれたままだ。
鞘を抜いて刃を立て、窓の光に向ける。
刃の縁に欠けはない。鞘の革も乾いている。
冬の旅では刃の油の塗り方を村の頃より厚くしておく。寒いと油が固まる、と父さんが言っていた。
セナが地図を広げた。
村からテルナまでは何度か歩いた道だ。
テルナからクレウスまでは初めての道。
東に延びる街道の線が紙の右の端の方まで伸びている。
線の途中に小さな丸が3つ。宿場の印だ。
「3泊で着くの?」
「商隊だから、もう少しかかると思う。馬車は荷物が重いと遅い」
「じゃあ4泊?」
「4泊って書いてある」
「4泊」
セナが指で線の上を辿る。
僕は指の先がどこで止まるかを見ていた。
真ん中あたりの宿場で一度止まって、それからクレウスの丸の手前でもう一度止まる。
止まった場所が次の確認の場所だ。
村にいた頃、父さんが鍛冶仕事の納期を区切る時の指の動きと同じ動かし方だった。
「ノート、新しいの作る?」
「うん。長期は別の冊子にする」
「私も書く?」
「セナは自分の書きたい順番で書いて」
「順番、私も並べる」
「うん」
セナが鞄から小さな紙束を出した。村にいた頃に母さんに教わった整理の仕方で紙を半分に折って端を糸で縫う形にする。
僕は自分のノートの新しいページに明後日からの日付を1日ずつ縦に書いた。
1日目、2日目、3日目。
書いてあるだけで何が起こるか分かるわけではないが書いた行に後で出来事が並ぶ。
夕方、マルセルが宿の戸を叩いた。
廊下に立ったまま、中には入らなかった。
「装備、見せろ」
「はい」
僕が机の上を見せると、マルセルは戸口から首だけ伸ばして視線を端から端まで動かした。
「ナイフ」
「父さんが研いだままです」
「油は」
「これから厚めに塗ります」
「水筒」
「2つです」
「足りない。あと1つ買っておけ。冬は喉が乾く前に飲め」
「分かりました」
「干し肉は」
「3日分」
「足りない。基本的には商隊が出してくれるが自分の分は別で持っておけ。荷を信用するな」
「分かりました」
マルセルはそれだけ言うと戸の縁に手をかけたままもう一度だけ口を開いた。
「セナの杖」
「研いだばかりです」
「先端は」
「父さんが布で包んでくれた」
「外して持っていけ。冬は布が凍る。凍ると振りにくい」
「分かりました」
マルセルがそれで戸から離れた。
廊下で2歩ほど歩いてから、振り返らずに言った。
「俺もちょっと自分の装備見直してくる」
「……はい」
「うっせえな、たまにだよ」
僕は何も言わなかった。聞いてもいないことを答えていた、と自分でも分かっていたのだろう。
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明後日の朝、東門の広場に商隊が並んだ。
馬車が3台。御者が3人、商人が2人。
護衛側にはマルセルが先に立っていて、それからあと2人が少し遅れて来た。
ギルドの広間で何度か姿は見ていた。マルセルと軽口を叩いていた弓使いの女性とその隣で「まあまあ」と受け流していた杖持ちの男性。
マルセル・パーティの2人だ。出発前日にマルセルから聞いていた。
僕とセナは挨拶のつもりで頭を下げた。
弓を背負った女性が先に手を上げて返した。
「エマだ。あんたらか、聞いてるよ」
「よろしくお願いします」
「うん。あんまり気張んな」
杖を持った男性が横で会釈をした。
「ユルです。マルセルが推薦人なら、まあ大丈夫でしょう」
「はい」
エマさんが馬車の前に進んで商人の年嵩の方に声をかけた。
「今年もよろしく」
「ああ。エマ、ユル、また頼む」
ここまでが毎年の挨拶らしい順番だった。
商人がエマさんに頷いてから、視線を僕たちに移す。
それからマルセルに目を向けた。
何かを確かめるような視線だった。
マルセルが小さく頷くと商人も頷き返した。
それきり何も言わなかった。
商人がなぜ自分たちを長く見たのか、その時の僕には分からなかった。
セナが横で姿勢を直す。僕も同じく直した。
姿勢を直す動作は村にいた頃に父さんと母さんに見送られた朝と同じだった。
姿勢を直して、息を一度吐いて、それから歩き出す。
村でも町でも同じ動きだった。
馬車が動き始めた。
東門の石畳から土の道に変わる。
車輪の音がだんだん低くなる。
僕は振り返らなかった。
セナも振り返らなかった。
振り返らない理由はうまく言葉にできなかった。
街道は西に傾く陽を背にして、東へまっすぐ伸びていた。
1日目の夕方、街道沿いの集落に着いた。
見覚えのある集落。秋の頃、ガランさんとハルさんの初依頼で1晩泊めてもらった、あの空家のある集落だ。
今回は商隊の規模で通っているので、空家ではなく村の宿屋に通された。
冬の旅人を泊めるための一部屋一部屋は狭く、二段ベッドが詰めて入っている。
宿の主人は僕の顔を一度見て、それから「前にも来たな」と短く言った。
主人から部屋割りを渡される。
商人と御者で1部屋、マルセルとユルさんと僕で1部屋、エマさんとセナで1部屋。
冬の宿は男女別が基本らしい。他の旅人と相部屋になることもあるから、と主人が短く付け足した。
エマさんが鍵を1つ、掌の中で軽く弾いてから受け取った。
「セナ、こっちおいで」
「はい」
セナがついていく。
階段を上がる手前でエマさんが軽く振り返った。
「あんたら、村でも一緒の部屋だった?」
「……家は別です。村にいた頃は」
「町に来てからは」
「最初の宿で一部屋しか空いてなくて。それから、ずっと」
「ふうん」
エマさんはそれだけ言って、また階段の方を向いた。声の高さは普段と変わらなかった。
ただ、相槌の「ふうん」だけがいつもより1拍長かった。
マルセルが横で口を一度動かしかけて、そのまま戻した。
ユルさんが「まあまあ」と言いそうな顔をして、結局何も言わなかった。
セナが「明日朝、食堂で」と言って、エマさんと一緒に女部屋の方へ歩いていった。
僕は2階の男部屋に上がって、自分のベッドに鞄を置いた。
マルセルが向かいの段ベッドの下に座って、ブーツの紐を解いている。
ユルさんは奥のベッドに鞄を置いて、ローブの上から軽く埃を払っていた。
「リク」
「はい」
「セナの杖、明日は外で持っとけ。馬車の中だと出すのに時間がかかる」
「分かりました」
「ユル、ちょっと」
「はい」
マルセルとユルさんが何か小声で話した。
聞き取れたのは「明日の見回りの順番」というところだけだ。
それから二人とも黙った。
ノートに「エマさんがふうん、と言った」と1行書いた。
意味は今は要らない。
外で風が一度、宿の窓を鳴らした。
雪はまだ降っていない。
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2日目の夕方は街道沿いの空き地で野営になった。
商人が火を起こす場所を決め、御者が馬を繋ぐ。
エマさんとユルさんが周囲を一周して戻ってきた。
マルセルがリクとセナに「水汲み」と短く言って、川の方を指す。
水場までは森の縁を歩く。
セナが鞄から皮袋を出して、僕に1つ渡した。
「冬の水場は夏より見つけにくい」
「うん」
「葉が落ちて見渡しが利くんだけど、川の流れが細くなるんだって」
「……それ、ヴァルドおじさん?」
「うん、前に教わった」
「父さんは冬の鍛冶仕事の話ばっかりだった」
「ガレンおじさん、冬になると火床の温度がどうの、って」
「うん」
水場で皮袋を膨らませて戻る。
野営地ではマルセルが火の番をしていた。
今夜はエマさんとユルさんが代わりに見回っている。
僕は地図を広げて、今日歩いた距離を書き込んだ。
昨日の集落から東街道沿いに歩いて、川を1本越え、それから空き地。
予定では今日のうちにもう少し先まで進めたはずだった。
馬車が遅れた分、半日ほど後ろにずれている。
ノートにずれの理由を書く。理由を書いておくと明日のずれを予想できる。
マルセルが火の向こうから僕を見た。
「お前のそれ、ちょっと見せてみろ」
「これですか」
「ああ」
僕は地図とノートを火の近くに持っていった。
マルセルが手を出さずに目で線を辿った。
「川、3本ある印だな」
「明日、もう1本越えます」
「次の宿場は」
「ここ」
「俺の覚えてた場所とずれてるな」
「商人さんが迂回路を使うって言ってました。本道の橋が冬で落ちかけてるって」
「ふうん」
「普通に書いてるだけです」
「普通な」
マルセルは何も言わずに首を一度だけ動かした。
納得した、という動きではない。だが否定もしなかった。
それから火の方に目を戻して、薪を1本投げた。
セナが横で薄く笑った。
「マルセルさん、地図見たの久しぶり?」
「うっせえな。たまにだよ」
マルセルが布をかぶり直して、火の番に戻った。
僕は地図を畳んで鞄に戻した。
ノートに「マルセル・地図確認」と1行書き足した。
それが何を意味するのか、今は分からなくていい。
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3日目も野営、それから街道を進んだ。
雪は降らなかった。だが空が低くなって、空気の重さが日に日に増した。
4日目の午後、御者の1人が「明日には降るな」と空を見上げて言った。
商人が積み荷の上に油紙をかけ直す。
マルセルが御者の隣を歩きながら、空を見ている時間が増えた。
夏の頃のマルセルは空を見上げなかった。歩いていない。横を歩く誰かの背中を見ているか、地面の方を見ていた。
冬の街道では空の方が情報量が多い。それを覚えたのは長期依頼の経験からだろう、と僕は思った。
4日目の夕方、街道が小高い丘に差し掛かった。
丘を越えた瞬間に視界が広がった。
遠くに町の明かりが見えた。
テルナの倍はある規模の屋根が暮れかけた空の下で重なって並んでいる。
高い建物が2つ、3つ。城門と思しき大きな影。
クレウスだ。
商人が振り返って「明日の昼には着く」と言った。
御者が頷く。エマさんとユルさんも頷いた。
マルセルだけが丘の上で足を止めていた。
僕は数歩先で気がついて、振り返った。
マルセルは町の方を見ていた。見ているというより、目だけがそちらに向いていた。
口は閉じている。眉も動いていない。
だが、息を吐く間隔がそれまでより少し長くなっていた。
セナも気がついて、僕の隣で足を止めた。
何も言わずにマルセルの方を見ていた。
マルセルがようやく一歩動いた。
「行くぞ」
「はい」
「明日の昼には着く。今夜はもう1泊だ」
「はい」
マルセルが先に歩き出した。
僕とセナはその背中を見てから歩き出した。
背中はいつものマルセルの歩き方だった。雑な歩幅で肩の振りも普段通りだった。
だが、丘の上で足を止めた1秒だけが残った。
ノートには書かなかった。
書かないことが今夜の判断だった。
東の空はもう暗かった。
町の明かりだけが暮れ残った西の空の下で低く点っていた。
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