第18話「選択の夜」
夜は早く来た。冬の入口は日が短い。
宿の食堂でスープと黒パンを食べ、器を返した頃にはまだ夕の鐘が鳴っていなかった。
食堂のおかみさんが「今日は早いね」と笑う。
セナが「ええ」と短く答えると二人で席を立った。
おかみさんの「いつもの量で足りた?」に「ちょうどでした」とセナが返す。今夜は受け答えのテンポが普段より少しだけ早い。
宿の階段を上がる足音がいつもより小さく聞こえる。
セナの背中が先を歩いている。村から町に来てからの3週間で、僕はセナの背中を追って歩く回数が増えた。
今夜は特に先を歩いてくれる人がいるのが助かる。
階段の途中でセナが一度だけ振り返って僕がついてきているか確かめて、また前を向いた。
部屋に戻るとセナが机のランプを灯して窓の方を見る。村の方角だ。
窓を開けても村は見えない。それでもセナはたまにその方を見る。何かを確かめるためではなく向きを覚えておくためだろう。
僕も同じことを別の時間にやっている。
「リク」
「ん」
「座って」
これは始まりの合図だ。
机の上にはまだ午後に読んだ手紙の余韻が残っている。返事は次の便で書く、と昼のうちにセナと決めた。
ノートには、まだ決まっていない問いの形だけが並んでいる。
返事を保留した夜はいつもより部屋が広く見える。
僕は椅子に座り、セナは寝台の縁に腰を下ろした。普段だと机の向かいに座るのに、今夜は机を間に置かない位置を選んだ。
近すぎず遠すぎない場所。
「リク」
「ん」
「一旦、村に帰る?」
セナの最初の言葉は短かった。
「……」
「半年は薬の心配がない」
「うん」
「その間にどう動くか、村に帰って父さんたちに相談する時間はできたと思う」
「うん」
「ガレンさんとうちのお父さんとお母さんに直接話して、それから決めても遅くはないんじゃないかな」
「うん」
「私たち、まだ14歳と13歳だし」
セナの声は試している声ではなかった。考え抜いて出てきた一つの選択肢を、ちゃんと机の上に置いてみせる声だ。
ランプの炎が一度だけ揺れて戻る。窓の隙間から入った風だ。
炎の影が机の上を一度だけ撫でて、また元の位置で止まった。
僕は両手を膝の上に置いた。
答えはもう僕の中にあった。
3週間ずっと考えていた。頭の中で項目を並べて並べ替えて最後に残ったものを書き出す。
村にいた頃から僕はそうやって考えてきた。
たぶん、村に来る前からも。
村に来る前、というのは正しくない。僕は村で生まれた。でも頭の中の並べ方は村の誰からも教わっていない動作で出来上がっている。
誰から教わったのかは思い出せない。思い出せないものは思い出さない。それも村の頃から続いている習慣だ。
「残りたい」
セナがそれを聞いて、一瞬だけ目を大きくした。
「即答なんだ」
「うん」
「迷わなかった?」
「迷った。3週間迷った」
「うん」
「決めたのは、今日」
セナが膝の上の手を組み直した。
「手紙にも書いたんだ」
「手紙?」
「最初の手紙で、『僕は町で雑用と訓練を続けます』って」
「……」
こうなる事は頭の中にはあった。
薬の効果が出るかがわかるまでか、それ以降もなのか。それは手紙には書かなかった。
ただ、文字に落とした時には後のことも考え出していた。
「書いた瞬間に後戻りしにくくなる。あの時はそれも分かってて書いたんだ。今日、村からの手紙を読んで意思は固まった」
セナがそこで一度顔を上げた。
それからゆっくり頷いた。
「リク」
「ん」
「私ね、正直に言うと一度村に戻った方が良いと思ってるの。
あの時は何かが出来るのは私たちだけだと思ってた。
でも、町にはルナさんがいた。時間もできた。まだ子供の私たちにできることは全部やったって」
セナの言っていることは正しい。
僕たちはまだ子供だ。正式な冒険者でもない。できる事は限られている。
薬だってルナさんがいなければ手に入れる事はできなかった。
「でも、リクは違うんだよね?」
「……うん」
「聞いていい?」
残らなければならない理由。残りたい理由。それだけでない理由。僕の中で固まった理由は3つ。
ほんの刹那、目を閉じて自分の考えを整理する。
セナは何も言わずに待っている。手は膝の上で組んだままだ。
僕は親指を立てた。
「1つ目。母さんの薬を続けて送るにはCランク以上の冒険者が必要。
ルナ叔母さんの伝手は当面の繋ぎだ。半年は持つけど、その先は——叔母さんも言ってた。いつまでも特別扱いは続かない」
セナがゆっくり頷いた。
「あと、たぶんだけどお金の面も」
セナの眉がぴくりと動く。
「薬を手に入れるために、父さんたちが用意してくれたお金は当面の生活費を除いて全て渡した。
でも、Cランクにならないと買えないような薬だ。僕たちの手持ちだけで買えるとは思わない。
叔母さんが用立ててくれたのか。父さんやヴァルドおじさんたちが追加の資金を叔母さんに送ってくれたのか。それ以外の何かか」
あの日の夕方、ギルド奥の小部屋で受け取った革袋の重さはまだ掌に残っている。
あの重さを毎回作るためには僕たち自身が稼ぐしかない。
「僕たちが自分で買えるようにならないと、続けて送れない」
セナは何も言わない。
少しの沈黙のあと、僕は人差し指を加える。
「2つ目。完治の方法を探すなら村より町だ。
村には情報がない。テルナにも今は答える人がいないけど、テルナの東にもっと大きい町がある。
高ランクの冒険者は時々町を通る。情報が流れてくる。
完治の手がかりが転がるなら、僕は流れてくる方の場所にいたい」
今度はセナが頷いた。
何軒もの薬師を回って答えが似たような形ばかりで終わった日のことを、セナも今、思い出しているはずだ。
村に居続けたら答えは止まる。町なら止まらない。
最後に中指を加える。
「3つ目。これは——うまく言えない」
「うん」
「でも——僕には、まだ、ここでやれることがある気がする」
セナが顔を上げた。
「気がする?」
「うん」
「根拠は?」
「ない」
「……」
「ないけど、ある」
セナがそれを聞くと口の端を一度動かした。
笑ったのではなく覚えのある言葉を聞いた時の動きだった。
村の頃に何度か聞いたのと同じ動き。
「リクのそれは、いつもそうなんだよね」
「……うん」
「根拠ないけど、いつも当たる」
「……うん」
セナはそれだけ言うとまた黙る。
何度も同じ景色を見てきたような顔をしている。
僕にも分からない理由で僕の中には「やれる」という感覚が時々ある。根拠を辿ろうとすると消える。掴もうとすると掌から抜ける。
それでも消える前に動いた時は結果が出る。
村でもそうだった。テルナに来てからもそうだ。
怖がっても消えないし頼っても消えない。ある時はあるしない時はない。
ただ、今夜の「ある」は強かった。強いから声に出した。
セナが膝の上の手をもう一度組み直す。
何かを決めかけている時の動きだ。
もう一つ、セナには伝えておくべきことがある。
僕も両手を膝の上で組み直した。
「セナ」
「ん」
「セナは、戻ってもいい」
「……」
「3つの理由は僕のものだ。セナを縛るものじゃない」
そう、3つの理由はあくまで僕の理由だ。セナの理由ではない。
3週間考えてこの答えにたどり着いたのは僕で、セナにはセナの考えがある。
僕の決断はセナの選択を縛らない。縛ってはいけない。
「もし、戻った方がいいとセナが思うなら、戻っていい」
「……」
セナは膝の上に手を組んだまま目を閉じる。
僕は何も言わずに待った。
セナの目蓋が小さく動く。中で何かを並べ替えている時の動きだ。
村で算術の問題を解いていた時、セナはよくこの顔をしていた。
解いている最中に声をかけると怒られた。だから今夜も声をかけない。
しばらくして、セナが目を開けた。
解こうとしていた問題の最後の桁が合った時の顔だ。
「私も残る。リクが残るなら残る。それだけ」
セナがそれだけ言って、寝台に座り直した。
膝の上で手を組み直した形が、もう先程までと違う。
何かを決めた人の手の置き方だ。
左手の指が右手の指を一度だけ強く握って、すぐにほどけた。
握る動作はセナが落ち着く時の癖だ。村の頃から何度も見てきた。
今夜の握り方はいつもより強かった。決めたものを掌の中で確かめている時の強さだった。
僕はセナの「それだけ」がただの「ついていく」ではないことを知っている。
セナはさっき、何か別のことを言いそうな口の動きをした。午後アーシャさんの手紙を膝に置いた時と同じ動きだ。
でも言わなかった。
僕も聞かなかった。
聞いたらセナの中で形になりかけているものが、形になる前に壊れる。
形になるまで待つ。村の頃からずっと同じ手順だ。
形になった時にセナが言うかどうかは、その時のセナが決めることで今夜の僕が決めることではない。
「セナ」
「ん」
「ありがとう」
「うん」
「あと、ごめん」
「謝らないで」
「……うん」
外でテルナの夜が更けていく。
冬の入口の風が宿の窓の戸を一度だけ鳴らした。
昼間ギルドで叔母さんに見せた背中は今夜のための背中だった。
3週間考え続けた背中で、今夜の「残る」をすでに準備していた。叔母さんはたぶん気付いていた。気付いていて「順番で並べな」と言った。
「明日、ルナ叔母さんに伝えに行こう」
「うん」
「『続けます』って」
「うん」
セナが立ち上がってランプの脇を一度直した。
それから「先、寝るね」と言って寝台に向かう。
今夜は早く寝るらしい。
最近は寝るのが僕より遅いことの多いセナにしては本当に早い。
「リク」
「ん」
「決めるの、早かった?」
「……どうかな」
「3週間、考えてたんでしょ」
「うん」
「だったら、早くない?」
セナがそれだけ言って向こうを向いた。
寝台の上で布団を引き上げる音がする。
それから少しして寝息ともため息ともつかない長い息が一度だけ漏れた。
息の長さで分かる。今夜のセナはもう一日分の何かを使い切っている。
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僕は寝台の縁に腰を下ろして上着の内ポケットに手を当てた。
御守りは朝より深く温まっていた。
温まったまま夜を越える。
母さんが縫った時に手が震えなかった。それは縫う時間が母さんの中で穏やかだったからだ。穏やかな手で縫われた布は穏やかな温度で温まる。理屈ではない。掌が覚える種類の真実だ。
部屋の中で残っているのはランプの灯りと外の風の音とセナの呼吸。
決めた夜のあとに来るのは決めたことを続ける朝だ。
朝は短い。続ける時間の方が長い。
僕はもう一度決めた3つの理由を頭の中で並べ直した。
順番は変えない。
順番を変えると失敗する。
これは父さんから学んだ唯一の理屈で、僕はそれを町でも続けている。
鍛冶仕事の順番と選択の順番は違う形をしているはずなのに、僕の中では同じ形に並ぶ。
父さんの教え方が良かった。あるいは、僕がそういう並べ方しかできない人間だからだ。
どちらでもいい。並んだものは並んだ通りに動かす。
ランプの脇に午後に読んだ手紙の余韻がまだ残っている。
返事の文面は、明日か明後日にもう一度向き合うことになる。
今夜決めた3つは、その時に書く言葉の土台になる。
土台は、決まったから動かない。
ランプを消した。
部屋が暗くなる。窓の隙間から夜が部屋の中に少しずつ入ってくる。
夜の温度が内ポケットの御守りの布より少し低い。
それが今夜、僕が覚えておく違いだった。
セナの寝息が一定の長さで続いている。
僕は寝台に身を倒した。
天井の梁が暗がりの中で薄く見える。村の家の梁と同じ向きだ。
偶然か、それともテルナの大工も同じ作り方をするのかは知らない。
ただ、同じ向きで眠れるのはありがたい。
帰る場所が今夜から増えた。
村と、テルナ。
2つあるのは、片方が遠くなったからではなくてもう片方を選んだからだ。
村は遠ざからない。村は村のままある。
僕とセナがテルナを選んだ。
それだけだ。
半年の猶予は、戻るために使うこともできた。
戻って父さんと母さんに会って、ヴァルドさんとアーシャさんに会って、それから決めることもできた。
それを選ばなかったのは、戻った先で会う顔が僕たちの決断を優しく引き止めるからだ。
優しさで引き止めるのは、引き止め方として一番強い。
それを知っているから、今夜、引き止められる前に決めた。
父さんも母さんも、あとで知って怒るかもしれない。それは構わない。怒られたら謝る。謝ったあとに、決めた理由を3つ、もう一度並べて見せる。
順番が同じなら、父さんは「ばかか」と言うだろう。母さんは「気をつけて」と言うだろう。
ばかと言われても、気をつけてと言われても、僕は順番を変えない。
父さんから受け継いだ唯一の理屈を、今夜、町で使っている。それは父さんの理屈を裏切ることにはならない、と思っている。
父さんは順番を守る人だ。順番を守るために、僕が町で動くことも、父さんなら理解する。
たぶん。
理解しなかったら、また並べて見せる。並べたものをもう一度並べ直すのは、僕の得意なことだ。
選んだ夜は静かだった。
窓の戸がもう一度だけ風で鳴った。
明日の朝、ギルドに行く。叔母さんに「続けます」と言う。
言葉は短くていい。短い言葉ほど続けるのに必要な強度がある。
僕は目を閉じた。
御守りはまだ温かかった。




