第117話「見送り」
窓の外が青い。
屋根の向こうの空が端から白くなりかけている。
上の階の音はもう止んでいる。
革紐が鳴って、間が空いて、また鳴った。
それが夜のあいだ続いた。
最後にひとつ鳴って、板は鳴らなくなった。
夕べ、セナは離れると言った。
行き先もそのとき聞いた。
いつ発つかだけは聞いていない。
横になって、起きて、寝台の縁に座った。
上の階では、もう寝台の軋む音はしなかった。
板が一度踏まれて、そこで止まった。
何度か座る所を変えている間に朝になった。
通りには夜の静けさが残っていて、風が窓の枠を撫でている。
決めてあるのは見送ることだけだ。
段を下りる音が来て、僕の階の廊下を通り過ぎた。
戸の前で速さは変わらない。
そのまま下へ続く段へ入り、音が土間の方へ落ちていった。
立つと床板が鳴った。
靴の底から冷えが上がってくる。
戸を開けて廊下へ出る。
上へ続く段は暗い。下へ続く段には土間の明るさが薄く届いている。
音の出ない端を選んで下りた。
段の途中で土間の冷えが足首に触れる。
手すりの木は夜の湿りを持っていた。
---
土間に下りると旅装のセナがいた。
表の戸の横木を外して戸を半分だけ開けた所に立っている。
外の青が土間の半分まで入っていた。
上着の襟を立てている。
背の荷物が肩の上まで来ている。
革紐の余った端は結んで荷物の内側へ入れてある。
水筒が荷の横で紐に吊るしてある。
布に包んだ物が荷の上に平らに載っている。
セナは待っていたかのような顔でこちらを見た。
「……起こしちゃった?」
「起きてた」
「そっか」
セナの目が僕の腰へ下りて上がった。
「短剣、置いてきたの?」
「門までだから」
「そっか」
セナが戸を全部開けた。
朝の匂いが冷えたまま土間へ入ってくる。
「見送るよ」
「うん」
セナは段を下りて通りへ出た。
僕は横木を戸の内側へ立てかけ、戸を元の幅まで引いてあとに続く。
帳場は暗い。薪の匂いが残っていた。
通りの石は夜露で濡れている。
日除けの布はまだ軒に巻き上げてあった。
セナの靴が石を踏み、僕の靴が続く。
歩幅が合っている。
あの朝と同じ幅で石の上に靴の音が二つ揃う。
井戸の前で桶を持った女が僕らを見て目を戻した。
パン屋の煙突から煙が上がっている。
「パン屋、もう火が入ってるね」
「朝が早い店だから」
「そっか。……いい匂い」
声は昨日の卓と同じ軽さだ。
荷の紐がセナの肩で歩くたびに小さく鳴る。
「リク、上着それで足りる?」
「昼は暑くなるから」
「うん。今日は晴れそう」
セナが肩の紐を片方ずつ掛け直す。
荷が背中で沈んで、収まった。
「宿の人、まだ起きてなかったね」
「薪の音もしなかった」
「そっか。……朝ごはん、ちゃんと食べてね」
「うん」
「ナギ達には、何か伝える?」
「ううん、大丈夫。……ルカさん達には、よろしくって伝えておいて」
「うん。わかった」
通りの先で荷馬車の輪が石を叩き始めた。
セナがその音の方へ顔を向けて、また前を向く。
ギルドへ上がる坂と宿への通りが分かれる四つ角に来た。
セナは足を緩めずに抜けた。
分かれる方の道へは、どちらの足も向かない。
通りの角を曲がると道が広くなる。
荷馬車が並んで西の門の方へ向かっていた。
朝の光はまだ屋根の上にあって、道には届いていない。
西の門は開いたばかりだ。
門番が横木を脇へ寄せて荷馬車を順に通している。馬の息が白い。
門番は荷馬車の方を見ていて、歩いて抜ける僕らには目をやらなかった。
僕らは荷馬車の脇を抜けた。
門をくぐる時、セナの荷が僕の肩に触れて離れた。
門の外で石畳が切れて砂利になる。靴裏の音が変わった。
朝日が背中に当たった。
二人の影が門の外へ長く伸びて、砂利の上で並んでいる。
道の両側の草は乾いていて、風が通ると鳴った。
昨日踏んだ街道沿いの草の音だ。
荷馬車の列はここで間を空けて道の先へ散っていく。
街道口でセナが止まった。
荷馬車が横を過ぎていく。
輪が砂利を噛んで音が道の先へ遠くなった。
セナは道の先を見ている。
砂利の道は先で細くなって、日の当たらない所へ入っていく。
影が砂利の上で前へ伸びて道の先へ続いていた。
荷の紐に掛けた手が肩の所で止まっている。
「ここまででいいよ」
声はパン屋の煙を言った時の軽さと同じ。
セナは道の先を見たまま言って、それから僕の方へ体を向けた。
荷が肩で回って革紐が鳴る。
止まっていた足が動いた。
右足が砂利を踏んで、セナの靴の先より前へ半歩出た。
「来ないで」
まっすぐな声だった。
僕の足が止まる。
右足は砂利の上に出たままだ。
セナの顔を見た。
生まれてからずっと見てきた顔だ。
笑う時の口の端も、抑える時の目の伏せ方も、怒った時の眉の寄り方も知っている。
昨日の卓で笑った口も、廊下で半分だけ見えた口も知っている。
その顔に何も読めない。
目は僕を見ていて、口は閉じている。
頬に力は入っていない。
目と口だけがいつもの形のまま。
右足の下で砂利が沈んでいる。
出した分だけ、戻す場所が遠い。
セナの目線が僕の足元へ下りた。
砂利の上に出た右足を見て、また僕の顔へ上がる。
右足を見た目は、僕の顔に戻ってからも同じ深さのままだ。
風が草を鳴らして止んだ。
セナの襟の後ろで結び目が一度動いた。
次の荷馬車が僕らの横を過ぎた。
御者が二人を見て、道の先へ目線を戻す。
輪の音のあとに砂利の静けさが戻ってくる。
セナの目は僕の顔に置かれたままだ。
口は結んだまま動かない。喉も動かない。
息だけが胸で上がって下りていた。
吸う時に荷の紐が肩で伸びて、吐く時に緩む。
紐の動きが僕に見えるものの全部だった。
僕の手は体の横で握られている。
握ったことに気づいたのはセナの目が離れてからだ。
セナは僕の目を見たまま荷の紐に手を掛けた。
剣の柄が上着の裾に触れて小さく鳴った。
そのまま背を向けると髪の先が回って、僕の方へ来て、離れた。
荷の底が揺れて革紐が張る。
最初の一歩で砂利が鳴り、二歩目からは一定の間で鳴り続けた。
靴が砂利を踏む音が僕から離れていく。
水筒が荷の横で揺れて、紐に当たって鳴った。
セナは振り返らない。
背中の荷と結んだ髪の先が、道の先へ進んでいく。
荷の上の包みが歩くたびに小さく揺れていた。
道の先で荷馬車が間を空けて進んでいる。
歩く人が何人か、その間に散っていた。
セナの背中はそこへ入っていった。
僕は砂利の上に立っている。
右足は出た所にある。
朝日が背中から肩へ上がってくる。
影が短くなって足元へ戻ってきた。
セナの荷が荷馬車の幌に隠れて、また出る。
荷に載った包みの白が、人の背の間で小さくなっていく。
荷馬車がまた僕の横を過ぎた。
巻き上がった土が上着の裾に当たって落ちる。
車輪の音は先の一台より重い。
光が砂利の色を白くする。
石のひとつひとつに影ができて朝の道の色になった。
草の露が乾いて風の音が軽くなる。
セナの背中はまだ見える。
荷の色だけが分かる大きさになった。
道の先は光の中で白くなっている。
人の輪郭が光に溶けて、動いている所が黒い。
荷馬車の御者が声を掛け合って、その声も道の先で薄くなる。
歩く人が横道へ逸れて道が空く。
荷馬車の幌が動いてその先を隠す。
幌が過ぎたあと、道の先には砂利と光があった。
門の方から輪の音が続いてくる。
どの荷馬車も僕の横を過ぎていく。
街道口に立っているのは僕だけになった。
背中の日が暖かい。
上着の中で汗が引いていく。
鳥が道の上を低く渡って草の中へ落ちた。
門番の声が後ろで上がり、次の荷馬車が門を出てくる。
右足を砂利から引いた。
砂利が靴の裏で鳴って元の所へ戻る。
出ていた分の砂利に靴の跡が残って、その上へ日が当たっていた。
門の方へ向き直った。
影は背中の側へ回って、砂利の上に残っている。
---
宿の戸は開いていた。
宿の主が土間に水を撒いている。
「早いな。行ったか」
「……はい」
主は柄杓を桶に戻して、厨房へ入っていった。
土間の水が段の手前で光っている。
段を上がって部屋へ戻る。
壁の釘に短剣が掛かったままだ。
窓の光は卓の手前まで来ている。
卓に着き、ノートを引き寄せて表紙を開く。
表紙が卓に当たって乾いた音がした。
最初の紙まで戻した。
この街へ来た日の行がある。宿代と掲示板の紙の数だ。
字の角が立っていて炭が濃い。
荷の詰め方。重い物を底に入れて、紐は底から通す。
道順の引き方。分かれ道は右の石の数で覚える。
水場の場所。林の手前の沢と集落の井戸。
油の減りで引き返す目安が書いてある。
どれも最初の冬に書いた行だ。
書いた夜のことは覚えている。
セナは向かいで剣を拭いていた。
紐は底から通す。今朝の荷の紐も底から通してあった。
その行を書いた手と、今朝の紐を通した手は別の手だ。
ページの角が指の脂で丸くなっている。
角の丸いページほど、繰る時に指へ吸いつく。
狼の日と坑の日と届け物の日が、同じ幅の行で並んでいる。
数と場所で終わる行が紙の下まで続いている。
古い紙ほど端が波打っていて、送る指に波が伝わる。
字は最初の冬より小さくなり行の数は増えた。
行の終わりの数字はどれも炭で濃く残っていた。
3年分を送っていくと匂いが指に移る。
炭と手の脂と壁の匂いだ。
最初まで戻して、また送った。
荷の直し方は三度出てくる。道順は季節ごとにある。
人を引き留める手順を書いた行は、どのページを送っても出てこなかった。
どのページにも、書いた夜には卓の向かいにセナがいた。
剣を拭く手や汁を吸う音が、行の外にあった。
数と場所は紙に載っている。向かいの席は載っていない。
今日の欄まで送る。
上の行は昨日の見回りで、報酬の額で終わっている。
炭を取って紙に近づける。
あの朝は送り出される側だった。
今日の欄には残った側の書き方がまだない。
炭は紙に触れる手前で止まったままだ。
手を下ろして炭を卓の端へ転がした。
昨日の行の終わりに数字がある。
その下は紙の色だ。
炭の粉が紙の白の上に薄く散っていて、息を吹くと飛んだ。
窓の光が卓の上を横へ滑って、炭の影が短くなる。
通りの声が昼の高さになっていた。
ノートを開いたまま立って水を飲んだ。
瓶の水は朝より温い。
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ギルドの石段を上がる。
掲示板は朝の紙が半分剥がされて、残った端が風で鳴っていた。
窓口の前の列は短い。
街道沿いの見回りの紙を取った。
日付は明日になっている。
窓口にミラさんがいた。
紙を出すとミラさんが二人の名を書く欄を指で押さえた。
「連名の欄です。お名前を」
欄の左側に自分の名を書いた。
右側が空いている。
ペンを持ったまま右側を見た。
三年、この欄には横に名前が並んでいた。
ペンはいつもセナの手から始まって、僕が横に続けた。
「お一人ですね」
「はい」
ミラさんは空いた側をペンで横に消した。
判を取って紙の隅に押す。
判が台に当たる音がして、それで終わった。
「明日中のお戻りで承ります。お気をつけて」
「はい」
控えを受け取った。
紙の隅に判があって、名前の欄は左だけが埋まっている。
空いた側を、ペンの跡が短く横切っていた。
控えを折って上着へ入れた。
ミラさんはもう次の人の紙を見ている。
窓口の判の音が僕の後ろで続いた。
石段を下りると昼の日が正面にある。
控えの紙が上着の中で胸に当たって、歩くたびに角が動いた。
坂の下で四つ角が明るい。
宿への通りへ曲がった。
通りの石は乾いていて朝の夜露はもう見えない。
日除けの布が軒から下りて、その端が石に細い線を落としている。
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夕方、帳場に宿の主が立っていた。
帳簿に何かを書いている。
灯りに火が入って主の手元が黄色い。
帳場の前には泊まりの客が置いた荷が寄せてある。
僕は帳場の前で止まった。
主の手は帳簿の上で動いていて、顔はまだ上がらない。
「夕飯を。……二人——」
途中で止まった。
主の顔が上がる。
「一人分で、お願いします」
主は僕を見て、それから階段の方を見た。
目が上の階へ一度向かい、戻ってくる。
厨房で鍋の蓋が鳴り、主の手が動いた。
「ああ」
主はそう言って帳簿に何か書いた。
書き終えると厨房へ「一つ」と声を通した。
広間の卓に着く。
奥の卓で泊まりの客が明日の道の話をしている。
椀が一つ置かれて湯気が立つ。
向かいの椅子は卓の下に収まっている。
匙の先が骨に当たった。
外して縁へ置く。
戸口の客が椅子を引いて、荷の話が階段の方へ移っていった。
主が広間の奥から順に火を回して、卓の影が伸びる。
椀を空けて盆に載せ階段を上がった。
窓の外が暗くなってから灯心に火を移した。
火を細くして卓に着く。
火は帳場と僕の卓に一つずつある。
天井の板は鳴らない。
窓の外に通りがある。
明かりの落ちた窓が向かいから順に増えていく。
耳の奥にまだ砂利の音がある。
朝の街道口で荷馬車の輪が噛んでいた砂利だ。
それに、革紐が張った時の音。
上着から控えを出して卓に置いた。
名前の欄は左だけが埋まっていて判が隅で乾いている。
ノートの横にその紙を並べた。
控えの上の名前も、ノートの行も、同じ手で書いた字だ。
卓の上にノートが開いたままだ。
今日の欄は白い。昨日の数字の下で、紙の色がそのまま続いている。
通りを人が歩いてきた。
足音が一つ、窓の下を過ぎて遠くなる。
戸を閉める音がもう一つして、通りは静かになった。
どこへ向かったかは知っている。
それでも、追えない。
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