第10話「マルセル」
雑用が始まって今日で5日目。
朝の手順はもう決まっている。
6時前に起き、屋台でスープと黒パン、ギルドへ向かう。
グレスに作業を聞く。倉庫整理、掲示板の張り替え、備品の確認、訓練の補助。
午前中に1つ、午後に1つ。
毎日繰り返している。
セナが歩きながら言った。
「テルナ、5日目で結構慣れちゃったね」
「うん」
「最初の1日が一番きついって本当だね」
「そうかも」
ギルドに着いた。
午前中の作業は武具庫の点検だった。
グレスから「数を数えろ。傷んでるものは別の棚に分けろ」と言われる。指示はそれで終わりだ。
セナと2人で剣・盾・革鎧の数を確認していく。
セナが数え、僕が傷の有無を確認する。
僕の方が剣の傷を見るのに時間がかかった。
村でヴァルドおじさんが教えてくれた「使われた剣の癖」を思い出しながら刃の角度や柄の擦れを見る。
「これは振りすぎてる」
「どれ?」
「こっちの剣。柄の右側だけ擦れてる」
「右利きの人がずっと使ってたってこと?」
「うん。たぶん」
セナが頷いて台帳に「右側摩耗・要点検」と書く。
書く文字に迷いがない。
午前中の作業は2時間で終わった。
他の見習いはまだ作業中だ。
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昼休み。
ギルドの食堂でスープと黒パンを買う。
見習いたちは食堂の片隅のテーブルに集まる傾向がある。冒険者は中央寄り、見習いは隅。
誰かが決めたわけじゃない。なんとなくそうなっている。
村の集会所でも子供は壁際に座っていた。場所のヒエラルキーはどこにでもある。
セナが先にスープに口をつける。
「今日のスープ、ちょっと薄くない?」
「うん。塩が少ない」
「なんで?」
「塩が高くなってるって屋台の店主が言ってた。港からの便が遅れてるって」
「……それも聞いてたんだ」
「会話の中で出てきただけ」
セナが笑う。
「リク、屋台の店主との雑談は結構長くしてるよね」
「そうかな」
「うん。私が黒パン取ってる間に毎朝何か聞いてる」
「……気がついたら聞いてる」
聞いているのではなく、勝手に耳に入ってくる。
村でも井戸端の話は黙って聞いていた。
聞いていると、明日畑がどうなるか、誰が誰と気まずいか、誰の家の仕事が増えそうか——そんなことが見えた。
テルナでも同じだった。店主や屋台の客の声を聞いていると町の動きが見える。
それを「情報収集」と言うのかどうかは自分では分からない。
掲示板の話、依頼の報酬、薬師の腕、宿の評判——町の声がスープを買うあいだに耳に入ってきていた。
そういえば、町の医者を昨日1軒回った。
母さんと同じような症状の人を診たことはない、と言われた。
今日もどこか1軒、と思っていた。
セナと黒パンの食べ方の話をしていると上から声が降ってきた。
「ガキが何しに来た」
声で誰かはすぐに分かる。
顔を上げる前に椅子の引かれる音がした。
マルセルだ。
僕たちの斜め向かいに座っている。食い物は持っていない。腕を組んで、椅子の背に寄りかかっている。
依頼帰りらしく革の装備の肩のあたりに泥が残っていた。
「ガキじゃない」
セナが言う。
スープの椀から目を上げず、淡々とした声だった。
手は黒パンを千切る動きを止めていない。
動きを止めないことが動揺していないことの証明になっていた。
「そういうとこがガキなんだよ。改めて、マルセルだ」
マルセルが笑う。
馬鹿にした笑いではない。慣れた笑い方だ。
初めて会った時と同じ笑い方で、その時と同じ目をしている。
セナが椀を置く。
それから正面からマルセルを見る。
「セナです。この子はリク。何か用ですか?」
「用はない。ただ聞きたかっただけだ。村の子供が何しにここまで来た」
聞き方が最初の「ガキが何しに来た」とは少し違う。
最初のは挑発に近かった。
今のは、本当に聞きたい時の声だ。
人は聞きたいことを聞く時、声の角度が変わる。
「病の薬を探しに来ました。それと、働いてお金を稼ぐために」
「病ってのは重いのか」
「今のところ動けてます。でも薬がいる」
「……そうか」
それ以上はマルセルは薬のことを聞かない。
聞かれなかった分、セナの肩が下がる。
踏み込まれたくない場所には踏み込まない。その距離感をマルセルは知っているように見える。
僕はスープを飲みながらマルセルを見た。
短く刈った金髪。耳の下に小さな傷跡が1つ。
目の下に薄く疲れが残っている。でも目自体は澄んでいた。
口は悪い。でも目は——悪くない。
革の装備は使い込まれている。手の入れ方が丁寧だ。
腰の剣の柄も握りの革が新しい。最近巻き直したのだろう。
装備の手入れを怠らない冒険者は長く生きる。ヴァルドおじさんが昔そう言っていた。
(この人は人をよく見ている)
そう思う。
セナへの声も意地悪をしていたわけじゃない。試すというより、確認に近い。
何を確認していたのかはまだ分からない。
「お前は黙ってるんだな」
マルセルが僕に言う。
「……話すことがなかっただけです」
「セナが全部しゃべるから?」
「そういうわけじゃない」
「でも任せてるだろ。考えるのとか」
「……交渉とか、言葉にするのはセナの方が得意です」
マルセルは僕を一瞬、だけど長めに見る。
「お前の方が得意なことは何だ」
考えた。
「見ること、だと思います」
「見ること?」
「動きとか、空気とか。セナが話している間に相手が何を気にしているかとか」
マルセルは「へえ」と言う。
笑いを含んだ声だ。でも、最初の笑いとは少し違う種類の笑いだった。
何かを確認した時の、納得の声に近い。
「で、いま俺は何を気にしてる?」
ちょっと意地悪な問いだ。
でも、これも試すというより確認に近かった。
僕はマルセルの目を見る。
肩の力の抜け方、椅子の背への寄りかかり方、剣の柄に手を置いていない位置、テーブルの上の手の置き方。
「……たぶん、僕たちが何か困ったことが起きた時、ちゃんと逃げられる頭をしてるかどうか」
「ふうん」
「違いますか?」
「いや、違わねえ」
マルセルが笑った。
今度はちゃんと笑っている。
たぶん、面白がっている顔だ。
セナが横で目を丸くしている。
セナの顔を見て、「言いすぎたかな」と思った。
でもマルセルは特に気にする様子はない。
マルセルが立ち上がる。
「死ぬなよ」
去り際に言った。
軽い口調。食後の挨拶くらいの重さ。
それから足を1歩踏み出して止まる。
何か言いかけて首を振った。
「いや」
それだけ言って食堂を出ていく。
足音が遠ざかった。
食堂の他の冒険者がこちらを見たがすぐに自分たちの会話に戻る。
マルセルが座っていた椅子はそのまま。
押し戻されてもいない。
慣れた人の座り方と立ち方。
セナが声を抑えて言った。
「……何か言いかけてたよね、最後」
「うん」
「気になる?」
「……気にはなる。けど、聞かない方がいい気もする」
スープは冷めていた。
僕は残りを飲み切る。
(この人は気にかける時に理由を言わない)
そう思った。
気にかけていることは分かる。理由を言わないのも分かった。
ただ、なぜ気にかけているのかはまだ分からない。
「死ぬなよ」の言葉は軽い口調だった。
でも、軽い口調で言えるのは何度も同じ場面を見てきた人だけだ。
重い言葉を重く言うのは誰でもできる。重い言葉を軽く言えるのは慣れた人だけ。
村のヴァルドおじさんがたまに似た言い方をしていた。
依頼帰りで顔を見せた冒険者の知り合いに「またな」と短く言って手を上げる。
あの「またな」も、似たような重さで言われていた。
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午後の雑用は荷物の搬入補助だった。
商隊から届いた品物を棚まで運ぶ係。
大人が運んでいる荷物を棚まで誘導するのが今日の仕事だ。
地味な仕事だが誰かがやらないと棚の中の在庫がぐちゃぐちゃになる。
僕は小さなメモ帳を出して棚の番号と品目を書き写し始める。
1日目の倉庫整理の時に頭に入れた配置を紙に書き出していく。
——3列目右:薬類(鎮痛剤・止血剤・解熱剤)
——3列目左:包帯・布類
——4列目:保存食(乾燥肉・固いパン・干し果実)
——5列目から武具
3列目までは確実。4列目以降は午後の作業を見ながら埋めていけばいい。
紙にしておけば次の人が同じ作業をする時に時間が半分になる。
1人で覚えていても意味がない。みんなが見られるところに残しておく方が長く役に立つ。
なぜこういう発想が出るのかは自分でも分からない。
ただ、村にいた頃、母さんが台所の薬棚に小さな札を貼っていたのを思い出した。
「のどの薬」「腹の薬」「熱が出た時」と、母さんの字で書いてあった。
父さんは字が苦手だから母さんが代わりに書いていた。
母さんは「自分以外の人が薬を取れるように」と言っていた。
その記憶がメモを書く手と一緒にある。
書きながらだから手は止まらない。
止まらないと作業も進む。
進むうちに午後の半分が過ぎていた。
グレスが通りかかる。
「何を書いてる」
声色は責めるようではない。ただ、聞いている声だ。
「棚の番号と品目の一覧です。次に整理する時、使えると思って」
グレスが目を細めた。
「今日の雑用が終わったら捨ててもいいのか」
「残していいなら、残しておきたいです。次の人が使えるかもしれないので」
グレスは何も言わない。
ただ、そのメモを受け取って——棚の横のフックに紐で引っかけた。
紐は備品から持ってきたもの。
その紐の結び方が目に入った。
両端を一度交差させて、輪をくぐらせ、もう1度。
ヴァルドおじさんが村で結んでいた荷物紐と同じ結び方だった。
冒険者が荷物を縛る時の基本の結び。
それを見てなぜか落ち着いた。
グレスは黙って奥へ歩いていく。
午後の作業を続けながら、僕はメモが揺れているのを横目で見た。
紐にかけられたメモが風で揺れる。
誰かが触ったわけではないが棚の上の空気が動くだけで揺れる。
それを見ているとなんとなく落ち着いた。
セナがそれを見て笑った。
「リクのメモ、家になじんでるね」
「家じゃないけど」
「メモにとっては家になった」
セナの言い方が詩的だった。
村にいた頃のセナはこういう言い方はしなかった。
町に来てからセナの言葉が変わってきている。
何の変化なのかはよく分からない。
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夜、宿の机でノートを開いた。
——5日目。マルセルから自己紹介。「死ぬなよ」軽い口調。
——マルセルは「気にかけるが理由を言わない」型。
——午後、棚番号メモを残した。グレスが備品の紐でフックに掛けた。
——グレスの結び方がヴァルドおじさんと同じ。
それから迷ってもう1行書いた。
——たぶん、僕は「見ること」が普通の冒険者よりは見えてる。比較対象が少なかったから今まで気づかなかった。
書き終わってノートを閉じる。
窓の外で犬が遠くで吠えている。
セナはもう寝息を立てていた。
——明日、町の医者をもう1軒回る。
口の中だけで呟く。
明日もグレスから作業を聞いて、午前と午後を1つずつこなす。
それを繰り返すうちにテルナでの何かが形になっていく。
少なくとも、進める方向は分かっていた。
知らない町で、知っている形が時々、混じる。
グレスの結び方も、マルセルの「死ぬなよ」も、たぶんそういうものだ。




