第8話「ギルドの扉」
朝、目が覚めた時、最初に分からなかったのが天井の位置だった。
村の家の天井とは色も近さも違う。板の節の形が違う。
そこで——テルナ町の宿だと思い出した。
セナは下のベッドだった。僕が上を選んだ。
ナイフを腰に差したまま寝るなら、下より上の方が手が動かしやすい。
部屋の入口から1番遠い位置がいいのも、なぜか体が知っていた。
息を整えてベッドの縁に腰掛ける。
村ならこの時間にはもう父さんが鍛冶場で火を起こしている音がしていた。
テルナ町ではその音はない。
代わりに、外の通りから荷車の音、誰かが呼びかける声、犬の遠吠え。
村と違う朝の音。
遠くで鐘が鳴った。低く4回。朝の時報らしい。
セナが下で身を起こす気配がする。
「セナ、起きた?」
「うん。おはよう」
「おはよう。ギルドに行こう」
宿の主人に挨拶して外に出た。
食事は屋台で済ませる。スープと黒パンを1杯ずつ。村のスープより塩気が強かった。
町の塩は港から来るんだろうか、とセナが言う。たぶんそうなんだろう、と僕は返した。
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ギルドに着いたのは朝の8時頃。
昨日は夕方で人が少なかったが今日は違った。
掲示板の前に5人ほど立っていて、依頼書を1枚ずつ確認している。
受付前には小さな列。
食堂のテーブルには装備姿の冒険者が3組、朝食を食べていた。スープに黒パンと薄く切ったチーズが見える。
全員、知らない顔。
(当たり前だ)
当たり前のことを確認しながら扉の中に入った。
昨日、扉の前で立ち止まった理由が今日は分かる。
知らない場所に入る前は息を整える時間が要る。
ルナが窓口にいた。
昨日とは別の人が隣で書類を捌いている。
ルナは僕たちに気づくと、手招きしてカウンターの横の小部屋に通してくれた。
「手続きの書類が昨夜できた。あとはお前たちの署名が要る」
テーブルの上に2枚の書類。
丁寧な文字で必要な情報が埋められている。
ルナの字だろう。父さんの字とは違う。父さんはもっと角張っていた。妹のルナの字は丸みがある。
「何が書いてあるんですか」
セナが聞いた。
ルナが書類の上を指でなぞる。
「推薦人マルセル。お前らの名前と年齢、出身地。同行者の規則。それと——責任の所在」
「責任?」
「あんたらが何かあったらマルセルの登録に響く。あんたらが規則違反したら推薦人にも罰がいく」
セナが息を止めた。
「マルセルさんはそれを承知で——」
「承知だ。昨夜のうちにサインさせた」
僕は意外だった。
昨日の様子では奢りにつられただけに見えた。でも書類は今朝にはもう揃っている。
つまり——奢られる前に書いた、ということになる。
「……奢りは、口実ですか」
「あいつは口数が少ないから理由を言わない。あたしも聞かない」
ルナはそれ以上言わなかった。
僕とセナは目を見合わせ書類にサインする。
書式が決まっている書類は慣れない世界でも体が動く。
書く場所が決まっていれば手は迷わない。
——別の世界でもそれで救われたことがあった。
なぜこの感覚が体に残っているのかは思い出せない。
ただ、紙の前に座ってペンを持つと、名前から順に埋めていく動きが勝手に出る。
書類を提出すると小さなプレートを2枚渡された。
Fランクの登録証ではない。
プレートの形が違う。銅より薄い金属で色も赤みが少ない。
表面に『見習い同行者』と刻印されている。
裏に通し番号が打たれていた。
「正式じゃないから依頼を単独で受けることはできない。常に正式冒険者と一緒に動く。報酬は同行先の判断による」
「わかりました」
「雑用から始めろ。今日は試しに倉庫の荷物整理と備品の確認だ。午前中かかる」
セナが「わかりました」と言う。
僕も「わかりました」と言った。
「一つだけ言う」
ルナの声色が変わった。受付の人間の声ではなく、低い声になる。
「ここは村じゃない。誰もが顔見知りじゃない。あんたらを知ってる大人は、今のところあたし一人だ。なんかあったら来な。話くらいは聞いてやる」
「……はい」
「はい」
僕たちの返事を聞くと、ルナは頷いて受付の顔に戻った。
「荷物置き場は2番の扉の奥。教官のグレスに声をかけな。行きな」
部屋を出る時、セナの肩が下がっていた。
緊張が抜けていた。
僕もたぶん同じだった。
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2番の扉は奥の廊下にあった。
開けると倉庫の入り口に椅子が1つ、その上に人が1人座っている。
50手前くらいの男。短く刈った白髪、日に焼けた肌、手の甲に古い傷が3本。
冒険者だった頃のものだろう。
腰にも古い剣の鞘がある。装備としてではなく、習慣として持っているように見えた。
「お前らか、ルナが言っていたのは」
「リクとセナです。雑用に来ました」
「グレスだ」
グレスは椅子から立ち上がり、奥の倉庫を顎で示した。
倉庫には僕たちと同じ見習いがすでに5人いた。
12〜14歳くらい。年は近い。
1人が小声で話しかけてくる。
「ノエル。北の漁村から」
「リク。ミルヴァ村から」
「セナ。同じく」
ノエルは僕より少し背が低い。痩せていた。ただ、腕の筋だけはしっかりしている。
他の1人は王都の貧民街から来たとノエルが教えてくれた。2人は近隣の村から、残りの1人は出身を言わない。
ギルドはどこの出身でも受け入れる。受け入れた後で、合うか合わないかを見極める。
村ではみんな顔見知りだった。ここでは知らない子供が並んで座っている。
それがテルナ町。
「今日は倉庫の棚卸しだ」
グレスが言う。
「昨日入った納品物の数と台帳を照合する。場所がずれてるものは正しい棚に戻す。終わったら声をかけろ。以上」
それだけ言ってグレスは入り口の椅子に戻った。
監視はしているが、口は出さない構えだった。
渡された台帳に目を通すと数百品目が並んでいる。
武具、薬、保存食、布、消耗品。
ノエルが「多いね」と小声で言った。
セナが僕を見る。
「どこから始めようか?」
「端から順に」
「うん」
僕たちは手分けして、棚の一番奥から品物を確認していった。
台帳の品目に印を付けながら個数を確かめる。
ずれているものを正しい棚に戻す。
繰り返す。
棚の番号が頭に入ってくると、次に何があるか見る前に想像がつくようになった。
3列目の右側は薬類、4列目は保存食、5列目から武具。番号と種類が頭の中で1対1で対応する。
——書類仕事は構造が見えると速くなる。
なぜそれを知っているのかは思い出せない。ただ、体は知っていた。
セナがそれに気づいた。
「リク、棚の場所覚えるの早いね」
「セナの数え方も早いよ」
「私は単純に数えてるだけ」
「それが早い」
それ以上の話はせず手を動かす。
作業が終わったのは3時間後。
他の見習いたちはまだ途中だ。
半分くらいの棚にしか印が付いていない子もいる。
グレスへ作業完了を報告に行った。
グレスが台帳を1枚ずつめくる。指の動きが慣れている。
何年もこの仕事を見てきた人の指だ。
最後の頁まで確認するとグレスは台帳を閉じた。
「ご苦労だった」
それだけ。
ただ、僕とセナを少しだけ長く見ていた。
何を見ていたのかは分からなかった。
倉庫を出る時、ノエルがこちらをちらっと見た。
特に何も言わない。ただ、見ていた。
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昼飯を食べに外に出た。
ギルドの近くには屋台が3軒あった。
朝はスープの屋台に行ったので昼は別の屋台にすることにした。
1番客が多いところを選んだ。客が多い店は味と値段のバランスが取れている。
スープと黒パン、それと小さな焼き魚が2人分で銅貨1枚だった。
路地の縁に腰かけて2人で食べる。
焼き魚は塩気が強かった。村では魚はあまり食べなかった。
「今日だけで銅貨20枚か」
セナが言った。
「うん」
頭の中で数字を並べる。
村では1週間くらい畑を手伝って銅貨5枚程度。テルナはそれより全体的に高い。
雑用1日で銅貨10枚もらえる。
「宿が1日10枚、飯が3枚」
指で数を立てる。
「1週間で——90枚ちょっと」
セナは聞きながらスープを混ぜている。
「雑用が2人で1日20枚。週で140枚」
「差は50枚?」
「うん。でも仕事のない日もあるし、雑費を引いたら——」
セナがスープを混ぜていた手を止めた。
「ほとんど残らない」
「そう」
「……村とは違うね」
「うん」
セナが小さく息を吐く。
「リク、計算早いね」
「ただ並べてるだけ」
——別の世界でも、これくらいの計算は毎日していた。
その感覚がまた来る。
出所はわからない。ただ、家賃と食費を月単位で並べる手順が体に染みついていた。
セナには言わなかった。
「叔母さんに会えたこと、父さんに手紙で伝えた方がいいかな」
「うん。絶対伝えた方がいい」
セナが言い切る。
「叔母さんが村にいる時の話、父さんから聞いたことある?」
「ない。聞いたことない」
「私も聞いたことない。だからこそ伝えた方がいい。父さん、知らないままだよ」
僕は黒パンをちぎってスープに浸した。
浸したパンが柔らかくなってから口に運ぶ。
村でも同じ食べ方をしていた。
「……母さんへの薬、どこから当たる?」
「ギルドの薬師か、町の医者。叔母さんにも教えてもらえるかも」
「まず叔母さんに聞こう」
「うん」
「順番、決めとく?」
「まずはギルドの薬師、それから町の医者と薬師。必要があれば離れた町」
「離れた町ってどこ」
「叔母さんに聞かないと分からない。今日はまず、町の医者の場所を地図に書き込もう」
「うん」
セナが地図を出し、僕がペンを持つ。
ギルドの位置はもう書き込んである。
医者の位置を聞き込みで埋めていけばいい。それが今週の予定だった。
間があった。
セナが残りの黒パンをちぎる。
「リク、テルナに来てから落ち着いてるよね」
「そうかな」
「うん。村にいた時よりなんか動きが早い」
「……そうかも」
自分でもその感じはあった。
歩く速度。判断の速度。優先順位の付け方。
村ではそれほど意識しなかった。ここでは必要だ。
必要になるとどこからか出てくる。
出てくる場所は思い出せない。
僕は答えを濁した。
セナは追って聞いてこなかった。
聞いても答えが出ないことをたぶん見抜いていた。
午後はもう一度ギルドに戻る。グレスから次の指示を聞く予定だった。
食事を終えて立ち上がる。
路地の縁に置いた皿を屋台に返した。
セナの足音と僕の足音がまた同じ歩幅で重なる。
1週間の旅で合うようになった歩幅は町に着いても合ったままだ。
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午後の雑用はギルドの掲示板の張り替えだった。
依頼書を1枚ずつ確認して、期日が過ぎたものを外し、新しいものに差し替える。
グレスは「考えるな、決まった通りにやれ」と言った。
僕とセナは2人で掲示板の前を1時間ほどかけて整えた。
作業が終わるとグレスが小さな革袋を渡してきた。
中で銅貨が触れ合う音がする。
「2人分。20枚」
「ありがとうございます」
セナが袋を受け取り、宿で分けると言って袋を腰に括る。
報酬を渡すと、グレスは奥へ歩いていった。
夕方、宿に戻った。
東向きの窓に橙色の光が斜めに差している。
ベッドに荷物を下ろしてから僕は机に向かう。
持ってきた小さなノートを開き、今日のことを書く。
——書類のサイン手順/棚の番号と種類/屋台3軒の場所/ルナの忠告/グレスの観察。
5項目を行を変えて書いた。
村にいた頃から続けている習慣だ。
書く時は手の動きに任せる。考えるとかえって出てこない。
セナが下のベッドから僕を見ていた。
「……それ、何書いてるの?」
「今日のこと」
「全部?」
「忘れそうなところだけ」
「……変なリク」
セナは笑っていた。馬鹿にしてはいない。
ノートを閉じる前に、もう1行だけ書き足した。
——マルセル、奢られる前にサインしていた。
書いた手が止まった。
理由を考えるのは今日はやめておく。
ランプを消すと、セナが下の段から小さく言った。
「リク」
「ん?」
「ありがとう。今日、決めてくれて」
「……何を?」
「全部」
セナの声がそれきり聞こえなくなった。
寝たのか、寝たふりをしているのか、僕には分からなかった。
1日目の終わり。




