第113話「袖の中」
春の終わりを迎える頃には、朝の戸口を通る空気が暖かくなってきた。
商会で紙を分けた日から一晩が明けた。
宿の土間に吹き込んだ花びらが卓の脚の間を転がっていく。
戸口から入った風が二つの椀の湯気を同じ向きへ倒す。
朝の広間は戸が開くたびに明るくなる。
出て行く客の背で光が切れて、また戻ってくる。
帳場の前を宿の主が盆を三つ重ねて通り過ぎた。
泊まりの男が荷を担ぎ直して、戸口の光の中へ出ていく。
向かいでセナが匙を取った。
髪はもう結い終えていて、杖は椅子の脚に立てかけてある。
「今日はどうする?」
「掲示板を見てから決めるよ。夏の護衛が増えてきた」
「早いね。まだ花も残ってるのに」
セナが窓の外へ顎を向けた。
通りの木は白い花を半分落として、残りが枝の先で揺れている。
汁に浸したパンが縁から崩れる。
豆は昨日と同じ煮方だ。
「街をまたぐ護衛は出る日が先に決まってるから、受けるなら早いほうがいい」
「今日は軽いのがいいな。腕がまだ少し張ってるかも」
セナが匙を持った腕を肩から回した。
回し終えて、パンの残りを二つに割る。
「豆、今日は塩が強いね」
「だね。厨房の人が替わったのかも」
「昨日のは薄かったのにね」
護衛の紙の続きは汁と一緒に飲み込んだ。
セナが割ったパンの片方を僕の椀の縁へ置く。
置いた指がそのまま自分の椀へ戻って、豆を一粒すくった。
窓の外で荷車の輪が石を叩いた。
セナが立って、椅子の脚から杖を取る。
「行こ。紙、取られちゃう」
セナが先に戸口へ向かう。
僕も椀の汁を飲み干して後を追った。
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掲示板の前にはもう朝の人垣ができていた。
護衛の依頼が上の段から下まで増えてきている。
街道沿いの紙は下の隅に二枚だけ残っていた。
一枚は巣払い。もう一枚は届け物。
街道の荷継ぎの小屋へ綴りと替えの留め具を届ける。
戻りは本日中と書いてある。
「今日は届け物にしようか」
「ん。歩くだけでいいね」
セナが紙の縁に指を添え、紙を板から引き抜いた。
板には紙を引き抜いた釘穴が小さく残っている。
窓口の列に並ぶ途中、後ろで紙を握った男が足を組み替えた。
前の男が控えを受け取って、判の音が一つ鳴る。
「リクさん、セナさん。おはようございます」
ミラさんが台を布でひと拭きしてからこちらの紙を受ける。
名前の欄はセナが先に書いて、僕が横に続けた。
「本日中のお戻りですね。お預かりします」
判が紙の上で短く鳴る。
控えの端が切られて僕の手へ戻った。
ミラさんは控えを渡した手をそのまま台の脇へ伸ばした。
綴りの間から折り目のついた紙を一枚引き出す。
「それと、お二人へお知らせが。ジョゼ商会から指名が届いています」
紙が台の上でこちらへ向けられた。
下の端に商会の判がある。
判の縁は紙の折り目に半分掛かっていた。
「依頼は荷の護衛です。便の口利きと武具屋への口添えも商会から言付かっています。
日取りは商会から窓口へ届き次第、宿へ言伝を回します」
名指しの依頼が、これからは途切れずに来る。
「武具屋の口添えというのは、何をしてもらえるんですか」
「商会の紹介状が出ます。店へ持っていけば、商会の客と同じ扱いで話が通ります」
台の上の紙をミラさんが一行ずつ押さえて読み直した。
押さえた手が紙の端で止まる。
「分かりました」
僕が頷き、横でセナも倣った。
台の縁に置いたセナの指は動かない。
ミラさんが紙を綴りへ戻す。
折り目を親指で一度なぞって、折り目の通りに畳んだ。
「こちらは控えとして残します。お気をつけて」
「はい。行ってきます」
控えを仕舞って窓口を出た。
戸口へ向かう間に後ろで判の音がまた一つ鳴った。
セナは戸口の段で杖の先を一度石に当てて、外の明るさへ出た。
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街道は花の終わりの匂いがした。
路肩の木から白い花が落ちて、轍の中に溜まっている。
荷車が通るたびに花びらが舞い落ちた。
草は膝まで伸びて、日を吸った匂いが下から上がってくる。
届け物は綴り一冊と、留め具の入った布袋だ。
袋はセナが持ち、綴りは僕が受け取った。
歩くと袋の中で留め具が鳴る。
荷継ぎの小屋は街道から少し引いた所に建っている。
戸口の脇に荷を積み替える台があって、板の上に樽の輪の跡が残っていた。
番の男が戸口の腰掛けで縄を繕っていた。
「ギルドからです。綴りと留め具の替えを」
「ああ、待ってた。前のはもう錆びて回らねえ」
セナが袋の口を広げて腰掛けの脇へ置いた。
僕は綴りを出して腰掛けの板へ載せる。
男は綴りの背を一度めくってから、袋の中へ手を入れて留め具を一つずつ膝の上へ並べる。
「四つ。合ってるな」
数が合うと番の男が控えの端に判を押した。
判は柄の短い木で、押した跡が少し斜めになった。
「帰りは荷車が多い。端を歩くといい」
「はい。ありがとうございます」
戻りの街道は行きより荷車が多かった。
夏へ向けて街へ入る荷が増えている。
御者の肩当ての革が日を受けて光っていた。
セナは空になった袋を折って腰の紐に挟んだ。
歩くたびに袋の角が腰で跳ねる。
轍を避けて路肩へ寄ると、花びらが靴の先に付いてきた。
街の門が見えてきた所で前から声が来た。
「よう。あんたら、今日もどこかの土手か」
エマが新人二人を前に歩かせて、自分は半分後ろにいる。
数日前に足を痛めた新人はもう自分の足で歩いていた。
「土手じゃなくて届け物。荷継ぎの小屋まで」
「ふうん。腕を休めたな」
エマの目がセナの肩を一度なぞった。
新人の一人が矢筒の口を押さえて、数を数え直している。
エマが親指でその新人を指した。
「こいつ、足が戻ったと思ったら今日は矢の数を間違えたんだよ」
「三本までなら僕も最初の年に間違えましたよ」
「あんたが間違えるもんか」
新人が笑って、エマが先に街の門をくぐる。
三人の背は門の内で武具屋の並びへ折れた。
商人通りに入ると商会の看板が軒の間に見えてくる。
若い衆が二人、戸口の前で荷車へ荷を積んでいる。
一人が荷台に上がって、下から渡される袋を受けていた。
樽を一つ転がし上げて、麻袋を樽の間へ詰める。
縄が荷の上で二度張られて、結び目が引かれた。
日除けの影が荷車の半分まで伸びて、積み荷の色がそこで変わる。
セナと並んで荷車の脇を抜けた。
抜ける時に樽の縄が締まる音がした。
ギルドで控えを渡して精算を済ませる。
綴りの上で判が鳴って、今日の分の行が足された。
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夕方の広間は昼の客が引いて、卓が半分空いていた。
西の窓から入る光が卓の板を長く照らしている。
宿の主が盆と一緒に折った紙を置いていく。
「昼のうちに使いが来た。あんた宛てだと」
盆の上の椀からは今夜も豆の匂いが上がっている。
畳み方の角が浅い。ナギの手だ。
マリウスの返しが着いた。次はこちらから出す。
一行きりの紙を読み終えると、畳んで仕舞った。
返しの中身は書いていない。ナギはいつもそこを書かない。
隣の卓では泊まりの客が二人、明日の道の話をしている。
セナは向かいで椀を引き寄せて匙を取っている。
汁の湯気が西の光の中で横へ流れた。
「商会の指名、最初は荷の護衛だと思う。たぶん、便の日に合わせて来るよ」
「いいんじゃない」
セナはパンを割って汁へ浸した。
「二人で足りるなら僕とセナで受けるけど、荷が多ければナギたちに声を掛けようと思う。
掲示の方はその間、当日中の分だけで」
「リクが決めていいよ」
匙が椀の底を一度擦った。
返事の中に、荷の名前も便の名前も入っていない。
帳場では宿の主が明日の泊まりの名を読み上げている。
その声の下で、僕は卓の上の控えに目を落とした。
控えには今日の届け物の判が斜めに押されている。
「小屋の判、斜めだったね」
「うん。木の柄が短かった」
「押す時に手が滑るんだよ、あれ」
セナが判の跡を指で押さえて笑った。
指はすぐに浮いて椀へ戻る。
西の光が卓の端から床へ下りた。
宿の主が卓の間を回って、壁の灯りに火を入れていく。
汁の椀が二つとも空になると、セナが盆を重ねて帳場へ運んでいった。
僕は控えと紙を仕舞い、二階へ上がった。
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ふと、夜半に目が覚めた。
枕元の瓶が空で、僕は瓶を持って階段を下りた。
広間は竈の火が落ちて、灰の匂いだけがある。
裏口の戸に横木が掛かっていない。
戸の隙間から夜の風が入っていた。
風の音の間に別の音が混ざっている。
風を切る音だ。一つ鳴って、間があって、また一つ。
瓶を近くの卓に置いて戸を引いた。
井戸の脇の空き地が月に照らされている。
塀際の木から落ちた花が石段に貼りつき、薪割りの台の上に杖が横にして置いてある。
セナが空き地の真ん中で剣を振っていた。
上から下へ。戻して、斜めへ。
一振りごとに髪の先が遅れて肩を打つ。
線は揺れない。踏み込みの深さも変わらない。
振り終わりの剣は同じ高さで止まって、それから戻る。
石段の上で足を止めた。二段の下は土だ。
冬にここで見た振りと線が同じだ。
足元に雪はなく息も白くならない。
月は塀の上にある。
影は僕の足元まで届かず、石段の一段目で止まっていた。
石段の下へ足を出しかけて、そのまま縁で重心を移した。
靴の下で花びらが擦れて、乾いた音がした。
振りが途中で止まる。
あの夜は僕がどれだけ立っていても振りは止まらなかった。
今夜は花びらの音ひとつで止まった。
セナは剣を下ろして、腰の鞘へ左手を添えて収める。
鞘の口が鳴った。
右手は柄から外れたあとも下りない。
指は柄の太さに曲がったまま、胸の高さで止まっている。
セナの肩が動く。
顔がこちらへ向く前に右手が下りた。
指が一度で開いて、袖の中へ引かれる。
「……なんでもないよ」
僕が何かを言う前にセナが言葉を発した。
冬の夜は、見てたんだ、と言って台の脇の石に座った。
振ってる間は考えなくていい、とも言った。
今夜は石に目もやらない。
セナは薪割りの台から杖を取った。
持ち替える手は迷わない。
台の上に残った物はもうない。
僕は口を開けなかった。
昼に小屋で言った礼の声も、窓口で返す声も、ここでは使えない。
何を聞くのかも決まらないまま、戸の枠に掛けた手に力が入っていた。
かける声を探している間にセナが石段の下まで来た。
「水?」
「うん。瓶が空で」
「井戸、冷たいよ。この時期でも」
セナは僕の横をすり抜けて戸の内へ入った。
振り向かずに、階段を上がる音が奥へ遠のいていく。
僕は卓から瓶を取って井戸の桶で満たした。
桶の縄が井戸の縁で鳴って、水面が月を割る。
水は言われたとおりに冷たくて、指の先から腕まで上がってきた。
水を汲み終えてから、僕は戸を閉めて横木を落とした。
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部屋に戻ってノートを開いた。
瓶を枕元に置くと水の面がしばらく揺れていた。
今日の行を足す。
届け物の小屋と判。商会の指名の中身。ナギの紙の一行。
四つの行を足して炭を置いた。
灯りを机の端から手元へ寄せ直す。
油の匂いが近くなって、輪の中の字が濃く見えた。
上の階で戸が閉まる音がした。
昨日は僕が部屋に入るのと前後して、上で戸の音がした。
今夜は四つの行を書き終えるまで上の戸は閉まらなかった。
窓の外で塀際の木が風に鳴った。
灯りの輪の外に出た指の先が、井戸の水の冷たさをまだ残していた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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