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第115話「黒い点」

今日は依頼のない日になった。


いつもなら朝のうちにはギルドの門をくぐっている。

今朝はその時間に目を覚ました。

一日を刃と装備の手入れに使うことにした。


午前は革の物を先に片づけた。

泥を落とした靴と上着を、乾くまで窓の縁に並べておく。


昼を過ぎる頃には窓の光が卓上を横へ滑っていく。

窓を開けると宿の裏から物音がときどき上がってくる。


僕は卓に布を広げて、刃を四本並べた。

短剣は腰から外して壁の釘に掛けてある。


狼の脚に入った一本は刃の先がわずかに鈍っている。

光に向けると鈍った所だけが白く見えた。


先を落とせば、この一本だけが軽くなる。

落とす分を見込んで、ほかの三本の柄尻を削って下へ合わせる。


やすりを柄尻に当てると粉が布の上へ落ちた。

削っては手のひらに載せて比べる。

重さは手のひらで決める。


ノートは卓の端に閉じて置いてある。

炭はその上に横にしてある。


窓の下から砥石の音が上がってきた。

石の上を鉄が滑る音だ。往復ごとに間がある。

この音を昼に聞くのは初めてだった。


僕は刃を布ごと包み、やすりと一緒に持って階段を下りた。


---


裏口の戸は開いていて、夕方へ向かう光が土間の奥まで入っている。


井戸の脇の空き地はあの夜と変わらない。

薪割りの台、二段の石段、塀際の木。

木の花は葉に入れ替わって、その葉が光を透かしている。


薪割りの台の前にセナが腰を下ろして剣を研いでいた。

台の上に砥石があり、脇に水を張った椀がある。

杖は塀に立てかけてあった。


「リク。なにかあった?」

「いや、なにも。部屋にいたら音が聞こえてたから」

「そろそろ研ごうと思って。狼で刃が鈍ったし」


セナは顔を上げずに言った。

刃を寝かせて石の上を手前へ引く。


僕は石段に座って布を広げた。


「リクも?」

「重さを合わせ直すだけ。狼に刺さったのが鈍ってて」

「あれ、脚に入ったやつ」

「そう。先を落とすと軽くなるから、残り三本も柄を削って合わせるんだ」


砥石の音とやすりの音が交互に鳴る。

石段の上で刃の粉が布に溜まっていく。

塀の上を風が渡って木の葉が鳴った。


「暑くなったね」

「うん、昼はもう上着がいらないね」

「宿の前、日除けの布が出てたよ」

「早いね。まだ夏の前なのに」


セナは小さく笑って砥石に水を足した。


研ぐ手は同じ速さで続いている。

刃が戻る間だけ、結んだ髪の先が肩で揺れた。


セナが研ぎ終えた剣を持ち上げて刃を光に向けた。

光が刃の上を走って先で止まる。


「見て」


剣が柄の側から差し出された。

僕はやすりを置いて受け取る。


刃を目の高さに上げて峰の側から光を当てた。

研ぎ目はそろっている。

先の方に返しが薄く残っていた。


「先に返しが残ってる。寝かせて撫でるくらいで取れるよ」

「どのあたり」

「先の方。指で触ると引っかかる所」


セナが刃の先に指の腹を当てて頷いた。

剣を受け取って、また石の上へ寝かせる。

今度は往復が短い。


何度か引いて、また僕へ差し出した。


刃の先を指でなぞる。

引っかかりは取れていた。


「これでいい?」

「うん。いい感じ」


セナは剣を受け取ると布で刃を拭いた。

左手を鞘に添えて腰へ収めると、刃が鞘の底に着く音がした。

それから椀の水を塀際へ捨て、砥石を台の端へ寄せた。


僕はやすりを取り直した。

柄尻に当てる。粉が落ちる。


会話は途切れ、やすりの音だけが空き地に残る。


「リク、聞かなくなったね」


やすりが柄尻の上で止まった。


吸いかけた息が胸の途中で止まった。

やすりの音が消えて、通りの声が塀を越えて戻ってくる。


声はいつもの高さだった。

日除けの布を言うのと同じ高さで、同じ速さだった。


セナは台の砥石を見たままだ。

濡れた面から水が一滴、台の板へ落ちた。

水の跳ねる音がしてそれきりになった。


セナの手は膝の上にある。

研ぎ終えた指に、砥石の水が乾いて白い跡になっていた。

指は動かない。跡もそのままだ。

剣は腰にあって、柄が膝の横で光を返している。


やすりを持った指が柄尻の形のまま止まっている。

布の上の粉に風が当たって、端から流れた。


四本の刃は同じ向きに並んでいる。

狼に入った刃の先だけが白く見える。


息を吐こうとして、喉が鳴った。

石段の縁へ手を下ろす。


日が塀の縁に掛かり、空き地の半分が影になる。

塀の上で葉が鳴って、止んだ。

井戸の方で桶の縄が軋んだ。


セナが砥石を布で拭いて、そのまま包んだ。

包み終えた手が膝の上に戻る。

セナの目は結び目にある。


「……ずっと、言おうと思ってたんだ」


それだけだった。


セナは膝の上で包みの端を指で押さえている。

夕方の風が空き地を抜けて、押さえていない側の端が持ち上がった。

塀の影が台の脚まで来ている。


腰の剣は鞘の中で動かない。

さっきまで鞘に添えられていた左手は、今は包みの上にある。


塀の上を燕が低く抜けていった。

間を置いて、次の燕が続く。

セナの目は塀の上に留まったままだ。

燕の声が塀の向こうへ落ちて、通りの声だけが残った。


いつから、が喉の手前にある。

口の中で止まったまま出てこない。


夜に剣を振る理由と、依頼に剣を持ち出す理由。先に戻る理由。

聞く形の言葉が順に浮かんで、どれも同じ所で止まった。

どれも声に出せば短い長さだ。


僕の目は布に広げた刃にある。

刃先の鈍りが光の中で白い。

喉の手前はそのままだ。


やすりの柄を握り直す。握った所は汗で湿っていた。


やすりの先を布に広げた刃へ近づけた。

柄尻に届く前に手が止まった。


セナは包みを膝に置いたまま塀の上の葉を見ている。

横顔はいつもと変わらない。口は閉じている。

呼吸に合わせて肩がゆっくり上がって下りる。


空き地の光が塀の上へ寄って、台の板の色が濃くなった。

塀の上の葉だけがまだ日を受けている。


セナが息を吐いた。


膝の包みと、腰の鞘と、塀の上の葉。

セナの目が順にそこへ行って、膝の包みへ戻った。

指が包みの端を折った。折り目は浅い。


塀の影が伸びて砥石の包みまで届いた。


塀の向こうで通りの荷車が過ぎていく。

輪の音が遠くなって、それから風になった。

荷車のあとは、通りの声も間遠になった。


石段の縁を握った指に、石の粗さが当たっている。

土に落ちた砥石の水の跡が、端から色を薄くしていく。


刃の粉が布の上で風に寄って端に薄く溜まっている。

布の上の刃に影が届いて、先の白い所が影の中で消えた。


手の中のやすりが重い。

狼の脚に入った刃は、まだ布の上で先を鈍らせたままだ。


ふと、部屋の卓に置いたままのノートを思い浮かべた。

炭の字で、依頼の行と数字の欄が並んでいる。


頭の中でページを繰った。

油の減りと、狼の頭数。宿代と天気と坑の歩数。

買い足した炭の本数まで、行の終わりに数で入っている。


三年、こうして埋めてきた。

どの日にも行がある。

依頼のない日は、依頼がなかったと書いてある。


輪の数の欄がある。剣の癖の欄がある。

セナの振りの癖も、次にどこへ流れるかまで書いてある。


狼の日。

林の場所と頭数と、骨のあった路肩が書いてある。

その夜は輪の数を古い行と並べて見た。

数はどこも同じだった。


届け物の日。

小屋と留め具の数が書いてある。

振りが止まった夜の行は、それで終わっている。


冬の坑。雪の空き地。

石段でセナの振りを見た夜の行は、雪の深さと風の向きだ。


どの行の終わりにも数がある。

狼なら頭数と林までの道のりだ。

坑なら歩数と灯りの油だ。


頭の中のページは指で繰る時より速く戻る。

どの行も炭の濃さまで見えた。

狼の日の字はまだ角が立っていて、冬の空き地の字は角がぼやけている。


聞いた日を探す。

セナに何かを聞いた日の行を探す。


行はどれも数で終わっている。

聞いた日の行も、聞かなかった日の行も、同じ欄に同じ字で並んでいる。

紙に載っているのは数と場所だ。


狼の日の行をまた見る。

頭数の横に林の場所。その横に骨の路肩。

行の終わりは報酬の額で、その先は翌日の行だ。


届け物の日の行も、その先は狼の日へ続く。

間の日は、依頼がなかった、の字で埋まっている。


戻り続けるとページは最初の紙に着く。

そこにも同じ並びの行がある。

炭を持って卓に向かった夜は、どの夜も欠けずに行になっている。


その日付が要る。

ページをどれだけ戻しても、欄にあるのは狼と坑と宿代だ。


今日のページまで送る。

欄の頭はまだ白い。

白い所は上の行より広く空いている。


井戸の脇で桶を置く音がした。

音は空き地の端で鳴って遠くなる。


やすりの柄が手の中で冷えている。

柄尻の粉が指の腹に乾いて貼りついていた。


日が塀の上に細く残っている。

空き地の光が黄色くなって、台に残った水の跡は乾いている。


セナは膝の包みを見ていて、僕は手の中のやすりを見ていた。

手はどちらも置いた所にある。

塀の上で葉がひとしきり鳴って、また止んだ。

影は石段の二段目に届いている。


塀の向こうの通りで戸を閉める音がした。

宿の厨房から鍋の蓋を開ける音が続く。


セナが立ち上がり、塀に立てかけた杖を取って背へ回す。

杖の先が塀際の葉に触れて葉が揺れた。

砥石の包みを脇に抱えた。


「ごはん、行こ」


セナが石段まで来た。

二段を上がって僕の横で止まる。


僕は布で刃を包んで立った。

戸口までの土に二人分の影が並んで伸びている。


セナの肩と僕の肩が、戸の枠の内側を同時に抜けた。

土間の奥から豆の匂いが流れてきた。


---


広間には昼の客の椅子がまだ乱れたまま残っている。

窓の光はもう卓の脚まで下りている。


宿の主が椀を運んできて卓の上に置いた。


「今日は出なかったのか」

「休み。刃を研いでた」


セナが答えて杖を椅子の脚に立てかけ、匙を取る。

宿の主は頷いて、次の卓へ盆を運んでいった。


「今日も塩、強いね」


セナは匙を口へ運びながら言った。

僕は匙を持ち上げた。

汁は昨日と同じ熱さだった。


セナはパンを割って汁に浸した。

隣の卓で泊まりの客が椀を鳴らしている。

帳場の方で宿の主が薪を足す音がする。


椀が空になるとセナが盆を重ねて立った。

階段の方へ向かう背中で杖の先が揺れている。


部屋に戻ると窓の外はまだ明るさを残していた。

日が落ちてから暗くなるまでに、この時期は間がある。


灯りには火を入れず、窓に近い卓に着いた。

布に包んだ刃を卓の隅へ置く。


包みの中で刃が鳴った。

狼の刃は先を鈍らせたまま、ほかの三本と並んでいる。

短剣は壁の釘に掛けたままだ。


ノートを開き炭を手に取る。


表紙は手の脂で黒ずんでいる。

開くと綴じの糸が鳴った。


今日の欄は空いている。

上の行は昨日の分で、依頼がなかったと書いてある。


炭の先を紙に近づけた。

先が紙に触れる。

触れた所に小さな黒い点が残った。


炭を紙から離した。

点は今日の欄の頭にある。

点の横は白いままだ。

昨日までの字が、白い所の上で濃く見える。


階下で宿の主が戸を閉める音がした。

窓の残り明かりが紙の上で薄くなっていく。

字の黒が紙の白に、見ているうちに溶けていった。


点が見えなくなる前にページの端を指で押さえた。

そのままノートを閉じる。

開いた時と同じに、綴じの糸が鳴った。


炭を握ったまま閉じた表紙に手を載せる。

窓の外の葉がまだ揺れている。


表紙の下に、今日の欄の黒い点がある。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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