第13話「初依頼」
朝、まだ薄暗いうちに宿を出た。
集合は6時。目が覚めて準備を開始したのは5時半。
セナの足音と僕の足音が階段を下りる。廊下の壁の向こうから他の客の寝息が漏れていた。
昨日のうちに装備は袋にしまい終えていた。荷物の重さも肩に馴染んでいる。
外に出ると、街道の縁にうっすら霜が降りていた。
昨日より一段冷えた空気。
通りに人影はほとんどない。遠くで犬が一度だけ鳴く。
朝の屋台はもう火を起こしている。
店主が顔を上げてこちらを見た。
「今日は早いな」
「依頼です」
「お、初めてか」
「はい」
「気をつけな。スープ、湯気が出るうちに飲んでけ」
椀を受け取る。手のひらに温度が伝わる。
セナも受け取って、無言で口をつけた。
「美味しい」
「うん」
スープの塩気がいつもより強い。出発前だからかもしれない。
飲み終わって椀を返す。店主が「気をつけろよ」と1度言ってまた火に戻る。
ギルドの広場に着いた。
中央に男が2人。装備姿で立っていた。
1人は背が高く肩幅もある。両手剣を腰の脇に立てかけている。
もう1人は細身で矢筒を腰に下げている。
背の高い方がこちらを見た。
「お前らか」
「はい」
「ガラン。あっちはハル」
肩幅のある男がガラン。細身の方がハル。
ハルはこちらを見ていない。視線が広場の他の方向を動いている。
何かを聞いているような、見ているような動き。
ガランが2歩近づいて、僕の腰の登録プレートを覗き込む。
プレートは見習い同行者の薄い金属。表面に通し番号と魔力数値が刻まれている。
ガランの動きが止まった。
覗き込んだまま、しばらく動かない。プレートと僕の顔を交互に見ている。
「……ゼロ? ガキ、これマジか」
「はい」
「見習いだろうが、魔力の数値は書いてあるんだぞ」
「はい。ゼロです」
ガランが僕の顔を見て、次にハルを見る。
ハルは何も言わない。広場を見ている。
ガランが「おい」と言うと、ハルが視線を戻してプレートを見た。
それから僕の目を一度だけ見る。
何も言わない。
ただ、目の動きが他の見習いを見る時とは違っていた。
何かを観察している目だった。マルセルが初めて食堂で僕に「何を気にしてる」と聞いた時に近い目。
ガランが息を吐いた。
広場の端で別の依頼を待っていた冒険者が2人、こちらを一度だけ見た。商人の従者も顔を上げる。視線が一瞬集まって、それからまた散った。
「初めて見たな、現役のゼロは」
「歩けます」
「歩けるのは見てる。問題はそこじゃねえ」
「……はい」
「まあ、推薦人がついてるならギルドの判断だ」
ガランはそれだけ言って広場の中央に戻った。
ハルが僕とセナをもう一度見て、それから小さく息を吐く。
ハルの息も白かった。
「ガランさん、ハルさん、よろしくお願いします」
セナの声がいつもより硬かった。
ガランが片手を上げて答える。ハルは頷くだけ。
挨拶はそれで終わった。
しばらくすると商人が来た。
荷車を引いた40代くらいの男と従者の若い男。商品は麻布と保存食が半々。
ガランが手を上げて挨拶する。商人が頷く。慣れたやりとりだ。
ガランが先頭。ハルがその少し後ろ。商人と従者が荷車。
僕とセナは荷車の脇。
東の街道を進む。
朝の霜が日に当たって溶けていく。地面が湿っていた。
ハルが時々、街道脇の藪に視線を投げる。
何かを見ているのか、聞いているのか。村のヴァルドおじさんが森に入る時の目に近かった。
僕は歩きながら地図を頭の中で開いた。目的地の集落まで半日。途中、川を1度渡る。
雨は降っていない。川は浅いはずだ。昨日宿で確認した。
セナが小声で言った。
「ハルさん、ずっと外を見てる」
「魔物の気配を見てるんだと思う」
「魔物、出る区間?」
「グレスの話だと、午後の森のあたり」
「あと半日……」
「うん」
セナが息を吐く。
緊張は抜けていなかった。
午後、森に近づく区間に入った。
ハルが手を上げて、全員が止まる。
「右。距離、10」
ガランが剣の柄に手をかけた。
僕は石を3個、足元から拾う。一番丸いものを上に。
少しして、ハルが手を下ろした。
「……いや。逃げた」
ガランが息を吐く。
「気が変わったか」
「ああ」
ガランがこちらを向いた。
「ガキども、お前らは荷車の脇を離れるな」
「はい」「はい」
「動けと言われたら動け。動くなと言われたら動くな」
「わかりました」
ガランが先に進む。ハルが視線を周囲に戻す。
僕は石を1個だけ袋にしまった。残り2個は手のひらに残す。
セナが「準備、早いね」と小声で言った。
---
夕方、集落に着いた。
10軒ほどの家。畑と家畜と井戸が1つ。
商人が代表に荷物を渡すと代表は頷く。
一晩泊めてもらう手筈は事前に通っていた。
僕たちは空家に分かれて泊まる。
ガランとハルが1室、僕とセナが1室。
夕食は集落の人がスープと黒パンを出してくれた。
塩気が薄かった。テルナの塩より、内陸の塩の方が薄い。
セナがそれを口に含んで「テルナの方が美味しい」と小声で言った。
「うん」
「贅沢になったかな」
「町に慣れたのかも」
セナが笑う。
夜、寝る前。
「明日は帰り道だね」
「うん」
「帰り道の方が危ないって聞いた」
「ハルさんが言ってた。商品が無いから魔物が襲うリスクは下がる。けど警戒を緩めると逆に危ない」
「うん」
セナが先に眠りに入る。
僕は外の音を聞いていた。風と、家畜の鳴き声と、遠くの誰かの咳。
ナイフを枕元に置いた。
---
翌朝、帰路。
商人と従者は集落に残る。荷物が無くなった分、ペースは速い。
ガランが先頭、ハルが少し後ろ。僕とセナは間。
午後、森の手前まで戻った。
来る時にハルが「気が変わった」と言った場所だった。
ハルの手が上がる。
「来る」
ガランが剣を抜いた。
「3匹。ゴブリンじゃねえ、迷いウルフだ」
藪が揺れた。
3匹の魔物が出てくる。中型犬くらい。茶色い毛、突き出た牙。
村で1度だけセナと一緒に追い払った魔物より明らかに大きい。
あの時は1匹で、追い払うだけで済んだ。
今は3匹で、追い払うだけでは済まない。
ガランが前に出る。
「ガキども、後ろ!」
セナと一瞬だけ目が合った。
セナが頷く。僕も頷く。それで言葉は要らなかった。
村で木に登った時、セナが踏んだ枝を僕が選んで踏んだ。あの順番で動けば動ける。
セナが手を前に出した。
拘束魔法の光が前に伸びる。空気が一瞬、ぴんと張る。
村で初めて出した時より光が安定していた。宿で毎晩練習していたのがここで形になった。
僕は手のひらに残していた石を握り直す。
1匹目はハルの矢が前足に刺さる。動きが鈍る。
2匹目にガランが剣で向かう。
3匹目がこちらを向いた。
体が反応した。
頭で考える前に石を握る指の力が決まっていた。前世という言葉は浮かばない。ただ、こういう瞬間の体の動かし方を、僕は知っている気がした。
どこで覚えたのかはわからない。
「リク」
セナが声を絞った。
3匹目に光の膜が伸びる。前足を絡める。動きが止まる、その一瞬。
石を投げた。
側頭部に当たる。
3匹目の動きがもう一段止まった。
ナイフを抜く。
1歩、2歩。距離を詰める。
父さんの研いだ刃が一度だけ光を返した。
魔物の喉が見えた。
村で森の鹿を父さんが捌くのを見たことがある。喉の角度を父さんが指で測っていた。
あの角度が指に残っている。
喉元に差し込んだ。
重さが手に伝わる。生き物が止まる重さ。村の鹿の時、僕は外で見ていた。中に入ったのは初めてだ。
動きが完全に止まった。
息を吐いた。
気付かなかったが、ナイフを握る指の力が抜けない。
1匹目はハルの2射目で倒れた。
2匹目はガランの剣で倒れた。
3匹分の死体。
血の匂いが鼻についた。
ガランが息を吐く。
「……だいたい、2対3でいけるはずだったがな」
ハルが弓を下ろした。
「……4対3」
「数えるな」
ガランが地面の魔物を片足で軽くつついた。動かない。
それから、僕の方を向く。
「お前、誰に習った」
「普通にやっただけです」
「ゼロのガキが、普通って何だ」
笑いを含んだ声。
馬鹿にしている声じゃない。
ガランがハルの方を見た。ハルが小さく頷く。それだけの動きが、4年か5年の相棒として共通の言語のように見えた。
ハルが横で1度だけ言った。
「いい目だ」
それだけだった。
褒めているのか、観察を述べているのか、口調から判断はつかない。
ただ、目の動きを止めたまま僕を見ていた。それが評価らしかった。
ナイフの刃を布で拭く。血が革にわずかに移った。
鞘に戻す。
柄が手の汗で湿っている。父さんの巻いた革の感触が、いつもよりはっきりと指で分かる。
セナが「リク、手」と言った。
僕の手はまだ震えていた。気付かなかった。
セナの手が一度だけ、僕の手の甲に触れる。それで震えが止まる。
セナの手は冷たい。村で薪を運ぶ時のセナの手と同じ冷たさだった。
「行くぞ」
ガランが言う。
4人とも、それ以上は何も言わなかった。
4人の足音だけが街道に残る。ガラン、ハル、僕、セナ。並びは来た時と同じ。
ガランが先頭、ハルが後ろ気味、僕とセナは間。
ただ、空気の重さが行きと帰りで違っていた。
来た時、ガランは僕のプレートを覗き込んでいた。帰り道、ガランは前だけを見ている。
それが態度の変化なのか、ただの帰り道の習慣なのか、僕には判断がつかない。
判断する必要も、たぶんない。
---
夕方、テルナ町の門が見えた。
ギルドに戻って報告。
ガランが受付に依頼書を渡す。受付の女性が頷いて、報酬を出す。
ハルが横で何も言わない。
僕とセナの分はルナ叔母さんが渡してくれた。
銅貨で40枚ずつ。
セナが「思ってたより多い」と小声で言った。
「戦闘貢献分が乗ってる。ガランがそう申告したらしいよ」
ルナが受付台の上で銅貨を数えながら、こちらをちらっと見た。
「無事だな」
「はい」
「ガランは何か言ってたかい?」
「……『誰に習った』って」
ルナが小さく笑った。
「あいつが言うなら上等だ」
それだけ言って、ルナは次の客に目を向けた。
ギルドを出ると夕方の光が石畳の上を走っていた。
セナが「帰ろう」と言う。
僕は頷いた。
宿に戻る道で、マルセルが酒場の前で背中を壁に預けていた。
こちらを見て、一瞬だけ目が合う。
頷くわけでも、声をかけるわけでもない。
それから視線を外して酒場の中に入っていった。
宿に戻ると、セナが夕食を取りに部屋を出る。
僕は部屋に残って装備を片付ける。
ナイフを抜いてもう一度刃を見た。
血の痕は拭いた。でも、革の鞘の縁に薄く赤い跡が残っている。
すぐには消えない種類の跡だった。
父さんが研いだ刃で、僕は今日、魔物の喉を突いた。
父さんはたぶん、その用途を想像して研いだ。
研ぐ手の角度がそれを言っていた。
ノートを開く。
——東の街道。1日先の集落。
——魔物3匹。迷いウルフ。
——セナの拘束魔法、効いた。リクのナイフ、初使用。
——ガラン「お前、誰に習った」。ハル「いい目だ」。
——明日、薬師1軒目。
それだけ書いてペンを置いた。
セナが戻ってくる足音がした。
扉が開く。
「リク、夕食貰ってきたよ」
「ありがとう」
「今日のリク、初めてだったよね」
「何が」
「初依頼。動けてた」
「動けてた、というより——動かないとセナが危なかった」
「うん。だから動けてた」
セナが笑った。
笑いの中に、何か他のものも混じっていた。
それが何かはわからない。
わかる必要も今はなかった。
スープを口に運ぶ。塩気がテルナのそれだった。
今朝の集落のスープより、確かに濃い。
「明日、薬師回るよね」
「うん。1軒目」
「行こう」
「うん」
それだけ言って僕は椀を空にした。
夜、ランプを消す前にもう一度、ナイフを枕元に置く。
鞘の縁の赤い跡が薄く光を返した。
「ゼロのガキが、普通って何だ」
ガランの声がまだ頭の中にある。
普通だと言ったのは、本当に普通だったからだ。
村で父さんが鹿を捌いていた角度。ヴァルドおじさんが石を投げる時の重心。セナが拘束魔法を出す手の高さ。
全部、誰かのを真似ているだけ。誰かの動きが体の中に積もっていて、今日、それが使われた。
それを「普通」と呼ぶのが間違っているのかどうかは僕には分からない。
明日はまた町の薬師を1軒回る。それが今日の依頼の続き。
銅貨40枚は母さんの薬代のはじまりにはまだ届かない。それでも前よりは近い。
セナの寝息が下の段で安定していた。
窓の外、犬が鳴いた。昨日と同じ犬の声。
眠りに落ちる前にもう一度だけ鞘の縁を指でなぞった。
赤い跡はざらついていた。革は乾いている。父さんが研いだ時の角度をもう一度指で確かめる。
朝になればまた町を歩く。
薬師の店の場所は地図に印を打った。1軒目は中央通りから2本目の路地。
名前は確かソリスと聞いた。
出発前にもう一度地図を確かめる。それから家を出る。それで明日が始まる。




