第109話「最後の行」
文は朝のうちに来た。
朝食の椀を空けた頃、戸口に商会の使いが立っていた。
僕を見ると頭を下げ、両手で折り畳んだ紙を差し出してくる。
開くとルカさんの字が並んでいた。
商会の帳場で見慣れた、行の頭が揃った細い字だ。
『本日の昼、東の家までお越しください』
用件は一行きりだった。
終いの字だけ間が空いていて書く手が一度止まったのだと分かる。
「伺います。そう伝えてください」
使いの人はもう一度頭を下げて朝の通りへ出ていった。
戸口の外で荷車の音が高くなり、また遠ざかっていく。
帳場の奥では宿の主が竈の火を直していた。
セナは向かいで椀を置いたところだった。
紙を渡すと一行を読む間だけ目が止まる。
「……お店じゃなくて、家なんだ」
「うん。昼に」
紙が僕の手へ戻ってきた。
食事のあと、部屋でノートの束を出した。革紐の締まりを確かめる。
持ってくると言った日のうちに支度は済ませてある。
古いものから順に重ねて革の紐で括ってあった。
使い始めの一冊は表紙の角が丸い。
今朝は開かない。行の在り処は開かなくても覚えている。
昼までの間、僕は部屋の卓で通りの音を聞いていた。
窓の下を荷車が何度も過ぎて、そのたび音の数を耳が拾う。
手を組み直すと指の関節が小さく鳴った。
卓の上の束はそのままの厚みで置かれている。
---
昼前にセナと宿を出た。
東へ向かう通りの口でナギと落ち合った。
文はナギのところにも届いている。
「行こうか」
短く言ってナギが先に立った。
商人通りへは折れず、東門へ続く街道を行く。
道の間ナギの口は結ばれたままだった。
背負った荷袋の中でノートの束が歩みに合わせて揺れる。
東門の見える手前でナギの足が緩んだ。
街道に面して塀の長い家がある。ジョゼ家の本宅だ。
塀の漆喰は剥げたままで、上に載った瓦だけが新しい色をしていた。
門扉は閉じている。
右の端のくぐり戸が、開いていた。
冬に来たとき、この戸は目の前で閉じた。
今日は開いた戸の内に年配の女の人が立って待っている。
戸は手で押さえられているのではなく、留め木で開いたまま止めてあった。
「お待ちしておりました。どうぞ」
頭を屈めて敷居をまたいだ。
前庭の敷石は掃かれたばかりで水の跡がまだ濃い。
塀の内側は街道の音がひとつ遠くなる。
庭の隅の低い木に春の芽が出ていた。
女の人は先に立って前庭を渡り、家の戸を内へ引いた。
敷居の内で靴の土を落とす間も誰の声もしない。
廊下の奥から薬湯の匂いが薄く届いた。
磨かれた廊下の床が窓の光を鈍く返している。
通されたのは街道側に窓のある部屋だった。
飾りのない部屋で、壁際の低い棚に古い綴りが背を並べている。
部屋の真ん中に卓が置かれ、その上に白いものが三つ並んでいる。
窓の光は卓の手前の縁まで届いていた。
部屋の奥ではマルセルの父親が窓を背にした椅子に掛けていた。
会うのは葬送の朝以来だ。
頬の肉は薄い。それでも背は起きて目がまっすぐこちらへ来る。
膝には織りの厚い掛け布が載っていた。
椅子の脇にルカさんが立っている。
今日は襟を詰めない、家の上着だった。
「よく来てくれた。掛けてくれ」
低い声のまま、言葉は部屋の端まで届いた。
ナギが一歩前へ出て帽子を胸に当てた。
「本日はお招きありがとうございます。ジョゼおじさん、お久しぶりです」
「おまえさんはクロードの……」
ナギが小さく頷く。
マルセルの父親の目が細くなった。
少しの間があり、やがて思い当たった顔になった。
「世話をかけたな。おまえさんにも、マリウスの坊主にも」
「いえ、ボクがやりたかったことなので。それより兄を坊主と言うのはおじさんくらいですよ」
薬湯の匂いの届く部屋で、そこだけ空気が緩む。
ナギの肩からも、道中の固さがひとつ抜けていた。
マルセルの父親の顔がこちらへ向いた。
「ジョゼだ。おまえさん達がリクとセナだな」
僕たちは頭を下げて卓の手前の椅子に順に腰を下ろした。
ナギはつばを下へ向けて帽子を膝へ伏せた。
卓の上にあの三通が置かれていた。
宛名を上へ向けて間を空けて並べてある。
麻紐はもう解かれている。
紙には麻紐の掛かっていた筋が薄く残っていた。
二通は留めが切られていた。
店の卓で見たときは、麻紐の結び目さえ渡された日のままだった。
クリスと宛名のある一通だけ、封のかたちが崩れていない。
ジョゼさんの目が僕たちの上を順に通っていった。
一人ずつ確かめて、最後に卓の三通へ戻る。
「マルセルの残した文だ。扱いはルカに任せていた。ルカは冬の間、開けられなかった」
ルカさんは体の脇で手を軽く握っていた。
目は卓の三通から離れない。
「責めてはおらん。仕舞い切れんものは誰にでもある。わしも急がせなかった」
短く切って息を継ぐ。
「クロードから文をもらって、腹が決まった」
それから、ジョゼさんの目が僕とセナへ戻った。
「今日呼んだのは、おまえさん達に関わることが書いてあったからだ。
……ルカ。読んでやってくれ」
ルカさんが卓から一通を両手で取った。
宛名にルカとある。
折り目には開き癖がついていて、紙は手の中で素直に開いた。
一度読んだ紙だ。それでも開く指は速くならなかった。
紙が胸の高さに構えられて、声が最初の行を拾った。
『仲間の誰も責めるな。死んだのは俺のせいだ』
声が行の終わりで止まった。
紙の上の目は動かない。
息を整える音がひとつ聞こえた。
街道の荷車の音が窓の下を遠く過ぎていく。
紙は両手の間で水平に保たれていた。
ルカさんは一度だけ目を閉じた。
声が続きを拾い上げる。
文は短く切られている。
一つ読んでは息を継ぎ、次を読む。
綴りを読み上げる速さのまま行は順に進んでいった。
行の頭で息が持ち直すたび手の中の紙が小さく鳴る。
聞く息が同じ深さで卓を囲んでいた。
弟へ宛てた文は長い。
声の下で僕の耳は行の数を拾ってしまう。
ノートのどの依頼より行の数が多かった。
隣でセナは紙の一点を見ていた。
ジョゼさんは目を閉じて聞いている。
椅子の肘に置かれた手は動かなかった。
ナギは帽子を膝に置いたまま卓を見ている。
つばの陰のない顎の線が固くなっていた。
『家を押しつけてすまなかった。お前で良かった』
同じ行が二度読まれた。
二度目は言葉の間が開いて、終いの声が掠れた。
紙の縁が指の先で細かく揺れている。
ルカさんの肩が上がったまま、息が入るまで下りなかった。
次の行まで、長い間があった。
窓の下をまた荷車がひとつ過ぎていった。
僕は膝の上で手を重ねてその声を受けていた。
喉の奥が乾いて飲み込む音が自分の耳に届く。
指の間に汗が溜まっていた。
僕は卓の上の残る二通を見ていた。
待つ間の目の置き場はそこしかなかった。
布の擦れる音がひとつした。
ナギの手が膝の帽子を押さえた音だ。
声が戻る。行はまた短くなった。
帳場で客を送るときの速さになって、そこから最後の行に着いた。
『可能な範囲でいい。リクとセナを助けてやってくれ』
読み終えた紙が、ゆっくりと下ろされた。
ナギの息が長く出た。
ジョゼさんの目が開いて、椅子の肘の手がゆっくり離れた。
「……はい」
返事は、紙へ向いていた。
それから顔が上がって、僕とセナの上を一度ずつ通った。
読み上げの間より近い目だった。
紙が折り目のとおりに畳まれて卓へ戻される。
切られた留めのところだけ紙の色から浮いて白かった。
ジョゼさんの手が二通目に触れた。
宛名に親父とある。
二文字は今日も他の宛名より太い。
紙は取り上げられなかった。
指が畳まれた紙の端を辿って、宛名の上で離れる。
「……子どもの時分から、変わらん字だ」
それきりだった。
中身は言わない。誰も聞かなかった。
三通目が残っている。
宛名にクリスとある。
封のかたちは書かれた日のままだ。
ジョゼさんは三通目を引き寄せて自分の手前に置いた。
目が三文字を端から端まで動いて、また頭へ戻る。
二度目のときは速さが落ちた。
「……これだけは、開けておらん」
声は卓の上の宛名へ向いていた。
「クリスにはわしから渡す。開けるかどうかは、あの子が決めることだ」
言い終えてもジョゼさんの目は卓の上にあった。
廊下の奥で、床の鳴る音がひとつした。
ジョゼさんが息をひとつ置いてから、僕を見た。
「ひとつ頼みがある。……外での、あれの話を聞かせてくれ」
僕は一度だけうなずいた。
テルナの町で初めて会った頃のこと。
見習いだった僕とセナを、依頼の後ろに黙って入れてくれたこと。
ジョゼさんもルカさんも、口を挟まずに聞いていた。
「ここから先は、こちらの記録で」
荷袋から重ねたノートを出した。
革の紐を解く音が部屋に立った。
卓の上で一冊目を開き、ページを繰って向きをジョゼさんの方へ変えた。
「この街へ来て、マルセルと最初に受けた依頼の日です。
ここから先、日付と場所と、決めたことが書いてあります」
ジョゼさんが卓へ少し身を寄せた。
ルカさんも椅子の脇から紙面の見える所へ動く。
どのページも、書く順は変えていない。
受けた日。場所。それから、引き返す線。
線はマルセルが依頼を受けた日に先に引いた。
持ってきた油が半分になったら戻る。枝道には入らない。
引いた線は三年で一度も途中から動いていない。
ジョゼさんの目が行の上を進んでいく。
一つの行の上でときどき遅くなった。
数字を検める目の運びだ。
指が線の行の一つで止まった。
「……この線は、守られたか」
「はい。破った日は一日もありません」
ジョゼさんは何も言わずに目を行へ戻した。
ページをめくる。
行の詰まったページが続いた。
めくるたび紙の擦れる音が卓の上を渡る。
冬の護衛の行が続く。
朝に出て、日のあるうちに戻る道ばかりが選ばれている。
選んだ理由は行の横に小さな字で残してあった。
その小さな字にジョゼさんの目が下りる。
声には出さない。読み終えるまで顔は上がらなかった。
線の内側でできることを、マルセルは全部やった。
できないことは数えて、次の依頼に回した。
行は、そのままの順で並んでいる。
一冊が終わると次の一冊に替えた。
巻が替わっても行の書き方は変わらない。
秋の調べの行。雨で二日待って、道を測り直した日。
待った二日も行に入っている。
水の出た日。道を変えた日。図を測った日。
どの行も、受けた日と精算の日で閉じている。
ジョゼさんは動かずにページを追っていた。
掛け布の上で組まれた手だけが時々わずかに沈む。
ルカさんが脇から静かに言った。
「……商いの綴りと、同じですね」
「三年分で、行はこれだけになりました」
重ねたノートの厚みを指で挟んで見せた。
ジョゼさんの目が厚みの上で長く止まった。
「……三年、か」
短い声だった。
最後の一冊を開き、ページを進める手を一つの行で止めた。
炭の字は最後まで乱れずに並んでいる。
その先のページは、開かずに置いた。
「最後の依頼は、この日です」
日付を言って、声はそこで止めた。
指で行を押さえてそれで済ませた。
ジョゼさんは長いことその行を見ていた。
低く息を吐いて、それから深く頷いた。
「……よく、分かった」
窓の光の際が、棚の綴りの背の下まで下りていた。
僕はノートを閉じた。
膝の上で、指の先が冷えている。
閉じたノートにルカさんが両手を添えて僕へ返した。
綴りを棚へ戻すときの手つきだった。
重ねて紐を掛け直し、荷袋へ入れた。
ルカさんが背を立て直した。
「……店は、いまもリクさんの紙で回っています。
荷の名前の貼り紙も、朝の分け直しも、あの日のままです」
声は帳場の型に戻っている。それでも目は逸れなかった。
膝の上で僕の指が外套の布を一度掴んだ。
「……普通にやってただけです」
ルカさんが、腰から深く頭を下げた。
ジョゼさんが椅子の中で小さく息を吐いた。
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気づけば、窓の光は卓から落ちて床の際まで退いていた。
差し込む色も昼の白から薄い橙に変わっている。
外の街道を行く荷車の音が、来たときより間遠になっていた。
「今日は、よく来てくれた」
僕たちは立ち上がって頭を下げた。
立った拍子に椅子の脚が床を短く擦る。
ナギが膝の帽子を手に取った。
ジョゼさんは椅子に掛けたまま、卓の三通の側にいた。
見送りには立てない。それでも目は戸口までついてきた。
卓の上には開いた二通と開かない一通が残っている。
切られた留めの白だけが明るかった。
ルカさんが先に立って廊下を戸口まで送りに出た。
薬湯の匂いが廊下の奥からまた薄く届く。
前庭には夕方へ向かう光が斜めに入っていた。
敷石の水の跡はもう乾いている。
くぐり戸は、来たときのまま開いていた。
ルカさんが戸の脇に立って僕たちを先に通す。
頭を屈めて内側から敷居をまたいだ。
戸の外はまだ明るい街道だ。
石の上を踏む靴の音が、来たときより高く返る。
振り返ると、開いた戸の内でルカさんが頭を下げていた。
その奥に家の戸と廊下の暗がりが見える。
二階の窓のひとつに西日が入って白く光っていた。
ナギが帽子を頭へ戻して先に歩き出した。
セナが僕の隣に並ぶ。
歩き出しても、背中で横木の音はしなかった。
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