第12話「準備」
村を出てから3週間程度が経過した。
最近は朝に天井の節を数えることも少なくなった。
宿やベッドに慣れてきた頃合いだ。
セナが下で身を起こす気配がする。
「セナ、おはよう」
「おはよう。グレスの件、何の話だろうね」
昨日の夕方、グレスから「明日、ギルドで話がある」と短く言われた。
内容は言わなかった。グレスはいつも必要なことだけを言う。
「楽しみ」
セナの声が弾んでいた。
テルナに来てから3週間。雑用と訓練の繰り返しの中で、何か新しいことがある予感だけがあった。
楽しみと言っているが緊張もしている。
僕も同じだ。
ベッドから降りて手と顔を洗う。
村にいた頃から続けている朝の習慣だ。
外に出ると息が白かった。
朝の屋台でスープと黒パンを買う。
店主はもう「いつもの2つ?」とも聞かずに出してくれる。
鍋から立つ湯気が店主の顔の輪郭を一度だけ曖昧にした。
「リクは何の話だと思う?」
「外への依頼かもしれない」
「なんで?」
「訓練2週目が終わってから、グレスがこっちを長めに見ていた」
「気付かなかった」
「気付かれないように見てるみたいだから」
セナが小さく笑った。
歩きながら息を吐く。
町の空気は冬の入口を迎えていた。日も短くなってきている。
村にいた頃、こういう朝は父さんがすでに鍛冶場で火を起こしていた。
テルナでその音はない。代わりに屋台の鍋の音と荷車の音、それと知らない誰かの咳が聞こえる。
ギルドの掲示板の前に2人ほどの冒険者がいた。
「お前ら、ちょうどよかった」
グレスが奥から出てきた。手に1枚の依頼書を持っている。
「明日朝、東の街道沿いの集落への護衛補助。Eランクの冒険者2人に同行する。1泊2日の行程。お前らは荷物持ちと雑用。
相手は依頼帰りの連中だ。動きを邪魔するな。動けと言われたら動け。
Eランクへの同行だ。推薦人の許可がいる。マルセルには昼までにルナ経由で通す」
「……ルナさん経由でいいんですか」
「マルセルは依頼帰りで寝てる時間だ。ルナの方が早い。受けるか?」
セナと目が合い、お互いに確認した。
「「はい」」
2人の声が重なる。
「以上だ。荷物まとめておけ」
それだけ言うとグレスは奥に戻っていった。
依頼書はカウンターの上に置かれていた。セナが手に取って読む。
「東の街道——1日先の集落まで、商品の護衛?」
「うん。たぶん冬支度の保存食」
「なんでわかるの」
「冬の入口だから、内陸の集落は今のうちに食料を確保する。麻布や干し魚もそれに含まれるんだ」
セナが小さく笑った。
「リク、店主から仕入れる情報の量、変じゃない?」
「気がついたら聞いてる」
午前中の雑用は装備庫の整理だった。
備品の数を数え、傷んだものを別の棚に分ける。
1日目の倉庫整理と同じ作業で、もう手は覚えていた。
並んで作業していた見習いがいた。
14歳くらいの男の子。背は標準で痩せ気味。黒髪が前髪にかかっている。
前の週の訓練で最後まで立っていた子だ。
あの日、最後の打ち込みの30回目で唇が紫になっていた。それでも倒れなかった。
棚の革手当てを数えている横顔を僕は数秒だけ見ていた。
作業の手が止まらない。無駄な動きが少ない。
村にいた頃、父さんが鎚を振っているときの手と同じ種類の動きだ。
ふと、僕は声をかけていた。
「名前、聞いてもいい?」
彼が手を止めて振り返る。
目が鋭い。睨んでいるわけじゃない。ただ、見ている。
「ティム」
「リク」
「知ってる」
「そっか」
それきりだった。
ティムは手を動かし始める。表情は動かない。
僕も自分の作業に戻る。
セナが横から「話したね」と小声で言った。
「うん」
「変な子だね」
「変かな」
「変というか——なんていうか」
セナは言葉を選んだようだったが、結局それ以上は何も言わなかった。
ティムの装備が目に入る。
腰に短剣が1本。古いが手入れはされている。柄の革は擦り切れていたが、握り直した跡がある。
革の手当ては薄い。最低限のものだけを揃えている、そういう装備だった。
新しい物が一つもない。買い足す金が無いのか、それとも別の理由があるのか。
「あの子、いつもああなの?」
セナが小声で聞く。
「わからない。話したのは今日が初めて」
「そっか」
セナはそれ以上聞かなかった。
ティムの作業はもうこちらを見ていない。最後の棚に向かって、数え終わったら帰る、それだけの動きだった。
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午後は明日の準備で宿に戻る。
机に地図を広げる。テルナで買った安い地図だ。線が細く書き込みをする余地は多い。
東の街道はテルナ町の門から出てまっすぐ進む。半日歩いた先に小さな集落がひとつ。今回の目的地はそこだ。街道はその先にも続いていく。野営地や宿場、その先にある大きな町まで。
今回の行程と、その先の街道。それぞれの位置に印をつける。
危険な区間を確認する。森が近い場所、開けた草原、川の渡り。
グレスは「動きを邪魔するな」と言った。
ということは、護衛対象とは別に魔物の出現がある区間を頭に入れておいた方がいい。
それは僕の仕事ではないが、知っていて困ることはない。
セナが下のベッドで胡座をかき、手のひらに小さな光を出していた。
親指の先くらいの淡い青の光。じっと見ている。光は揺れない。
村でアーシャおばさんから教わった魔法だ。集中の仕方を維持できないと大きさが揺れる。
セナの光はこの2週間で揺れなくなった。前は揺れていた。
「練習?」
「うん。明日、何があるかわからないし」
「そっか」
「リクは何してるの」
「地図に印つけてる」
「……変わらないね」
「うん」
セナが笑った。光が一度だけ揺れて、また安定した。
笑うとセナの集中は崩れる。でも、すぐに戻る。戻り方が早くなっていた。
ナイフを腰から外す。
父さんが村を出る前に研ぎ直してくれたものだ。
鞘から抜く。刃が一度だけ光を返す。鞘の革は乾いていた。テルナに来てから一度も使っていない。
刃に指の腹を当てて感触を見る。
研ぎ直しの跡は綺麗だった。父さんの手の癖が指で分かる。鎚を持つときと同じ角度で研いだのだろう。あの人の手はそういう動きをする。
セナが横から見ていた。
「お父さんが研いだやつ?」
「うん」
「いいね、それ」
鞘に戻す。腰に差し直す。
セナは光を消して立ち上がった。
「私、装備の確認してくる。革手袋の縫い目が緩んでた」
「直せる?」
「縫う糸、宿で借りた」
セナが扉を開けて廊下に出る。足音が遠ざかる。
僕は地図に戻った。
明日の予定を整理する。出発の時間。装備のチェックリスト。1日目の野営地までの距離。雨が降った時の代替路。
書き出す前に少しだけ手が止まる。書く順番を頭の中で並べる。
順番が決まると、あとは手の動きに任せるだけだった。
書きながら母さんのことを考える。
村にいた頃、夕食前に父さんが手を洗うのを母さんが見ていた。
井戸で水を被って煤を落として、それからやっと家に入る。あの動きをずっと確認している母さんの目。
父さんは無口に従っていた。母さんに何度か言われて、もう体に染み付いている。
あの目は母さんから貰ったものだ。繋がっているとは思っていなかった。考えたこともない。
ただ、村の他の家の子と違うことを僕は自分では気付かない。
今、母さんは熱で寝込んでいる。父さんは今頃、井戸で水を被っているだろうか。
母さんが起き上がれない朝、父さんは粥を作っただろうか。塩を多めに入れていなければいい。
明日の依頼が終わったら、報酬で薬代の足しにする。
ルナ叔母さんに聞いた話だと、町の薬師を回ってみるところから始まる。1軒目はもう決めてあった。
ノートに書く。
——明日、依頼。
——出発6時。1日目野営。
——ナイフ装備確認。地図印付け済。
——帰還後、薬師1軒目。
それだけ書いてペンを置いた。
机の縁を指でなぞる。
木の節が一つ。村の机にもあった節と似ていた。
どこの机にもこういう節はある。
指の腹がそれを覚えていた。場所が変わっても節の感触は変わらない。
そんなことを考えていると、誰かが廊下を歩く足音が聞こえた。
足音は僕たちの部屋の前で止まった。
セナが戻ってきたかと思って顔を上げる。
扉の向こうに気配があるがノックがない。立ち止まっている。
「リク、いるか」
声で誰だかわかった。
扉を開ける。
マルセルが立っていた。
「ルナの姐さんから聞いたぞ。明日、東の街道だってな」
「はい」
「ちょっといいか」
「どうぞ」
部屋に入ってくる。
机の上の地図に目を落とした。広げたままの地図、印のついた街道、メモ書きの紙束。
「何やってんの」
「準備です。行き方と帰り方と、危ないところに印をつけてます」
「……冒険者がそんなことするか、普通」
「しないんですか?」
マルセルが地図の縁を指でなぞった。
村の井戸の縁を指でなぞる父さんの動きと似ていた。
「Eランクのチームに同行か」
「グレスからそう聞きました」
「……まあ、楽な依頼だ。心配ない」
「はい」
それだけ言って、マルセルは部屋の中を見回した。
ベッド、机、地図、ノート、ナイフ。
何かを探しているわけじゃない。目に入る物を確認している動きだ。
冒険者は部屋の動線を最初に見る癖がある、と村のヴァルドおじさんが言っていた。万が一の時にどこから出るかを体が覚えるためらしい。
マルセルの目はそれに近い動きをしていた。
「お前、これ全部書いてんの」
「はい」
「毎回?」
「毎回です」
「……書いて、覚えるのか」
「覚えるためじゃないです。次に同じことをする時に短く済ませるためです」
「ふうん」
マルセルが何か言いかけた。
口を開いて、止めた。
それから首を振った。
「いや」
それだけ言って、マルセルは扉の方に向かった。
扉の前で振り返る。
「死ぬなよ」
「はい」
「土産話、聞かせろよ」
「はい」
それだけ言ってマルセルは廊下に出た。
扉が閉まる。
足音が遠ざかっていく。途中で一度だけ止まった。
壁に背中を預けたような気配。何かを呟いた。
「準備、か」
そう聞こえた。
廊下の壁が薄いから、独り言だったのかもしれない。
それから、また足音が続いて階段を下りていった。
セナが入れ違いに戻ってきた。
手に革手袋を持っている。縫い目の修繕は終わっていた。
「マルセルさん?」
「うん」
「何しに来たの」
「明日の話と。わからない。最後、何か言いかけてた」
「何を」
「『いや』って言って止めた」
「……あの人、いつもそう」
セナが笑った。
笑いの中に少しだけ困った響きがあった。
「ルナ叔母さんに頼まれたのかな」
「頼まれてる部分はあると思う。でも、頼まれてないことも含めてな気もする」
「そう?」
「今日は奢られに来たわけじゃなかった」
セナが首を傾げた。
「奢られないのに来たってこと」
「うん」
「……マルセルさん、面白いね」
「面白い、かな」
「面白いよ。わかりにくいのに、わかる感じがする」
セナが笑った。
今度は笑いの中に困った響きはなかった。
僕はもう一度装備を並べた。
セナも自分の荷物を確認し始める。
2人とも口数は少なかった。明日の朝が近い。
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夜、明日に備えて早めに部屋の灯を消した。
セナがベッドの下段ですでに寝息を立てている。
僕は最後にもう一度、装備を全部並べた。
ナイフ。革手袋。水筒2つ。携帯食。地図。ノート。ペン。火打ち石。布。包帯。
1つずつ確認して、袋にしまう。
袋の口を結ぶ紐の結び方を村でヴァルドおじさんに教わった通りにする。両端を一度交差させ、輪をくぐらせ、もう1度。
緩まないように引いた。
窓の外で犬が遠くで吠えている。昨日と同じ犬の声だ。
冬の入口の風が宿の壁を一度だけ叩いた。
ナイフを枕元に置く。
鞘の革に触れる。父さんの手の角度がまだ指に残っている。
明日、これを使うかもしれない。使わないかもしれない。
それ自体はどちらでもいい。
母さん、と頭の中で呟いた。
返事があるわけじゃない。ただ呟いた。それだけだった。




