第11話「普通、な」
朝、目を開ける。
天井の節の数をまた数えていた。
3つ。村にいた頃の癖がテルナの宿の天井でも自然に出る。
体が新しい場所を覚えていくのは、こういう小さな癖から始まる。
町の医者は3軒回った。
誰も母さんの症状に心当たりがないと言った。
それでもまた別の医者を回る。それしかない。
——今日は訓練2週目の日。
前週の訓練は走り込みと荷物だった。
今週は木剣を使った基礎動作だと前日にグレスから言われていた。
「冒険者として動くなら、最低限の護身は覚えろ」
それで終わりだった。
内容も時間も訓練が始まる時に教える、と。
グレスの言い方はいつも短い。短い分、こちらは聞き漏らさないように耳が向く。
たぶん意図してやっている。
広場に集まったのは前の週と同じ7人。
1人、足を引きずりかけている子がいる。前週の訓練で痛めたのだろう。それでも来ている。
来なくてもよかったはずなのに来ていた。
グレスが広場の隅から木剣を1本ずつ運んでくる。
両手で4本ずつ抱え、見習いの前に並べていく。
木剣は長さがほぼ揃っている。柄の革の巻き方が少しずつ違う。たぶん古い順なのだろう。
「今日は構え方と基本の打ち込みだけ。3時間やる」
それだけ言ってグレスは1歩下がる。
僕も木剣を1本取る。
手に取ると思ったより軽い。でも長さがある。
ミルヴァ村でヴァルドおじさんに教えてもらった時は木の枝を使っていた。
本物の木剣は枝より重くまっすぐだった。
枝は手の中で勝手に向きが決まる。木剣は自分で向きを決めないといけない。
そこが違う。
セナが横で「重い?」と聞く。
「軽い方だと思う」
「私には重い」
「セナの腕の方が細いから」
「うるさいよ」
セナが笑った。
笑えるなら緊張は半分くらい抜けている。
構え方を教わる。
足の幅、重心の位置、剣の角度、肘の位置、肩の力の抜き方。
グレスが見習いの間を回って1人ずつ直していく。
「肘が高い」
「重心が前すぎる」
「力を抜け、握りすぎだ」
直し方は短い。
直された見習いはその指示通りに姿勢を変える。
グレスは変わったかどうかを目で確認すると、何も言わずに次の見習いに移る。
僕の番が来た。
グレスは僕の前で足を止める。
それから、剣を振り上げる動作を1回やらせる。
僕は振り上げて、戻す。
それを見ていたグレスはまだ足を止めていた。
「……お前、構えたことがあるのか?」
問う声だった。
責めているわけじゃない。確認している声だった。
「ちゃんとはないです。村で剣の真似事は少しだけ」
「真似事——か」
それだけ言うとグレスは次の見習いに移った。
僕の構えは特に直されなかった。
直すところがなかったのかもしれない。
——ヴァルドおじさんが教えてくれた型とほとんど同じだ。
村にいた時、熱心に習っていたつもりはなかった。
何度か振り方を見せてもらって真似ただけ。
それでも体が覚えていた。
「覚えてた」と言うほどはっきり残っている感覚ではない。
ただ、振り上げた瞬間に肘の位置と足の幅が勝手に決まった。
セナの構えはヴァルドおじさんの直伝だ。
当然、僕より教わっている時間が長い。
セナの構えもグレスは直さなかった。
別の見習いの構えを直しながら、グレスが手帳に何かを書き留めていた。
ちらっと見えた時に僕とセナの名前のあたりにだけ印が付いていることに気がついた。
それが何の印かは分からない。
---
打ち込み練習が始まった。
縦に振り下ろして、戻して、また振り下ろす。
30回。
それを1セットにして、合計でどれだけやるかは時間次第。
最初の10回は全員やれた。
20回あたりから腕が重くなってくるのが見て分かる。
肩が上がると打ち込みが浅くなる。
浅くなると剣の戻りも遅くなる。遅くなると次の打ち込みのタイミングがずれる。
僕は数を数える。
1回。2回。3回。
20回、21回、22回——。
数を数えると「あと何回」が見える。
あと何回が見えると終わりが見える。
終わりが見えると続けられる。
——たぶん、これも村にいた頃から続いていた感覚だ。
畑で芋を掘る時、僕はいつも数を数えていた。あと何個の畝、あと何個の芋。数えると終わりが見える。
それと似ている。
30回目が終わる。
グレスが「休憩30秒」と言う。
見習いたちは木剣を地面に置いて腕を振る。
肩を回している子もいる。
手の握りを開いたり閉じたりしている子もいる。
「次、30回。始め」
不意な再開だ。
ついていけずに動きが遅れる子がいる。
「少し待って」と言いたそうな顔をしていたが誰も言わない。
——あと何回を見せない訓練だ。
休憩がいつ来るか、何セットあるか、終わりがどこか、グレスは一切言わない。
言わないこと自体が訓練の一部だった。
村のヴァルドおじさんも訓練の終わりを言わない人だ。
「終わりを聞きたい奴は続けられない奴だ」と言っていたのを思い出す。
数を数えるしかない。
あと30回、あと30回、あと30回。
次のセットが始まる前に自分の中で1つ目印を置く。
目印を置けばそこまでは頑張れる。
体力を区切るやり方だった。
2時間が過ぎた。
木剣を持ち続けられる子が半分を切っている。
足を止めている子、しゃがみ込んでいる子、壁に寄りかかっている子。
3〜4人がもう動けない状態だ。
グレスは何も言わない。
動かないことを責めもしない。続けろとも言わない。
ただ、続ける見習いだけを見ている。
3時間目に入ったあたりで見習いの1人が静かにその場を離れる。
木剣を返却して、頭を下げて、広場の外へ歩いていく。
グレスは特に何も言わない。
頷きもしない。
それも責めではない。
1人抜けると場の空気が変わった。
残った見習いの何人かが「自分も出ていいのか」と問うような顔をしている。
でも、誰もそうしない。
たぶん、出ていいのは「もう本当に動けない」と決めた者だけだ。
判断が許される代わりに判断の重みは自分で持つ。
それがこの訓練の仕組みだった。
セナはまだ動いている。
腕の動きが落ちてきている。打ち込みの深さも浅くなってきていた。
でも、動きは止まっていない。
セナの集中の仕方を僕は村にいた頃から知っている。
息を細くして、肩で呼吸しないように切り替える。それで体力の使い方が変わる。
村でセナが薪を運んでいた時の呼吸と今の呼吸が同じだ。
僕も動いている。
(まだ行ける)
腕は重い。肩に張りがある。
でも、終わりが見えているなら続けられる。
あと1時間。
1セット30回として、あと——4セットくらい。
それくらいならやれる。
1回、2回、3回——。
数えることだけを考える。
考えることを減らすと体が楽になる。
考えると痛みや疲れに目が向く。目が向くと動きが鈍る。
だから数だけを考える。
体はそれを覚えていた。
---
「終わり」
グレスが言った時に立っていたのは3人。
僕。
セナ。
そして、もう1人——14歳くらいの背の高い男の子。
その子の顔は青白い。
唇が薄く開いて、息はしているが声は出ない。
腕が小刻みに震えている。
それでも木剣を握ったまま立っている。
倒れない。その一点だけをその子は守っていた。
前週の訓練の日、最後の周で歯を食いしばっていた子だ。
今日も同じ顔だった。
名前は——まだ知らない。後で聞こう。
他の見習いたちは地べたや壁際にへたり込んでいる。
誰も倒れてはいないが全員限界だ。
「え、終わりですか?」
声が出た。
意図して言ったわけでも、特に考えて言ったわけでもない。
ただ、まだ続けられそうだったからつい口に出た。
グレスが振り返る。
前の週と同じ目だ。
何かを確認している目。責めも試しもせずただ見ている。
「きつくないのか」
「……普通です」
グレスは間を置いて、「そうか」と言った。
今日もそれで終わり。
「そうか」の言い方が前週より長かった。
——その時、広場の端で笑い声が起きた。
若い男2人。Eランクらしい装備。
依頼から戻ったのか、訓練の終わりを冷やかしに来たのか、どちらか分からない。
1人がもう1人の肩を小突いてこちらを顎で指した。
「見習いがあれだけ立ってんのか。最近の新入りは大したもんだな」
笑いを含んだ声。聞こえる距離。聞かせる距離。
横の仲間が答える。
「魔力ゼロのほうじゃないか? あれで体力だけあっても現場じゃ役に立たねえよ」
「だな。ガキは引っ込んでてほしいもんだ」
セナの肩がぴくっと動いた。
口を開きかけて、止める。「絶対」と言いそうな口だった。
僕は答えなかった。答える必要を感じなかった。
ただ、「ガキは引っ込んでてほしい」という言葉が頭の中で1度だけ反響した。
村の魔力診断の日、誰も口に出さずに思っていたことに近かった。
ノエルが少し離れたところでこちらを見ていた。
何か言いたそうな顔だった。でも、何も言わなかった。
広場の壁際に人が1人立っていた。
マルセルだ。
壁に背を預けて腕を組んでいる。
依頼帰りではない。装備が軽い。
剣も腰にあるが、いつもの汚れた革鎧ではない。街中用の上衣だ。
わざわざ見に来た、ということだった。
マルセルが先ほどの冒険者2人の方をちらっと見た。
冒険者の方も気づいたらしく、声を引いて立ち去る。
マルセルは何も言わなかった。
僕の方を見る。
今回はこちらから視線を返した。
マルセルは僕の目を見て首を斜めに傾けた。
何か言いたそうな顔だったが何も言わない。
代わりに視線を外してギルドの中へ入っていく。
足音は聞こえなかった。
でも、入っていく時の影が扉の向こうに消えるのは見えた。
(普通、な)
——どこかでそういう声が聞こえた。
マルセルの声だったのか、聞き間違いだったのか、広場の隅で誰かが言ったのかは分からない。
ただ、その言葉が頭に残った。
普通、な。
普通じゃない、ではなく。
普通、と一度ためてから間が入って語尾が落ちる。
それは何かを認めた時の言い方だ。
でも、何を認めたのかは僕には分からない。
木剣を返却棚に戻して腕の張りをほぐしているとセナが隣に来る。
「あの立ってた子、すごいね。最後まで立ってた」
セナの声に尊敬が混じっていた。
「そうだね。名前、聞いておけばよかった」
「次の訓練の時に聞こう」
「うん」
間があった。
「リクも最後まで立ってたけど」
「それとこれとは別」
「なんで」
「あの子は限界だったのに立ってた。僕はまだ余裕があった。全然違う」
セナが止まる。
それから「……そういう見方するんだね」と言った。
「そうじゃないの?」
「わからない。でも、その視点は持ったことなかった」
セナの声色は重かった。
持ったことがない視点を僕が持っている。
それが何を意味するかはお互いまだ分からない。
ただ、線が1本、また引かれた感じはあった。
前週、走り込みで引かれた線と似た線だった。
---
帰り道、宿までの石畳の歩幅もいつもと同じだった。
腕の張りはまだある。
でも、足は普通に動く。
歩きながらセナが小声で言う。
「リクって、自分で気付かないだけで結構変だよ」
「……そうかな」
「うん」
「悪い意味で?」
「違う。たぶん、いい意味」
セナはそれ以上言わない。
僕も聞き返さない。
聞き返すと答えにくいことを答えさせることになりそうだった。
今はそれでよかった。
宿の灯りが見えた。
東向きの窓に夕方の光が映っている。
村にいた時と同じ時刻に空の色は変わる。
場所が変わっても変わらないものはある。
変わるものと変わらないものが毎日同じ食卓の上にあるのと似ていた。
宿に入る前セナが空を見上げる。
僕も見上げる。
夕方の空に薄い雲が長く伸びている。
「明日もある」
「うん」
それだけ言って、宿の扉を開けた。
部屋に戻ってから机に向かってノートを開いた。
——2週目訓練。木剣・構え方・打ち込み。3時間。
——構えはヴァルドおじさんの型のまま、グレスは直さなかった。
——14歳くらいの男の子は最後まで立っていた。前週も最後まで動いていた子。次の訓練で名前を聞く。
——マルセル、軽装で見学。視線数秒。声はかけられず。
——「普通、な」と聞こえた。出所不明。
5項目を書いた。
書く時に手は止まらない。
止めると考え始めてしまう。考え始めるとノートに残らない。
だから、残したいものは考えずに書く。
セナが下のベッドで動く。
「リク、それ、毎日書いてるよね」
「……うん」
「何のため?」
「忘れないため」
「忘れたら困るの?」
「困る——というより、同じ失敗をもう1回したくない」
セナが黙った。
それから「……それも村で誰かに教わったの?」と聞く。
「教わってない。気がついたらやってた」
「……だよね」
セナはそれ以上聞かない。
僕もそれ以上は言わない。
ノートを閉じてランプを消した。
窓の外で犬がまた吠えている。
昨日と同じ犬の声だ。
明日の朝も同じ屋台でスープを買う。それだけは決まっていた。
——マルセルが軽装で広場に現れたのは、その日が初めてではなかった。




