第17話「村から」
薬を送ってから3週間頃が過ぎた朝、ギルドから宿に使いが来た。
宿の主人が階段の下で僕の名を呼ぶ。「リク、ギルドから人だ」
セナが先に立ち上がってシャツの上に薄手の上着を羽織った。
窓の外はまだ朝の空気だった。テルナの空が西から薄く晴れ始めている。
階段を下りると受付の手伝いをしている若い男が立っていた。
「ルナさんから。村からの便が届いた、と」
「はい」
「取りに来てほしいって」
「ありがとうございます」
セナが横で頷くと使いの男はギルドへ戻っていく。
使いを見送ったのち、僕たちも部屋に戻り外出の準備を進める。
「リク、準備できた?」
「もう終わる」
そう答えながら靴の紐を二重に結び直している間にセナは部屋を出ていた。僕もセナを追い外へ出る。
朝の屋台はまだ準備中の店が多い。スープの店主はもう炊いている。鍋の縁に湯気が薄く立っていた。
通り過ぎながらセナが小さく息を吸う。
白い息が一筋だけ宙に伸びて消えた。
ここ数日は毎朝同じ道を歩いている。雑用の手順は決まっていて歩く距離も同じだ。だから歩きながら考えるのは別のことになる。
今朝考えていたのは薬のこと。3週間あれば効いたか効かないかの判断には十分な長さになる。
村から町まで馬車で5日。手紙が出てから返事が届くまでは早ければ2週間。今回は少し遅い。遅いのは、書く側に書くだけの余裕ができたからだろう。
ギルドの戸を押す。
受付台の前にはまだ冒険者が並んでいない。早い時間だった。
ルナは台帳をめくっていた。僕とセナの顔を見ると指の動きを止めて台帳を半分閉じた。
「来たな」
「はい」
「奥にある」
ルナが受付の奥に入った。
少しして戻ってきたルナの手には、厚みのある封筒を1つと紐で結ばれた小さな包みがあった。
渡された封筒は思っていたよりも重い。書いた人の数だけ重さがあるのだろう。
「中身は見てない」
「はい」
「読むなら宿に戻ってからにしな。その方が落ち着く」
「……はい」
「届いてよかったね」
ルナがそれだけ言って台帳を開き直した。
僕は封筒を両手で受け取る。セナが包みを受け取った。
戸口まで歩いてからルナがもう一度声をかけてきた。
「リク、セナ」
「はい」
「読み終わったら、午後にもう一度寄りな。話がある」
「分かりました」
外に出るとさっきより空が高くなっていた。
スープの店主が「今日は早いな」と笑った。
今朝は買わずに通り過ぎる。先に読みたかった。
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宿の部屋に戻るとセナがベッドの縁に腰を下ろした。
小さな包みを膝の上に置いて両手で挟むようにして温める。
僕は机に封筒を置いた。封の蝋は半分剥がれかけていた。馬車の振動で擦れたらしい。
セナが包みを脇に置き椅子を引いて机の前に座る。
封を開けると中から紙が4枚出てきた。
1枚目は母の字。
2枚目は父の字——書いたとしても短いはずだ。
3枚目は別の手。読みやすい大ぶりの字。アーシャさんだった。
4枚目はその余白にヴァルドさんの一行が添えられていた。
セナが息を吸って母の手紙を最初から読み始めた。
「『薬、届きました。ちゃんと飲み始めています』」
「うん」
「『1本目を飲み始めて、3日で熱が引きました』」
セナの声がそこで一度止まる。
声を出して読むのが辛い箇所ではなく、安心が一度に押し寄せた時の止まり方だった。
僕は机の縁に手をかけて続きを聞いた。
「『5日目には、外を歩けるようになりました』」
「……うん」
「『今は、台所に立てる日がほとんどです』」
「うん」
セナが母の字を指でなぞる。
母の字はいつもの通り最後の1行まで同じ濃さで書かれていた。
「『完治していないことは、私もわかっています』」
「うん」
「『でも今は、動ける時間がある。それで十分です』」
セナが手紙をもう一度最初から読み直した。
母の字を順番に追うセナの目が今朝は動きが遅い。一文字ずつ確かめている。
僕は何も言わずに待った。
母の字が紙にしっかり残っている。書く時に手が震えなかった、ということだ。
書ける状態の母さんが村にいる。
それを今朝、確かめている。
「リク」
「ん」
「……よかった」
「うん。よかった」
それだけの会話だった。
二人とも泣かなかった。
何かが緩んだ顔とは言えない顔をしていた。緩むほど張り詰めていた、と認める方が二人とも苦手だった。
セナが母の紙を机の端に置いて、しばらくそのまま動かない。
息を整える時間が必要だったのだろう。
僕は机から離れて窓の方を見た。窓の外で雀が二羽、瓦の縁を行ったり来たりしている。
雀の動きを目で追っているうちに、セナが2枚目の紙を取った。
父の手紙は2行だった。
「薬、届いた。
お前は町でやることをやれ」
セナが父の字を見て片方の口の端を上げる。
「ガレンさんの字、初めて見た」
「うん。長く書くのは苦手だから」
「短いけど、ちゃんと言うことは言ってる」
「うん」
僕は父の紙を机の脇に重ねた。
父さんが鍛冶場で鎚を置いて手を拭いてペンを取った絵が浮かぶ。書き上げるのに一晩かかっている。本人は1分で書いたつもりでも手を止めた回数は誰にも見えない。
書き終わった紙の角が母の手で揃えられている。封筒に入れる前に、母が父の字を見て、もう一度、無言で揃えたのだろう。
3枚目はアーシャさんの字だった。
「『エラの様子は書いてある通りです。薬を飲み始めてから症状の波は穏やかになってきました』」
セナの口の動きが少し変わる。
医師の文章を読むセナの顔だ。村にいた頃にアーシャさんの隣で薬籠を覗き込んでいた頃の表情。
「『2回分なら、半年はもちます』」
「うん」
「『ただ、薬が切れた後の手当ても、頭の隅に置いておいてください』」
「……うん」
「『半年後にもう一度同じ手筈で送れるなら、それでも構いません』」
「うん」
「『あるいは、別の手筈ができていれば、それでも構いません』」
セナがそこで一度顔を上げて僕の方を見た。
僕は頷いた。
半年後のことは半年後までに動かないと間に合わない。
村から町まで馬車で5日。手紙を出してから次の薬が届くまでは早くて20日。動き出しは今日からだ。
セナが続きを読む。
「『それから、セナへ。リク君のことも頭の隅に』」
「ん?」
「『あの子は昔から、熱を出した後の戻りが早い子でした。今もそうだと思います』」
「……」
「『でも、戻りが早いからといって、無理が利くわけではありません。あなたの母として、それだけは伝えておきます』」
セナが目線を上げた。
「……お母さん、リクのことも書いてる」
僕は自分の幼い頃のことをほとんど覚えていない。
セナが時々言う。「リク、小さい頃は体弱かったんだよ」と。
村の医師でもあったアーシャさんは、僕の幼少期に何度も診察に来てくれていた。今朝の手紙でアーシャさんも同じことを書いている。
弱かった子は、自身ではもう弱くないと思っている。でも、アーシャさんはそうは思っていない。
そういう手紙だった。
セナがアーシャさんの字をもう一度目でなぞる。
「『リクのこと、頭の隅に』」
セナがそれだけ言って紙を膝の上にそっと置いた。
それから一度僕の方を見て、もう何も言わずに4枚目を取り上げる。
僕も何も言わなかった。
セナが横を向くと、頬の薄い線が窓の光に切り取られた。村にいた頃は気づかなかった輪郭だった。
ここに来てからセナの輪郭は少しずつ大人びてきている気がする。
最後の余白、ヴァルドさんの字。
「メシ食ってるか」
1行だけだった。
セナが少しだけ笑う。
「お父さんって、いつもそう」
「うん」
「『食ってます』って書き足しておこう」と僕が言うとセナが頷いた。
セナが包みの紐を解く。
中から出てきたのは小さな布の御守りだった。糸で口を結んである。母さんが昔よく使っていた絹糸の色だ。
セナがそれを掌に乗せてしばらく見ていた。
「……効くかな」
「分からない。けど」
「けど?」
「縫う時に、母さんの手が震えなかったってことは、分かる」
「……うん」
御守りを上着の内ポケットに入れた。
重くはなかった。
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屋台で少し早めの昼のスープを買い部屋に戻る。
食べている間は二人とも黙っていた。
食べ終わってから紙とペンを出す。村への返事を書こうとした手が、すぐに止まった。
セナも紙の上で同じ動きをしていた。
「リク」
「ん」
「返事、今書く?」
「……どうかな」
「今書ける文章と、書きたい文章が違う気がする」
「……うん」
僕も同じことを考えていた。
返事を出すなら、書いた内容が紙の上で固まる前に、僕たちの中で先に固めておかなければならない。
今日読んだ手紙の重さを村に返す前に、僕たちは自分の重さで返事の重さを揃える必要がある。
「次の便でいい?」
「うん」
「決めてから書こう」
「うん」
紙を一度しまった。ペンも箱に戻した。
代わりにノートを開いた。
書き留めるべきは返事ではなく、まだ決まっていない問いの形だった。
書く前に整理する。村にいた頃から僕はそうやってきた。
午後の鐘が遠くで鳴り始める頃にノートを閉じた。
ギルドに戻ると、ルナが受付の奥から手招きをしてきた。
受付台の前ではなく台の脇まで僕たちを引き寄せる。
「読んだか」
「はい」
「なんて書いてあった」
「薬は効いている。半年は持つけど、その後の手当ても、と」
「そうか」
ルナが台の縁を指で1度叩いた。
「次の手配は当面はあたしが繋ぐ。
半年後にもう1度くらいなら、同じ筋に頼める。
でも——」
ルナがそこで僕とセナを交互に見る。
「いつまでも特別扱いを続けるわけにはいかない。前にも言ったね」
「はい」
「同じことを2回言うのは念押しだ」
セナが横で頷いた。僕も頷く。
ルナがそれを見届けて息を1つ吐いた。
「あんたら、ランクの話はどう考えてる」
「Cまで上がる方法をこれから考えます」
「考えるって、どう考える」
「依頼の選び方、訓練、推薦人の関係——できることを全部洗い出して順番に並べます」
「順番、ね」
ルナが片方の口の端を上げる。受付の業務の顔ではなく叔母の顔だ。
「いいさ。あんたらの順番で並べな。
こっちは繋いでる間に間に合わなくならないように見てる」
「はい」
「メシは食え。倒れたら——」
「何も進まない」
「分かってるじゃないか」
ルナが台帳の方に戻る。
僕とセナは並んで一礼してギルドの戸を押した。
叔母さんの「順番、ね」の声が背中に残っていた。
外に出ると午後の光が広場を斜めに照らしていた。
冬の入口の風が広場を通り抜けて屋台の暖簾が一度だけ揺れる。
セナが隣を歩いている。
「リク」
「ん」
「夜に、話そう」
「うん」
「宿の昼間だと人の出入りがあるから」
「うん」
セナがそれだけ言った。
本当はもっと別のことを言いそうな口の動きだった。でも言わなかった。
僕はそれ以上聞かなかった。
セナが言わない時はまだ自分の中で形になっていない時だ。形になるまで待つのが村の頃からの僕たちの距離感だった。
宿に戻る道でセナが地面の小石を1つ蹴った。
小石が道の脇に転がっていく。
セナはそれを目で追ってからまた前を向いて歩き出した。
宿の戸の前で立ち止まる。
「リク」
「ん」
「……エラさんが、動けるようになったって」
「うん」
「それだけで今日は十分だね」
「……うん」
セナが先に戸を開けて中に入った。
僕は戸の外でもう一度内ポケットの御守りに手を当てた。
中の布は朝より体温で温まっていた。
温かいのは、それだけずっと内側に置いていたからだ。
夜になるまでにはまだ時間があった。




