第116話「六歳の夜」
この十日あまりは同じ日が続いた。
朝は掲示板の前に並ぶ。
昼は街道の草を踏み、夕方には二人で宿の戸をくぐる。
汁が塩辛いとか、通りに日除けが出たとか。
その手の話は元に戻っている。
宿の裏の空き地でセナが言いかけたことの続きだけがまだ来ない。
商会の手伝いにはあいだに二度通った。
為替の控えはノートに挟んである。
銀貨5枚の分が紙一枚の厚みになって、表紙の角を浮かせていた。
今日は街道沿いの見回りで、昼過ぎには終わった。
精算を済ませて四つ角まで戻り、待っていたセナと宿まで並んで歩いた。
通りには打ち水の跡が残って、石の色が半分だけ濃い。
初夏の入りで日が長く、宿に着いても日はまだ屋根の上にある。
宿の日除けの布が風で膨らんでは戻っている。
布の影が戸口の段まで来ていた。
戸をくぐると土間はもう暗い。
セナが先に階段へ回って、そのまま上がっていった。
三階まで上がっていく音を、二階の戸の前で聞いた。
戸を開けて荷を解く。
刃を四本、布ごと卓の隅へ置いた。
狼の日のあとに重さを揃え直した四本だ。
短剣を腰から外して壁の釘へ掛け、上着をその上から重ねた。
窓の外はまだ明るい。
通りの声が下から上がってくる。
荷車の輪が石を叩いて過ぎた。
下りる前に一度、上の階へ耳をやった。床板は鳴らない。
階段を下りると土間の奥から魚を焼く匂いが来た。
---
広間の窓から夕日が入り、卓の脚まで届いていた。
昼の客の椅子はもう戻されている。
卓の上は拭いたあとがまだ乾いていない。
今日は魚の汁だった。
椀が二つ置かれて、湯気が同じ高さで立っている。
セナは先に匙を取っていた。
「今日の草、もう乾いてたね」
「うん。踏むと鳴った」
「夏だね、もう」
セナが匙を口へ運んで椀の縁に戻す。
僕は汁を吸った。熱さは昨日と変わらない。
骨の細い魚が椀の底に沈んでいる。
戸口に近い卓で泊まりの客が二人、荷の話をしている。
厨房から鍋を洗う水の音が続いていた。
セナがパンをちぎって椀の中へ落とした。
沈んだ端を匙で押さえる手つきは去年と変わらない。
だんだんと窓の明るさが薄くなり、宿の主が広間の灯りに火を入れた。
卓の木目が灯りの側から順に浮いてくる。
外の通りで戸を閉める音が端の方から順に上がってきた。
セナの椀が先に空になった。
匙を椀の中へ入れて、両手を卓の上に置く。
いつもなら、そこで盆を重ねて立つ。
宿の主が来てセナの椀だけ盆に載せていった。
「ごちそうさま」
セナが宿の主の背中へ言った。
声はいつもの高さだ。
宿の主は頷いて次の卓へ回っていく。
僕の椀にはまだ汁が残っている。
匙で魚の骨を椀の縁へ寄せた。
骨は椀の縁に並んで、汁が下がった分だけ白く見える。
卓の端の瓶をセナが取った。
杯を二つ引き寄せて水を注ぐ。
一つを僕の椀の横へ置いて、一つは自分の手の中に残した。
杯の水に灯りが映っている。
注いだあとの揺れが収まるまで、セナは杯を見ていた。
セナの手が杯から離れて卓の上に置かれる。
指が木目に沿って一度動いて止まった。
爪の先が木目の溝に入っている。
「……リク。私、しばらく離れるね」
明るい声だった。
いつもの朝に、行こ、と言う高さだ。
「空き地で言いかけたやつ。……これだよ」
匙を持った手が椀の上で止まった。
匙の先から汁が一滴、椀へ落ちる。
「……わかった」
「驚かないんだね」
セナは笑っている。その目は僕の手元にあった。
口の端が上がっている。昼に街道で草の話をした時の口だ。
「急に、ごめんね」
「ううん」
「……どこ行くか、聞かないの?」
匙を椀の中へ戻した。
音は小さく、卓に吸われて消えた。
「……聞いてほしくないんじゃないの?」
火が芯の上で揺れて卓の影が伸びる。
セナの指はまだ木目の上にある。
爪は溝に入ったまま動かない。
「……一度村に帰るんだ。お母さんのところで、魔法を一から習い直す」
僕は卓の縁に手を置いた。
木の角が手のひらに当たる。
角は昼の間に日を吸ってまだ温い。
「先に手紙を出してあるんだ」
セナが杯を持ち上げて、口をつけずに戻す。
杯の底が木目の上で小さく鳴った。
笑っている口と動かない指が同じ体にある。
厨房の水の音が止んだ。
戸口の客が荷の話をやめて椅子を引く。
灯りの油が芯を伝う音がした。
宿の主が戻ってきて、僕の椀を見た。
「済んだか」
「……はい」
汁の残った椀が盆に載って、匙ごと厨房へ運ばれていく。
卓の上には杯が二つと汁の輪が残った。
しばらく、の続きは来なかった。
いつまで、はセナの口から出てこない。
出てこないまま笑った顔が僕の方へ向いた。
結び目の高さはいつもと同じだ。
垂れた端が、椀のあった辺りの卓へ影を落としている。
セナが自分の杯の水を一口飲んだ。
杯を置く音が小さく鳴る。
「……なんで?」
声は出た。
自分の声より低く聞こえた。
セナは灯りの方を見た。
芯の先で火が一度伸びて元の高さに戻る。
火の色がセナの目で小さく揺れた。
「ここにいるとさ。……私、赦されてばっかりになるんだ」
赦す、の字が頭の中で置き場を探してどこにも収まらない。
誰が、誰を。
問いは浮かんだ。声にはならなかった。
セナが息を吸った。
吸った分を言葉にしないでそのまま吐く。
吐く息で灯りは揺れなかった。
「……うまく言えない。ごめん」
ごめん、は今日二度目だ。
それきりセナは口を閉じた。
セナが杯を両手で包んだ。
手の甲に灯りが当たって、指の付け根が白い。
虫の声が窓の隙間から入ってくる。
一匹が鳴いて、間を置いて別の一匹が続いた。
戸口の客が席を立って階段の方へ行った。
段を踏む音が上がっていって二階で戸が閉まる。
広間に残ったのは僕らと灯りだ。
帳場で宿の主が灯りを一つ落とした。
広間の灯りは残してある。
それから表の戸へ横木を渡す音がした。
横木が受けに落ちる音は、この宿に来た頃から変わらない。
毎晩この音のあとに二階へ上がる。
今夜はまだ卓にいる。
宿の主は僕らを見ないで帳場の奥へ入っていった。
火の熱が顔の片側に当たっている。
虫の声は途切れずに続いていた。
セナの目はまだ灯りにある。
火を見ている目は、掲示板の紙を読む時のように動かない。
セナの指が木目の溝から抜けた。
抜けた指は卓の上で組まれて、それきりになる。
組んだ指の間で、杯の水が明るい。
問い返す言葉は出てこない。
なんで、の先にある言葉を探しても、どれも短すぎた。
卓の縁を握った指に木の角が食い込んでいる。
セナの目が火から戻ってきて、僕の顔で止まった。
火が揺れて、セナの頬の影が伸びて縮む。
卓の縁に手を置いたままセナを見つめる。
息を吸って吐いた。
火は芯の上で丸いままだ。
セナの口が少し開いた。
開いたまま、声になるまでに間があった。
「その顔。……六歳の頃も、してた」
自分の顔は見えない。
鏡はない。頬に手をやることもしなかった。
六歳。
その頃の自分がどんな顔をしていたか、僕は知らない。
知らない顔を、セナは今も見ている。
卓の向こうでまばたきが一度あった。
瞼が下りて上がるまでのあいだも、顔の向きは変わらない。
目はそのまま僕の所にある。
セナはそれ以上言わなかった。
口は閉じて目だけが僕の顔に残っている。
その先を待った。
待つ間に厨房の火が落とされて、魚の匂いが薄くなった。
灯りの芯が小さく鳴った。
厨房の奥で鍋を伏せる音が一度して、それきりになる。
セナの目は動かない。
見ているというより、置いてある目だった。
目の中で火が二つ、同じ向きに揺れている。
僕はその目を受けている。
わかった、以外の言い方が浮かばない。
顔がどう動いているのかはやはり分からない。
僕の指はまだ卓の縁にある。
木の角の温さは、もう手のひらと同じになっていた。
組んだままのセナの手が卓を滑って、杯に当たった。
水が揺れて、映りが崩れてまた戻る。
僕の杯は注いだ高さのままだ。
セナの杯は一口飲んだ分だけ面が低い。
灯りの映りは二つとも同じ大きさで、揺れていない。
椀のあった場所に汁の輪が薄く残っている。
火がその輪を照らして木目の色を濃くしていた。
輪は二つ、向かい合って乾いていく。
セナの肩が呼吸に合わせて上がって下りる。
上がる時より下りる時が長い。
長い息をセナが吐いた。
目がゆっくり僕の顔から離れて卓の木目へ落ちる。
指が木目を一度なぞった。
「上がろっか」
声はさっきの高さに戻っていた。
セナが立って椅子を卓の下へ戻す。
椅子の脚が床を擦る音が広間に長く残った。
僕も立った。
杯は二つとも卓に残す。
広間を出る時、汁の輪はまだ卓の上で乾ききっていなかった。
---
灯りのない階段を並んで上がる。
軋む段は二人とも踏まずに越えた。
そのあいだ、どちらも何も言わない。
段の軋みは冬より乾いた音になっている。
初夏の板は湿りを持っていない。
雪の夜に上がった時と同じ段だ。
今夜はセナの右手が手すりに触れている。
指は段ごとに一度離れて、また木に戻った。
二階の廊下でセナが足を止めた。
上へ続く段の口でこちらへ体ごと向き直る。
僕の戸の前に灯りが一つ点いている。
その明かりが廊下の半分まで届いてセナの顔の片側だけを照らしていた。
雪の夜には見えなかった顔が、今夜は半分だけ見える。
見える側の口は笑っていない。
廊下の板が足の下で一度鳴った。
セナの足の下は鳴らない。
セナは段の一段目に足を掛けたままでいる。
手すりに掛けた手が木の端を握っている。
「リクは、絶対大丈夫だよ」
おやすみ、が出てこない。
口は開いた。息だけが通った。
セナは返事を待たなかった。
待たないのに、二段目に足が掛かるまでが長かった。
手すりを握った手が先に上へ行って、足が後から続く。
段を上がる音が三階へ消える。
上で戸の閉まる音がした。
小ささはいつもと同じだ。
僕は廊下に立ったままでいた。
戸の前の灯りが足元まで影を落としている。
影の先は上へ続く段の一段目に掛かっていた。
段の上は暗い。
暗さの奥で床板が一度だけ鳴った。
戸を開けるまでに廊下の灯りが一度揺れた。
---
部屋に入って灯りに火を入れた。
卓に着いて手を置く。
刃の包みは隅に置いたままだ。
通りの音はもうない。
宿で動いているのは上の階だけだ。
床板の上から音が下りてきた。
革紐を引いて締める音だ。
一度で締まらず、引き直してまた鳴る。
次は荷の底へ重い物を入れる音。
布越しに硬い物が当たって板を鳴らした。
その上に軽い物が重なる音が続く。
音は上の階から床板を越えて下りてくる。
この三年、夜にこの音を聞いた事はなかった。
重い物を底に入れるのは、長く背負う荷の詰め方だ。
夜のうちに紐を締めるのは、朝に手を掛けない荷だ。
音だけで、朝が早い荷だと分かってしまう。
僕は立たなかった。
天井を見て、それから戸を見る。
戸を叩きには行かない。
火は卓の上で丸く止まっている。
上着を掛けた釘の影が壁で長く伸びていた。
上の音が止んだ。
止んだ間に通りで犬が一度吠えた。
それからまた革紐が鳴る。
締める音は最初より短い。
締め直す所が減ってきている。
(明日、見送る)
それだけ決めて灯りの火を吹いた。
闇が来る。
上の音はまだ続いていた。
革紐がもう一度、板の向こうで鳴った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




