閑話②「テルナ町からの手紙」
冬の入口の風が鍛冶場の戸を一度だけ叩いた。
俺は炉の前にいた。
朝からヴァルドの馬の蹄鉄を打っている。あいつの馬は前足の蹄鉄が早く減る。歩き方の癖だと前に言っていた。
火を入れる、叩く、水に浸ける。鉄が「じゅ」と音を立てて固まる。
順番は変えない。順番を変えると失敗する。鍛冶仕事は順番だ。
「ガレンさん、荷物です」
戸口で声がした。
振り返ると見覚えのある男が立っている。テルナから西の街道を回る運び屋。月に2度、村に依頼物を運んでくる。
俺は鎚を置いて手を拭いた。
男が荷物を差し出す。
革袋がひとつ。小さい。
封筒がひとつ。
「お預かりした品物です」
「ご苦労さん」
「奥さん、お加減はどうで」
「ぼちぼちだ」
「そうですか、お大事に」
男は頷いて出ていった。
馬車の音が遠ざかる。
家の戸を一度叩いて中に入った。
エラは台所にいた。寝込んでいない日は台所に立つようにしている。本当は寝ていた方がいいのは俺もエラも知っているが、エラは「動かないと動けなくなる」と言う。
俺がそれ以上口を挟まないのは、エラが言うことには大抵理由があるからだ。
「テルナから」
革袋と封筒を渡した。
エラが両手で受け取る。
受け取った時、エラの目が一瞬だけ大きくなった。
「読みます」
「うん」
俺は土間に立って待った。
炉の前に戻ろうとしたが足が動かない。
エラが封筒を開ける。中に紙が2枚。
1枚は短い文字の連なり。
もう1枚は別の手で書かれている。エラはそちらを上にして読み始めた。
「ルナさんから」
「うん」
「『薬を2回分送る。1回分で大人3ヶ月程度の症状を抑える』」
「うん」
「『水と一緒に飲ませろ。空腹時を避けろ。熱が高い時は無理に飲ませるな』」
「ふむ」
「『効くかどうかは相手次第だ。期待していい。ただ、効かなかった時のことも頭の隅に置いとけ』」
エラがそこまで読んで紙を膝の上に置いた。
それから革袋に手を入れて、中の瓶を取り出す。小さい瓶だ。掌に2本収まる大きさ。栓は固く詰めてある。
瓶を1本、目の高さに上げた。
中で固いものが動く音がする。液体ではないらしい。粉薬か、丸薬か。
「2本」
「うん」
「もう1枚、あの子から」
エラがリクからの手紙を手に取った。
俺は身を屈めてエラの肩越しに紙を覗き込む。
字は読める。が、読めるものは限られている。鍛冶場の品書きと、ヴァルドが代筆してくれる村の文書と、ルナがたまに寄越す走り書き。
リクの字は——前より整っていた。
「『僕は町で雑用と訓練を続けます』」
エラがそこで一息を吐いた。
読むのを止めて紙を膝に戻す。
「他には」
「セナちゃんから、1行。『絶対治る、とは書きません』って」
「……そうか」
エラが笑った。
笑ったというより、口の端が一度だけ上がって戻った。
「リクの字、上手になりましたね」
「……そうか」
俺は土間から動けなかった。
動いたら何か言わなければならない気がした。何を言うべきかは分からなかった。
炉の方で鉄が冷めていく音がしている。今打たないと、また火の入れ直しが必要になる。
それは分かっていた。それでも動けなかった。
「あなた」
「ん」
「ありがとう」
「俺は——何もしてない」
「あの子を、ちゃんと送り出してくれたじゃないですか」
「ああ」
エラが手紙を畳む。
革袋に瓶を戻し、紙を一緒に入れた。
「炉、戻ってください」
「ああ」
炉に戻る。戻り際に口の中で一度だけ呟いた。
(あいつは——大丈夫だ)
誰にも聞こえない声だった。
鎚を握り、鉄を炉に入れ直す。火が上がる。
鍛冶仕事を終えるのは日が傾く頃。
俺は外に出て井戸の縁に手をかけ、釣瓶を下ろした。
冬の入口の水は冷たい。
井戸水を桶に汲んで手と顔と首と腕を洗う。
革のエプロンを外してシャツの袖をまくる。
胸も流す。煤が水に黒く落ちる。
エラに「煤を家に持ち込まないで」と言われ続けてきた。最初は鬱陶しかった。井戸の水は冷たいし毎日は面倒だった。
でも今はもう、井戸を通らずに家に入る方が落ち着かない。
体が覚えた習慣だ。理由なんて分からなくていい。エラがそうしろと言ったからそうしている。
それで家に病人が出にくいというのは、村の他の家を見ていればなんとなく分かる。
水を払ってシャツを着直す。
日が傾いて井戸の縁に俺の影が長く伸びていた。
家の方を向く。
戸を開ける前にもう一度だけ手を払った。
水気を落としてから戸を開けた。
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私は寝間で薬の瓶を膝の上に置いていた。
ガレンはまだ土間で道具を片付けていて、鎚と金敷を布で拭く音がここまで届く。
あの人は道具を仕舞う時の音がいちばん丁寧で、仕事中の鎚の音より気を遣っているのが分かる。
ランプの脇にリクの手紙を広げる。
昼間に1度読んだ手紙を、もう1度上から下まで読み返す。
字は——前より整っていた。
村にいた頃のあの子は書くのが速いが終わりの方が崩れていた。最後まで丁寧に書く前に頭の中で次のことを考え始めてしまうのだと思っていた。
今度の手紙はそうじゃない。最後の1行まで同じ濃さで書いてある。書き慣れたのか、誰かに見てもらえる場所で書いているのか。
あるいは、書きながら相手の顔を思い浮かべる時間ができたのか。
指で文字をなぞる。
紙の感触は村のものと違って少し滑らかだった。テルナの紙だろう。
あの子が小さかった頃を思い出す。
3歳になる前のあの子は月に何度も熱を出していた。
夜中に起きて額に手を当てる。熱い。
井戸の水を汲んで、火にかけて、煮立たせて、冷ましてから飲ませる。
それを毎晩、何度も繰り返した時期があった。
私の母も——いえ、母のことは思い出せないが——とにかく水は煮立たせてから飲ませる、ということだけは知っていた。
なぜ知っているのかは自分でも分からない。
村の他の家ではしていない習慣だった。
それでも私は煮立たせ続けた。
ガレンは何度も「うちの子、こんなに弱いのか」と呟いていた。
あの人は言葉が少ないので呟きが出るのは本当に困っている時だけだ。
私は何も答えなかった。
答えてもあの人の心配が消えるわけではないと知っていた。
3歳を超えてからあの子は徐々に強くなった。
7歳になる頃には年に2、3回微熱を出すくらいで済むようになっていた。
病弱だった頃の記憶はたぶんあの子の中にはほとんど残っていない。
私が覚えているだけで、あの子の体の方はもう忘れてしまっているのだろう。
それでよかったと思う。
覚えている必要のないことは忘れた方がいい。
リクの字をもう一度なぞる。
『僕は町で雑用と訓練を続けます』
——あの子はもう、私が手を離しても大丈夫な気がする。
ふと、そう思う。
口に出したわけではないのに、頭の中ではっきり言葉になっていた。
不思議だった。
誰の顔を見てそう思ったのか、自分でも分からなかったから。
リクの字を見ていたから、リクの顔を思い浮かべて、そう思ったのなら自然だ。
でも、頭の中に浮かんだ顔は——リクの顔ではなかった気がした。
別の誰かの顔。
誰の顔だったか、いくら考えても出てこない。
ずっと昔、どこかで見た顔。
でも、どこで見たのかは分からない。
考えるのをやめた。
考えても出てこないものは考えても出てこない。
ただ、頭の隅に置いておくことだけ覚えておく。
ルナさんが手紙に書いていた「頭の隅に置いとけ」と、別の意味で同じ動作だ。
ガレンが寝間に入ってきた。
井戸の匂いを少しだけ連れて。
「手紙、読んでたのか」
「はい、読んでいました」
「……そうか」
それ以上、ガレンは何も聞かなかった。
私も何も言わなかった。
二人で並んで寝間に座っているだけで十分だった。
「明日の朝、1本目を飲み始めます」
「ああ」
「空腹時を避けろ、と書いてありました」
「ああ」
ガレンがランプを少し弱めた。
寝間の暗さが一段増す。
私は瓶を革袋に戻し、手紙を畳んで枕元に置いた。
外で冬の入口の風が吹いている。
窓の戸が一度だけ鳴った。
ガレンが先に横になり、私もその隣に横になる。
天井に二人の影が重なって落ちている。
ランプはまだ消していない。
「あなた」
「ん」
「あの子のこと、大丈夫だと思いますか」
「思う」
「即答ですね」
「……ずっと思ってる」
「いつから」
「最初からだ」
ガレンはそれだけ言って目を閉じた。
ランプを消すのは私の役目だ。私は手を伸ばしてランプの炎を消した。
寝間が完全に暗くなる。
ガレンの呼吸の音が暗闇に溶けていく。
夜が深くなった。
私は目を開けたまましばらく天井を見ていた。
明日の朝、薬を飲む。
効くかどうかは頭の隅に置いておく。
あの子のことも頭の隅に置いておく。
頭の隅に置けるものが今夜はひとつ増えた。
それは悪いことではない。
窓の外で風がもう一度だけ鳴った。




