第16話「光明」
朝、目が覚めた。
外はまだ薄暗い。窓の格子の影がうっすら床に伸びている。
昨夜「今夜は休む」と決めて寝たはずだったが、体は何度か起こされた。
その都度、頭の中で項目を並べ直す。並べ直して、並べ直して、最後に残ったもの。
それを確かめるために机のノートを開く。
書いたものは3つ。
『対症療法・完治・Cランク』
書いた時の手の動きを覚えていない。寝惚けながら書いたから線が震えている。
でも書いた順番には意味があった。順番に並べた時、頭の中で形になったから書いた。順番が答えだ。
セナはまだ寝ている。下のベッドで仰向け、片手を額にのせていた。寝顔は昨日の歩きの分だけ深い。
僕は座ったまま日が登るのを待つ。
叔母さんに会う前にセナと話したいことがあった。
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セナが目を覚ましたのは外が完全に明るくなった頃だった。
「リク、もう起きてた?」
「うん。少し前から」
「ノート、開いてる」
セナが下のベッドから上半身を起こす。
髪の片側が潰れているが今朝は手で押さえなかった。
僕の机の方に来てノートを覗き込む。
「対症療法、完治、Cランク」
「うん」
「順番にどういうこと?」
「症状を抑えることと、完治は別の問題だと思う。
今、僕たちが探すべきは対症療法の薬。地脈調整剤が多分それ。
完治は今すぐは無理だけど、症状を抑えながら完治の方法を探せばいい」
昨夜のセナだったら「絶対」と言いそうな口の動きをしたかもしれない。でも今朝は違う形で口が動いた。
「Cランクは?」
「叔母さんに顔の利く冒険者を紹介してもらえないか聞いてみる」
「頼めるの?そういうこと」
「聞いてみないとわからない」
セナが頷いた。
ノートの「Cランク」の文字を指でなぞる。
「リク」
「ん」
「焦ってないね、今日」
「うん」
「私も焦らないようにする」
セナが立ち上がる。寝起きの体を一度伸ばしてから頬を両手で軽く叩いた。
昨日までの歩きで疲れた体を今朝の用事のために起こす動作。
宿を出て、ギルドへ向かう。
朝の屋台はまだ開いていない店もあった。
スープの屋台は開いている。店主がこちらを見て頷いたが、今朝は買わずに通り過ぎる。
先に叔母さんに会いたかった。
ギルドの戸を押す。
受付台の前にはまだ冒険者が並んでいない。早い時間だった。
ルナは台帳をめくっていた。僕とセナの顔を見ると片方の眉を上げる。
「早いな」
「相談があります」
「言いな」
僕は短くまとめて話した。
昨日の薬師の話。地脈調整剤。Cランク制限。
ルナから知り合いに頼めないか、ということ。
ルナは台帳から目を離さずに聞いていた。指は項目をなぞるのを止めない。
僕が話し終えると指が止まった。
それから顔を上げた。
「あれか」
「はい」
「あんたらが回って、それでも届かなかった答えを、今、あたしが出す番ってわけだ」
「……はい」
「順番、守ったね」
ルナが片方の口の端を上げる。受付の業務の顔ではなく叔母の方の顔だ。
それから声を落とした。
「しばらくの間なら、知り合いに頼める。
高ランクの冒険者が保証人になって、非公式に融通してもらう形になる。
ただ——」
ルナがそこで一度、僕とセナを交互に見た。
「あたしの信用で動く話だ。当面の間は何とかする。
でも、いつまでも特別扱いを続けるわけにはいかない。
早いところ自分たちで買えるようになりな」
「わかってます」
「わかってても、なかなかできないもんだよ。ランクの話だけじゃない。金の話もある」
「……必ず、自分たちで買えるようになります」
セナも横で頷いた。
「絶対」とは言わなかった。口の中で抑えた形が今朝はもう慣れた動きだ。
ルナが引き出しから紙を1枚出した。
「知り合いに手紙を書く。薬が来るまでは3日見な」
「3日」
「早ければな。遅ければ4日。あたしが急かしても向こうの段取りまでは動かせない」
「お願いします」
「あと、これは念押しだ」
ルナがペン先で台帳を一度叩いた。
「3日のあいだ、あんたらは普通に過ごせ。雑用に出ろ。
薬師の店はもう回らなくていい。回ったって出る答えは同じだ。
村に薬を送って、それからどうするかの余力を残しときな」
「はい」
「メシもちゃんと食え。倒れたら——」
「何も進まない」
「分かってるじゃないか」
ルナはそれだけ言って手紙を書き始める。
外に出るとすでに空が高かった。
ここ数日、薬師の店ばかり見ていて空を見上げていなかった。気付いたら朝の屋台のスープも飲んでいなかった。
セナが深く息を吸った。
「ありがとう」
「僕は話しただけだよ」
「リクが話してくれたから聞いてもらえた。私だったら整理しきれなかった」
それ以上、僕は何も言わなかった。
ここまで来れたのはセナが僕を村から連れ出してくれたからだ。
でも、今それを口に出すのは違うと思ったから。
「……ありがとう」
もう一度、セナが言う。
今度は別の意味の「ありがとう」だった。最初は僕への、もう一度は別の誰かへの。誰へのかは聞かなかった。
「朝飯、食べよう」
「うん」
屋台に戻る。
店主が「今日は遅かったな」と笑った。
スープと黒パンを2人分、銅貨2枚。
椀を受け取ると湯気が顔にかかる。久しぶりに温かいものを朝に取ったような感じがした。
実際には毎日取っていたけれど、今朝のスープは違う温度に感じた。
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3日のあいだ、ルナさんに言われた通り雑用に出た。
倉庫の整理。掲示板の貼り替え。掃き掃除。
グレスが時々こちらを見たが何も言わなかった。
セナと2人で動くのがここ数日で1番慣れた手順になっていた。
歩く距離は薬師回りより短い。やる事は決まっている。考える事も少ない。
2日目の午後、ギルドの裏で水を汲んでいると訓練場の方から見覚えのある背中が出てきた。
ノエルだった。
最初の日に倉庫で一緒だった、北の漁村から来た見習い。
痩せて、背が低い。腕の筋だけはしっかりしている。
水甕に柄杓を入れて、こちらに気付いた。
「リクか」
「うん」
「最近、雑用で見なかったな」
「ちょっと、家のことで動いてた」
「ふうん」
ノエルはそれ以上聞かなかった。家の事情を聞かない距離感は見習い同士の暗黙の合図だった。深く聞くと相手の方も聞き返さないといけなくなる。お互いにその手間を省く。
僕は水を汲み終えて桶を持ち上げた。
「ノエル」
「ん」
「漁村って、塩、安いの?」
「安い。塩漬けの魚も安い。代わりに肉は高い」
「魚の干物、効くって聞いたことある?」
「効く?」
「体の調子に」
「ああ。腹下しに効くって村の年寄りが言ってたな。塩気が強いと悪いものが薄まるんだとさ」
「そう」
「お前、誰か知り合いの調子悪いの?」
「母さん」
「ふうん」
ノエルが柄杓を水甕に戻した。
それきり続きはなかった。
僕も続きは言わなかった。漁村の干物が母さんの病に効くわけがないことは聞く前から分かっていた。それでも一度漁村の話を聞いてみたかった。テルナの薬師に聞いて回って、答えが似たような形ばかりだったから。
ノエルが訓練場の方へ戻りかけて、一度だけ振り返った。
「リク」
「ん」
「うちの村も、町から薬を取り寄せるのに時間がかかる。届く頃には間に合わないことが多い」
「うん」
「届いたならちゃんと使え」
ノエルが背中を向けて訓練場に戻っていった。
柄杓を置く小さな音が桶の縁で1度鳴った。
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3日目の夕方、ルナさんから呼ばれた。
受付の奥の小部屋。普段は使われていない。
机の上に小さな革袋が1つ置かれていた。袋の上にもう1つ、紙が折って置いてある。
「これだ」
ルナが袋を指で示した。
僕は手を伸ばした。袋の重さは思っていたより軽かった。掌に乗せると中で固いものが動く音がした。瓶のかたちが袋越しに伝わってくる。
セナが横で息を呑む音がした。
「2回分入ってる」
「2回」
「向こうが融通できたのがそれだけだ。もう1回分は念のため、と言っていた」
「……ありがとうございます」
「礼は受け取らない。あたしが借りを作っただけだから」
ルナがそれだけ言って、紙を指で指した。
「これは服用の仕方。1回分で大人3ヶ月程度の症状を抑える。
水と一緒に飲ませろ。空腹時を避けろ。
それから——熱が高い時は無理に飲ませるな。熱が下がるのを待ってからだ」
「分かりました」
「あと、これは念のため言っとく」
ルナが声を一段落とした。
「効くかどうかは、エラさんとの相性次第だ。
全員に効く薬じゃない。
症状が止まる人もいれば、和らぐだけの人もいる。
効かなくても薬は責めるな。
——確率の話だ」
「……はい」
「期待しすぎるな、って意味じゃない。期待していい。
ただ、効かなかった時のことも頭の隅に置いとけ」
ルナはそれだけ言って椅子を引いた。
僕は革袋を両手で受け取る。
セナは紙を受け取った。書かれた字をじっと見ている。
部屋を出る前にルナがもう一度声をかけた。
「西に出る荷馬車が明後日の朝出る。
急げばそれに乗せられる。村まで5日。あたしが手配しとく。
あんたらは今夜、村への手紙を書け」
「はい」
「メシも食え」
「はい」
宿に戻り机にランプを灯す。
革袋を机の真ん中に置いた。袋越しに見える瓶の形をもう一度確かめる。
セナがその横に紙を広げた。
2人で並んでそれぞれ手紙を書いた。
僕は父さんと母さんに宛てて書く。
書くべきことは多くなかった。
薬が手に入ったこと。
1回分で3ヶ月程度の効能が期待できること。
2回分送ること。
ただ、効くかどうかは飲んでみないと分からないこと。
完治の薬ではないこと。
完治の方法は引き続き探していること。
それから、もう1行、書こうとして手が止まった。
書きたかったのは「ごめん」。本来なら自分が家に居て、効いているかどうかを目で確かめるべきだ。それを今、革袋に詰めて人に運んでもらう。
書けなかった。書くと父さんが「ばかか」と言うのが見える気がした。母さんは「気にしなくていい」と言うだろう。両方とも書いたところで返事は要らない言葉だった。
代わりに書いたのはこうだった。
「僕は町で雑用と訓練を続けます」
封をする前にセナの方を見た。
セナはまだ書いている。書く速度が僕より遅い。考えながら書く時のセナの速度。
セナが書き終えるのを待った。
書き終えるとセナが顔を上げた。
「リクのお母さんに、私からも一言、書いていい?」
「うん」
「『絶対』とは書かなかった」
「うん」
セナがそれだけ言って、僕の手紙の余白にもう1行だけ書き足した。
僕は読まなかった。読むとセナが恥ずかしがるのを知っている。
封をして、革袋と一緒にまとめた。
手紙の準備が終わる頃には西の方に星が出ていた。
村はあの方向だ。
明後日の朝、革袋と手紙が西に向けて出る。馬車に乗って街道を5日かけて村に届く。
届くまでに僕たちにできることはない。
「届くかな」
セナが下のベッドから声をかけてきた。
今日はいろんな意味で疲れが溜まったようで、手紙の準備が終わるや否やベッドに向かって行き、今は横たわっている。
「届くと思う」
「効くかな」
「分からない。けど——」
「けど?」
「効かなくても、次がある」
「うん」
「次は、僕たちが買えるようになる」
「うん」
セナがそれだけ言って、ランプの方を見た。
僕はランプを消した。
部屋が暗くなり、窓の外の星だけが残った。
革袋の重さをまだ掌が覚えていた。
あの重さが村に届く。届いたら母さんの体に入って、症状を抑える。そのあいだに僕とセナは少しでも前に進む。
また送れる薬が必要になるときは僕たちが自分で買える形を作る。
ルナが「次は自分たちで買えるようになりな」と言った。あれは命令ではなく、設計図だ。
順番を守る人の言葉の重さを今夜もう一度受け取った。
セナの寝息が下で始まる。
僕はまだ目を開けていた。
西の星が窓の隅にひとつ、ゆっくり動いている。
明日の朝、馬車の支度を見に行く。
車輪の磨り減り、馬の蹄の形、御者が荷を載せる手つき。
革袋を託す相手の顔を僕は覚えておきたかった。




