第9話「基礎訓練」
雑用が始まって3日目の朝。
宿の朝が少し体に馴染んでいた。
1日目は天井の位置で目が覚めた。2日目は外の音で目が覚めた。今日は太陽の角度で目が覚めた。
窓から差し込む光の筋が毎朝同じ場所まで伸びてくる。それで起きる時間がわかる。
体がこうやって新しい場所を覚えていく。
セナが下で身を起こす。
「今日、訓練あるって言ってたね」
「うん」
——前の日の夕方にグレスから言われた。
「毎週1回、見習い全員で基礎訓練をする。明日の朝から。強制参加だ」
理由も内容も言われなかった。グレスは余計なことを言わない。
言われた範囲のことだけを決まった時間にやる人だ。
「内容、何だろうね」
「体力訓練だと思う」
「なんで?」
「冒険者ギルドだから。最初の訓練は走るか、物を持ち上げるかだろうと思う」
「……それも、計算?」
「計算じゃないけど、そういう順番が自然だと思う」
セナが首を傾げた。
「順番、って」
「最初に体力をふるいにかける。歩けない子は危険な現場に出せないから」
「それ、誰に教わったの」
「誰にも」
「……だよね」
セナはそれ以上聞かなかった。
僕もそれ以上は言葉にできない。
頭のどこかにある「順番」はどこから来たのかうまく説明できなかった。
セナが笑った。
「リク、最近答え方が早いよ」
「……早いかな」
「うん」
朝の屋台でスープと黒パンを買う。
3日目になると屋台の店主がこちらの顔を覚えている。
「いつもの2つ?」と聞かれて「はい」と答える。
村でも同じやり取りを毎朝していたのを思い出す。
店主の顔は違ってもやり取りは似ている。
「冒険者の子か」
「見習い同行です」
「ああ。じゃあ訓練の朝か」
「分かるんですか」
「3日に1回、見習いがこの時間に集まってる。朝の数で次の訓練がいつかは見当がつくよ」
それだけ言って店主はもう次の客に目を向けている。
町は——観察しているだけでいろいろ分かる場所だ。
村は知っている顔だけで成り立っていた。
町は、知らない顔同士が互いを観察しながら成り立っている。
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ギルドの裏手の広場に集まる。
広場は思ったより広い。土の地面で踏み固められている。
壁際に石が積まれている。荷物代わりに使うやつだろう。
見習いは7人。
そのうち2人は知らない顔だ。別のパーティに同行していて、訓練の時だけ顔を出すらしい。
名前を聞いたがその場では覚えきれない。
ミルヴァ村では知っている名前以外の人と毎日会うことはなかった。
ここでは名前を覚える機会の方が覚えきれない速度で増える。
グレスが広場の中央に立つ。
腰の古い剣の鞘がいつも通りの位置にある。
「今日は3時間、基本的な体力訓練をやる。走ること、荷物を持つこと、それだけだ。終わったら解散。以上」
グレスの説明は短い。説明というよりかは雑用と同じく指示のように聞こえた。
そういえば、村のヴァルドおじさんも訓練の指示は短かった。
長い前置きをしない人ほど後の動きが見やすい。
裏広場を100周走る。距離にして1周およそ100メートル前後。
最初の数周は誰も口を開かない。
40周目あたりから息の上がる音が聞こえ始める。
60周目で半分の見習いが口を開けて走るようになる。
隣を走っているのはノエルだった。
痩せて背が低いが、腕だけは細い筋がしっかりしている。
船を引く手伝いをしていたんだろう。
「きつい」
ノエルが小声で言った。
返事はしなかった。返事をする余裕がないわけじゃない。返事をする言葉が見つからない。
「そうですね」も「僕もです」も嘘になる。
僕は——そこまできつくない。
汗の匂いがする。自分のと、ノエルのと、他の見習いのと、混じっていた。
村の汗とは違う匂い。塩気を含んでいる気がした。
セナも黙って走っている。
息は上がっている。でも足は止まらない。
セナの走り方は村の畑道で慣れたものだった。
畝のあいだを跳ぶように走る癖がある。
広場でもその癖が残っていた。
(まだ余裕がある)
そんな感覚があった。
自分にそれほど体力があるとは思っていなかった。
ただ——疲れが来るタイミングが他の見習いより遅い。
村で毎日畑と森を歩き回ってきたからかもしれない。それだけじゃないかもしれない。
80周目くらいで息を続けるのが難しい子が立ち止まる。
グレスが「歩いていい。ただし、止まるな」と言う。
立ち止まりかけた子がもう一度足を出す。
100周終わった時、見習いは全員肩で息をしていた。
僕の息も上がっていた。
でも、口を閉じて鼻で息を整えられる範囲だ。
呼吸はペースを決めると楽になる。
3歩で吸って3歩で吐く。これを崩さないと長く走れる。
村の畑道を駆けていた頃から同じ数え方をしていた。
誰に教わったのかは思い出せない。
ただ、走り出すと体が勝手にそれをやっている。
休憩なしで荷物の番に入る。
石袋を1つ持って50周。
石袋は片腕に抱えるくらいの大きさでずっしりと重い。
持ち上げた時、村で薪の束を運んだ時より少し重い。
薪は形が安定している。石袋は中で石が動く。動くと重さの位置がずれる。それを腕で押さえながら走らないといけない。
10周目。
他の見習いは1〜2歩ごとに袋を持ち直す。袋の中の石が足元で動く。動くたびにバランスが崩れる。
20周目。
僕は石袋の下半分を腕で巻いて、上半分は脇で押さえる持ち方に変える。
これだと中で石が動く幅が小さくなる。動きが小さければ重心がずれにくい。
セナが横を走りながら、僕の持ち方を見て真似しだす。
途中からセナの袋もぶれなくなる。
30周目。
最初の見習いが石袋を地面に置く。膝に手をつき肩で息をしている。
グレスは何も言わない。
ただ、視線で「次に進め」と他の見習いに合図する。
40周目。
半分が膝に手をついている。
歯を食いしばって走っている子が1人いた。
14歳くらい。背が高い。線が細い。声を出さない。
袋の重さで肩が下がっているのに、足は止めなかった。
顔色が白い。
村でこういう走り方をする子はいなかった。
村の子は、限界が来たら座る。座らないでいる子はいなかった。
この町には、座らない子がいる。
50周目。
歯を食いしばっていた子が最後の一歩でへたり込んだ。
両手を地面につく。声は出さない。
誰かが「お疲れ」と声をかけた。返事は——なかった。
返事をする力も残っていない。
——名前は知らない。後で聞こう、と思った。
「今日の訓練は以上だ」
グレスが言う。
僕はその場に立っていた。
息は上がっている。
腕に張りがある。
でも——立っていられた。
「え、もう終わりですか?」
声が出た。
自分でも驚いた。意図して言ったわけじゃなかった。
ただ、まだ動けたからつい口に出る。
グレスが振り返る。
表情は変わらない。
責めているわけでも試しているわけでもない。何かを確認している目だ。
「きつくないのか」
「……普通です」
正直に答える。
そう言うしかなかった。普通じゃないと言うほど自分の中に基準がなかったから。
グレスは間を置いて他の見習いたちの方を向く。
「今日はここまでだ。解散」
それだけだった。
他の見習いは動かない。動けない。
グレスは僕とセナをほんの数秒長く見ていた。
何を見ていたのかは分からない。
広場が静かになる。
見習いたちが思い思いの方向へ散っていく。歩く速度は来た時の半分以下だった。
グレスは備品を片付けながら手帳に何かを書いている。
セナが隣に来る。
「あんなこと言わなくていいのに」
「でも普通だった」
「普通じゃないと思う、あれ」
「……そうかな」
「そうだよ。みんな限界だったじゃん」
セナの目が他の見習いの方を見る。
地面に座ったまま動けない子が2人。座らないでいる子が3人。
全員、表情が抜けていた。
「僕も疲れてはいた」
「うん。でも余裕あったでしょ」
「……うん」
「リク、それを『普通』って言うのが、もう普通じゃないんだよ」
セナの言い方は責めるようではない。
ただ、線を引くような言い方だ。
僕と他の見習いの間に線が引かれた感覚があった。
その線は——僕が引いたんじゃなくて、もう引かれていたもの。
セナはそれに気づいていただけだった。
「セナはきつくなかったの?」
「きつかった。足が重かった。普通の人はもっときついと思う」
「……どういう基準で普通って言うんだろう」
セナが考える。
「みんなができることを普通って呼ぶんじゃない?」
僕は「なるほど」と言った。
でも、まだよくわからない。
僕が普通だと思っていたことが、みんなができないことだったとして——何を変えればいいのか分からない。
セナはそれを察したらしい。
「変えなくていいよ。ただ、知っといて」
「うん」
ギルドの壁際に人が1人立っている。
マルセルだ。
壁に背を預けて腕を組んでいる。
依頼帰りの汚れが装備の革に残っている。剣の柄に手を置いている。
目が合う。
マルセルは何もしない。
頷きもしない。声もかけない。
ただ、見ている。
時間にして数秒だったと思う。
でも、その数秒は他の数秒より少し長かった。
それから、マルセルは視線を外して、ギルドの中へ入っていく。
(なんで見てたんだろう)
気になった。
深くは考えなかった。
ただ、夜にノートを開いた時に書こうと思った。
——マルセルが訓練後に壁際にいた。理由不明。観察対象になっている可能性。
そう書く予定だ。
書くと頭の中の引っかかりが少し減る。
これも村にいた頃から続けている習慣だ。
宿に戻る道でセナが黙っていた。
「どうしたの」
「いや」
「……」
「リク、自覚ない?」
「何が」
「自分が他の子と違うってこと」
考えた。
村での魔力診断の日、僕はゼロだった。だから「他の子と違う」のは知っていた。
ただ、それは「下の方向に違う」だった。
今日、訓練で立っていられたのは——たぶん「上の方向の違い」だ。
「どっちの違いもよくわからない」
「うん。それでいいよ、今は」
「……うん」
それ以上はお互い言わない。
言葉にすると何かを決めることになりそうだった。
今は決めない方がいい。
そう思ったまま宿の方へ歩いた。
宿に着くとセナが下のベッドに横になった。
「足が重い」
「うん」
「リクは?」
「腕の方が重い。足は——あんまり」
「……それ、本当に普通じゃないよ」
セナの声は半分眠っていた。
僕は机に向かってノートを開く。
——3時間訓練。走り100周+荷物50周。立っていられた。
——歯を食いしばっていた子。背高め、線細い。倒れなかった。名前未確認。
——セナは限界の半歩前で止まった。普段の村での体力よりやや上。
——マルセル、訓練後に壁際。理由不明。
——母さんへの薬:明日、町の医師を1軒目から当たる。
5項目を書いて最後の1行を加えた。
村にいた頃から続けてきた習慣だ。
書く時は手の動きに任せる。考えると出てこない。
ペンを置いた時、ふと、村の母さんを思い出した。
今夜、母さんはどうしているだろう。父さんは黙って粥を啜っているだろうか。
熱は下がったろうか。それとも——。
考えるのをやめた。
今、ここでできることをやるしかない。
ノートを閉じる時にはセナの寝息が聞こえていた。
窓の外で誰かが荷車を引いていく音がする。
---
翌日の夕方。
雑用を終えて宿に戻るとセナが下のベッドの上で胡座をかいていた。
手のひらには小さな光が灯っていた。
親指の先くらいの大きさ。淡い、青みがかった光。
「練習?」
「うん。錆びそうだったから」
セナの目が光をじっと見ている。
村でアーシャおばさんから教わった魔法だった。
集中の仕方を維持できないと大きさが揺れる。今夜のセナの光は揺れていなかった。
「綺麗だね」
「……綺麗とか言われると消えそう」
セナが息を吐くと光がふっと消えた。
それから笑う。
「でも、悪くないよ。やっぱり」
「うん」
セナが何の話をしているのか、僕にも分かった。
「やっぱり」は、セナが村で才能を持つ子と呼ばれた時の「やっぱり」だ。
今度は自分で、自分に対して使っていた。
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翌々日の朝。
ギルドに着くと、グレスが入り口で待っていた。
「お前ら2人は今日は別の作業だ」
「別の作業?」
「訓練後の補助雑用に呼ぶ。終わったら声かけろ」
理由は言わない。
僕とセナも聞かなかった。
言われた仕事をやって、終わったら報告して、次の日も来る。
その繰り返しがいつの間にかテルナ町での日常になっていた。
——日常の中でグレスが手帳に何かを書き留める時間が確実に増えていた。
僕は、まだ気づいていない。




