第110話「残った封」
朝の通りへ出ると、石畳から乾いた匂いが上がっていた。
晩春の朝は明るくなるのが早い。
あの日の翌日、宿へ商会の使いが来た。
手が足りない日はまた店を頼みたい、と。ルカさんからの言付けだった。
冬の間は途切れていた手伝いが今日から戻る。昼までの半日だ。
宿の前の日なたでセナが待っていた。
朝の挨拶を目だけで済まし、並んで歩き出す。
商会への道はギルドの前を通る。
開いたばかりの戸口を覗くと、便の台が見えた。
今朝は列がない。台を拭く布の音だけが往復している。
次の便が出るのは七日後だ。
月の頭に出した為替は、いまごろ西の道の上にいる。
薬は今月も叔母さんの手で村へ渡る頃だった。
ギルドの前を過ぎると、通りには朝の荷車が増え始めていた。
空の荷台は東へ、積んだ荷台は市場の方へ分かれていく。
角を二つ折れると荷を担いだ男たちの流れができて、その先に商会の看板が見えてきた。
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商会の店先では、若い衆が荷を下ろしていた。
柱の貼り紙に今日の荷の名前と着く日が並んでいる。
貼り替えたばかりの紙は糊の跡がまだ湿っていた。
奥の棚では別の若い衆が見本の数を検めている。
土間へ入ると、荷を下ろしていた若い衆が顔を上げた。
「おはようさんです。聞いてますよ、今日から戻られるって」
帳場のルカさんへ頭を下げる。
ルカさんも手を止めて、同じ深さで返してきた。
挨拶は短く切り上げて、それぞれの持ち場へ分かれる。
土間ではセナが若い衆と荷の数を合わせ始めていた。
読み上げる声と返す声が交互に続いていく。
数の合った荷から順に奥へ運ばれて、土間の空きが少しずつ広がっていった。
僕は帳場の脇へ立った。
朝の分け直しは僕の受け持ちだ。
届いた紙をまず二つへ分ける。
今日中に返事がいる分と、そうでない分。
それから期日の近い順に並べ替えて、同じ相手の分をひとまとめにする。
分け終えた紙が右の端から順に積み上がっていく。
帳場の端の低い机にクリスがいた。
クリスも店の仕事に入っている。
古い綴りを開き、新しい紙へ写している。
綴りには荷主の名前と期日の欄が縦に並んでいた。
背は起きたまま、目は行から離れない。
椅子の高さが合っていなくて、足先だけ床に届いている。
綴りの字をまとめて拾っては、紙へ移していく。
行の頭はどれも揃っている。
机の端には写し終えた紙が角を揃えて重ねてあった。
炭を持たない方の手が机の板に置かれている。
その指の先が、板を二度叩いた。
写す手は止まらない。
目も綴りの行を追ったままだ。
それきり指は板の上で伸びている。
僕も自分の紙の列へ目を戻した。
昼前に一度、土間で荷の崩れる音が立った。
セナの声が数え直しの手順を仕切る。
帳場の炭の音は、その間も途切れなかった。
昼が近くなった頃、炭の音が止まった。
クリスが顔を上げて、綴りと僕の並べた紙とを順に見ている。
目が綴りと紙の間を何度か往復した。
「……この欄、リクさんの紙と同じ並びです」
「期日の近い順にしてあるから」
クリスは一度だけ頷いて綴りへ戻った。
頷く前に僕の紙の束へ目をやっていた。
炭の音がまた続く。行の頭の揃った写しが机の端でまた一枚増えた。
昼の刻限にルカさんが帳場の奥から出てきた。
「リクさん。……父が、お二人を呼んでいます」
「伺います」
紙の束を帳場へ戻して上着を取った。
振り向くとクリスの机はもう片づいていて、写しかけの綴りが棚に戻っていた。
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ルカさんと三人で東の街道を歩いた。
「父は今日、臥せっています。……それでも、お二人に話したいことがあると」
歩きながらの声はそれきりだった。
問い足すことは何もない。
ルカさんの歩幅は行きの道で一度も乱れなかった。
荷車の音の間を抜けて歩くうち、道の先に東の家の塀が見えてくる。
塀の漆喰の剥げは三日前のままだった。
門の前では年配の女の人が戸を開けて待っていた。
「どうぞ。今日は奥へ、と言いつかっております」
前庭の敷石を渡って家へ入る。
廊下の先で薄れていた薬湯の匂いが、進むほどに濃くなる。
廊下の突き当たりから渡り廊下が離れへ延びていた。
この板は三年前に一度踏んでいる。
先を行くルカさんの足は、よく鳴る板を踏まずに進んだ。
渡り終えた先の戸をルカさんが軽く叩いた。
低い返事があって、戸が内へ開く。
病間は薬湯の匂いで満ちていた。
火鉢の上の土瓶が細い湯気を立てている。
窓には薄い布が掛かって、外の明るさを半分にしていた。
壁際の棚に薬の包みと湯呑みが並んでいる。
棚の下の段には空の包みが畳んで重ねてある。
包みの一つは口が開いて、今朝の分の減りが見えた。
ジョゼさんは窓側の寝床にいた。
枕の上の顔に窓の布ごしの影が濃く落ちている。
掛け布の上で手が重ねられて、手の甲の筋が浮いている。
「すまんな。今日は起きられん日でな」
声は低いまま戸口の僕たちまで届いた。
椅子の上で聞いた声と同じ低さだ。
女の人が椅子を二つ、寝床の脇へ運んだ。
僕とセナが並んで掛ける。
ルカさんは窓の側に立った。
白湯の椀が手元へ回って、女の人は戸口の内へ下がった。
セナが受け取る時に小さく頭を下げた。
「呼び立てたのは、ほかでもない」
枕の上で顔がわずかに僕たちへ傾いた。
掛け布の裾が寝床の縁で小さく擦れた。
「わし宛ての文のことだ。あの日は中身を言わんかった」
ルカさんが窓の側で身じろぎをやめた。
組んでいた手がほどけて、体の脇へ下りる。
「長いものではなかった。仕舞いの一行だけ、ここに居着いておる」
ジョゼさんの目が天井へ向いた。
重ねた手の親指が、手の甲の筋をなぞった。
「『感謝している。うまく言えなかったけど』
あれの字で、それだけ書いてあった」
短い息が言葉の後を継いだ。
それきりジョゼさんの口は結ばれ、目は天井の木目にある。
重ねた手の片方が離れて、寝床の縁を二度叩いた。
叩いた指はそのまま縁に載っている。
土瓶の湯気が細く鳴っていた。
窓の布が一度ふくらんで、薬湯の匂いが揺れた。
しばらくしてジョゼさんの顔がこちらへ戻った。
「ルカ宛ての文の終いもな。あれから何度も浮かぶ」
少しの間があって、ジョゼさんの声が低くなる。
「……リク、それにセナ」
「はい」
隣の返事は息一つぶん遅れた。
セナの膝の上で椀は両手に包まれたままだった。
「……はい」
ジョゼさんは二つの返事を聞き終えて頷いた。
頷きは枕の上で一度きりだった。
戸口の方へ声だけが向いた。
「クリスを呼んでくれ」
女の人が出ていき、渡り廊下を渡る音が遠くなった。
向こうで戸の開く音が一つした。
部屋には湯気の音が残っている。
ルカさんは窓の側で手を組んで、戸口の方を見ていた。
僕はぬるくなり始めた白湯を一口含んだ。
椀を膝から下ろして椅子の足元へ置いた。
やがて板の鳴る音が戻ってきて、戸が開いた。
クリスが入ってくる。
商会で見た上着のままだった。
後ろから戻った女の人が戸を閉めた。
寝床の手前まで進んで立ち止まる。
立った場所は火鉢の熱の届く側だった。
上着の胸のあたりが、息で一度持ち上がる。
ジョゼさんは寝床の中から見ている。
クリスの手が胸元へ入った。
折り畳まれた一通が出てくる。
宛名の三文字が上を向いていた。
留めは渡された日から動いていない。
ルカさんは窓の側で動かない。
女の人は盆を胸に抱えて戸口の内に控えている。
寝床からも窓の側からも、目だけが紙へ集まっていた。
火鉢の上で土瓶の鳴りが細くなっていく。
湯の減った軽い音になっていた。
クリスは宛名を見下ろしていた。
紙の端が指の力で少したわむ。
部屋の音は土瓶の湯気と、窓の布の擦れる音になっていた。
クリスが顔を上げた。
寝床の父を見て、それから僕とセナを見る。
目が紙へ戻った。
息を吸う音が一つ届いた。
指が留めに掛かる。
紙の鳴る音が立った。
留めが外れて、折り目が開いていく。
急ぐ手ではなかった。
折り目の山を指の腹で押さえて、一つ開いては次へ移る。
畳まれたまま冬を越した紙だ。
開くたびに乾いた高い音が返る。
音は一度ずつ高く切れて、湯気の音の下へ落ちていった。
最後の折りが開いて、紙は一枚になった。
開き切った紙が窓の薄い明かりを透かす。
炭の字は少ない。
行より白いところの方が広い紙だった。
クリスが行を目で追い始める。
終わりまで進んで、もう一度頭から読み直した。
あとの方が長かった。
読む間、紙は胸の高さで止まっていた。
火鉢の炭が小さく爆ぜた。
それから、唇が動いた。
『自由に生きろ。それだけでいい』
声は小さかった。
それでも行の終わりまで、途切れずに部屋を通った。
クリスは紙を持ったまま立っている。
紙は両の手のひらに挟まれていた。
肩の線から張りが抜けた。
紙の端は、もうたわんでいない。
紙は元の折りに戻されて胸元へ入った。
畳み直す紙の音が開いた時より低く鳴る。
仕舞う手が上着の上から一度、紙のある所を押さえた。
その手つきは写し終えた紙を重ねる時と同じだった。
ジョゼさんが深い息を一つ吐いた。
まぶたが下りて、眉の間が開いている。
枕の上の白髪が布の襟に沈んだ。
掛け布の上の手はもう何も叩かなかった。
土瓶の湯気の匂いが僕の椅子まで濃く流れてきた。
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窓の布を透かす光が斜めになっていた。
「長く引き止めたな。……気をつけて帰りなさい」
「はい。お大事にしてください」
僕とセナは椀を女の人の盆へ戻して立った。
椅子を寝床から離して、壁際へ寄せた。
クリスは寝床の脇に残っている。
戸を出る前に一度振り向いた。
枕の上の目は、もう寝床の脇のクリスへ向いていた。
渡り廊下を戻る。
板の音の途中から薬湯の匂いが薄れていった。
戸口まではルカさんが送りに出た。
「今日のことは父の望みでした。……ありがとうございました」
腰から折れる礼だった。
僕たちも同じ深さで返す。
上げた顔に、帳場で見る張りが戻っていた。
女の人が戸口で頭を下げた。盆は胸に抱えたままだった。
前庭の低い木では、三日前に見た春の芽が先の緑を濃くしていた。
敷石に落ちる光が、来た時より黄色い。
門の脇の戸を抜けて街道へ出た。
後ろで足音がした。
門の脇の戸を鳴らして、クリスが出てくる。
数歩を小走りに詰めて、立ち止まった。
止まった場所は門柱の横ではなく、その前だ。
道の側へ体を向けて、両手は脇に下りていた。
夕方の光がクリスの足元から道へ伸びている。
商会の上着の裾が夕方の風で揺れていた。
立ち止まる前に手が胸元へ触れていた。
紙のある場所だ。
息を整える間があって、声が出た。
「……また、来てください」
「はい。また来ます」
クリスは僕を、それからセナを見た。
セナが小さく手を振る。
クリスの右手が、小さく上がった。
上がった高さで短く止まってから下りた。
歩き出して、道の曲がる手前で振り返った。
クリスは戸の内へ戻っていて、その横にルカさんが並んでいた。
どちらもこちらを向いている。その先で東門の屋根が夕日を受けていた。
二人の影が敷石の上でひとつづきになっている。
二人は僕たちが曲がるまでそのままでいた。
角を曲がると塀は見えなくなった。
セナが前を向いたまま言う。
「……手、上がったね」
「うん」
東門をくぐってきた荷車が僕たちを追い越して街の中へ入っていく。
荷台の油紙が夕日を撥ねて光った。
同じ向きの流れに、僕たちも混ざった。
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