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第108話「同じ卓に」

宿の裏の井戸で顔を洗う。


汲んだ水が冬の朝ほど手に刺さらない。

桶の中の水が明るくて、底の木目まで見えた。


首筋を拭くと、冬の間は縮んでいた肩がすんなり伸びる。

塀の向こうの通りはもう荷車の音を立て始めていた。


部屋へ戻り上着の前を合わせた。仕事の日と同じ支度。

違うのは腰に今日の依頼の控えがないことだけ。


支度を終えて広間へ下りる。

出発前の客が下りてくるにはまだ早い刻限で、朝の卓はあらかた空いていた。


あたりを見回すと、窓際の卓にセナが座っているのを見つけた。

外套はもう着ていて、椀は空いている。


「おはよう。今朝は早いね」

「ちょっとね。朝食、リクの分も頼んどいたよ」

「ありがとう。セナはもう食べた?」

「うん」


広間の匂いは昨日と同じだ。

固いパンを椀に浸して端から片づけた。

味は分かる。いつもより早く食べ終えていた。


僕が食べる間、セナは窓の外を見ていた。

通りを行く荷車を目で追って、追い切らないうちに手元へ戻す。


手紙と為替の便を出して五日になる。

薬は今月もルナさんの手から村へ渡る頃だ。


飯を済ませても、昼過ぎの刻限まではまだ間がある。

ノートを開き、マルセルとの依頼の行を頭から読み直す。

日付。場所。調べたこと。決めたこと。

行はどれも短い。書いた日の手の速さのまま残っている。


頭の行に受けた日が入っている。

最後の行は精算の日で終わっていた。

読み返しても行の中身は動かない。動かないから渡せる。


読み終える頃には窓の日が真上へ寄っていた。

昨日レオが置いていった紙には昼過ぎ、とだけある。

用件のほかには何も書かれていない。


紙をもう一度見てから、ノートと一緒にしまった。


セナと連れ立って宿を出る。

日なたが通りの真ん中まで広がって、石畳が白く乾いている。

坂を下りるほどに人が増えて、荷車の音が前からも後ろからも来る。


坂を下りきった四つ角の日陰でナギが待っていた。

帽子のつばはいつもの深さに戻っている。

手には何もない。持っていた文は役目を終えている。


「揃ったね」


それだけ言って、ナギは先に歩き出した。


商人通りは昼の荷が捌けたあとで人の流れが緩んでいる。

店先の桶に春の花が挿してあり、水の匂いが乾いた石の匂いに混ざる。


商会の看板が見えてからも、ナギの歩幅は変わらなかった。

三日前に狭くなった分が今日は戻っている。

看板の下を、荷を背負った男がひとりくぐっていった。


---


店先では古参の事務員が待っていた。

名乗るより先に頭を下げられる。


「伺っております。奥へどうぞ」


事務員のあとについて土間を奥へ進む。

棚の見本を若い衆がひとつずつ数え直している。

柱には荷の名前と着く日を縦に並べた紙が貼ってある。

貼り替えを重ねた古い糊の跡が紙の下に幾重にも残っていた。


帳場では算盤が動いている。

綴りをめくる音がして、止まり、また続く。

客の声がひとつ、値の話をして離れていった。


帳場の脇の低い段を上がる。

三日前に下から見上げた段を、今日は靴の裏で踏む。


この部屋には一度だけ通されたことがある。

卓がひとつに椅子が四脚。壁の棚に綴りが背を揃えて並んでいるのはあの日と変わらない。

棚の綴りは年ごとに紙の色が異なり、古いものほど背の色が濃い。

壁際の小卓にはペンとインク壺が盆に載り、紙の束が角を揃えて重ねてある。


六人で囲んでも余る広さがある。

長く使われて縁の角が丸い。

上には何も出ていない。木目が拭き込まれて鈍く光っていた。


窓はひとつで、白い光が卓の半分まで届いている。

窓の外は隣の建物との細い間だ。通りの音はここまで入らない。

帳場の算盤はここへ届くまでに音の数を落として、続いているとだけ分かる。


事務員が先に入って短く取り次ぎ、脇へ下がった。


ルカさんは先に部屋にいた。


暗い色の上着で襟元まで詰めている。

頬の色は冬に門の前で見たときより戻っていた。

立って迎えられる。ルカさんが頭を下げ、僕たちも下げた。


「お掛けください」


勧められた椅子に僕とセナとナギが並んで掛けた。

向かいはルカさんひとり。三人と一人の間に、一枚板の卓だけがある。

木目が途切れずに四人の手の前をひと続きに通っていた。


ルカさんは背をまっすぐに置いている。

椅子の背には触れていない。座っていても帳場に立つときと同じ背だ。


店の若い衆が茶を運んで下がっていった。

湯気が四つ、同じ高さに立っている。

誰も椀へ手を伸ばさない。


ナギが帽子を脱いで膝の上に置いた。

束ねた金の髪は襟の内に収まったまま、うなじで一房だけ揺れた。

つばの影が外れて、目の位置が初めて卓の高さに揃う。


ルカさんがナギの膝の帽子へ短く目をやって僕たちへ顔を戻した。


「クロード家には、当家も古くから世話になっております。

 文を頂いた以上、場を設けるのが筋ですので」


速さも高さも帳場のままだ。

目はこちらの誰の上にも長く止まらない。


湯気が細くなっていく。

ルカさんの手は卓の上で重ねられたまま動かない。

袖口に薄いインクの染みがある。


ナギが短く言った。


「今日は、聞いてもらいに来ました」


いつもの、つばの下から放るような言い方ではない。

声が低く、言い終わりが卓の上に残った。


ルカさんが浅く頷く。

頷きは会釈ほどの浅さで目は卓の上にあった。


ナギの顎がわずかに動いて、目がこちらを向いた。

一度だけ頷いて、僕は息を置いてから口を開いた。


「マルセルと受けた依頼の記録があります。

 どの日にどこへ入って、何を調べたか。

 読んでいただけるなら、全部持ってきます」


卓の下で足を一度揃え直した。

言い足すことを探して、やめる。


話す間、隣でセナが小さく頷くのが視界の端にあった。


ルカさんの目が一度僕の手元まで来て、離れた。

その間は瞬きがなかった。


「……いただいておきます」


ルカさんの声色は帳場でのそれと変わらなかった。

受けたのか受け流したのか、残ったのは同じ高さの声だけだ。

それでも、持ってくる日がひとつできた。


茶はもう冷めている。

椀の中の色が注がれたときより濃く見えた。


言葉が途切れた。

遠くの帳場から、算盤の音だけが薄く届いている。

四つの椀はどれも縁まで満ちたままだ。

窓の光が卓の上を指の幅だけ動いた。


ルカさんが立つと、棚の下の段から浅い木箱を出した。

箱の角は塗りが剥げて、下の木の色が丸く出ている。

歩幅は狭く、箱の面は最後まで傾かなかった。


卓の真ん中に置かれて蓋が上がる。

合わせ目は擦れて滑らかで音は立たなかった。

古い紙とインクの匂いが箱の中から上がってくる。


麻紐で束ねた三通が中に納まっていた。

紐の結び目は渡した日のままで、ほどかれた跡がない。

埃は払われている。仕舞われた場所でそれだけは続けられていた。


ルカさんは束を両手で持ち上げ、卓へ直に置いた。

宛名が上を向く。


 親父


いちばん上の一通にその二文字がある。

炭の字はどれも大きく、この二文字がいちばん大きい。

紙は乾いて、端がわずかに反り始めている。


書いた手の重さがそのまま太さに残る字だ。

下の二通は宛名の端だけが束の間から見えている。


四人の目がひとつの宛名の上に載っている。


誰も手を出さない。

束は卓の真ん中で窓の光の届く際にある。

宛名の字だけが部屋でいちばん濃い色をしていた。

四人の手はどれも卓の縁の内側で止まっている。


ルカさんの手が卓の上へ戻って重ねられた。

重ねた手はそのまま動かない。

息が一度、深く入って出ていった。


「まだ、開けられていません。誰の分も」


声の速さは変わらなかった。

言い終えた形のまま口が止まっている。

息を継ぐ音がこちらまで届いた。


卓に置いた指が束の縁に触れて止まっている。


冷めた茶が四つ、手つかずのまま並んでいる。

誰かの椅子が一度軋んでそれきり音が絶えた。

卓に置いた手のひらの下から木の冷たさが上がってくる。


隣のセナは動かない。

膝の上で組んだ両手の指が白くなっている。

息を吸う間隔がさっきより長くなっていた。


ナギが膝の上の帽子の縁を一度なぞってから口を開いた。


「……開けるかどうかは、貴方達が決めることだ」


一語ずつ、卓の上へ置くような言い方だった。


ルカさんは答えなかった。

束を見たまま、指を縁に置いている。


遠くの算盤が一度やんで、また続きを打ち始めた。

打ち終わるまでのあいだ、束は同じ場所にある。

窓の光は束の端から少しずつ引いていく。

引いた分だけ炭の字が沈んで見えた。


光の際が紙の厚みひとつぶん動いて、下の二通の宛名が影に入った。

卓の木目の筋が束の縁のところで影に切られている。

それでも誰も手を伸ばさない。


やがて指が束の縁から離れた。


ルカさんは三通を木箱へ戻した。

一通ずつ宛名の向きを揃えて納める。

納める手つきに迷いがない。何度も出し入れしてきた手の運びだった。


箱の底には紙の粉が薄く溜まっている。

麻紐の結び目が箱の縁に当たらないよう、束を少し傾けて底へ下ろす。


手を離す前に紐の位置を一度だけ直した。

蓋は閉めずに棚の上へ置いた。


「少し、時間をください」


箱の縁に残っていた手を下ろして体ごとこちらへ向き直る。

上着の襟を一度直してから、そう言った。


「日はこちらから。決まりましたら、店の者を宿へ回します」


声が帳場のものに戻っていた。

客を送るときの速さも高さも決まった運びだ。戻り際に継ぎ目は見えない。


「……いくらでも、待ちます」


ナギが答えて、椅子を引いた。僕も続いて立つ。


セナが最後に立って、腰から折れて頭を下げた。

下げたまま、息を三つ数えるあいだ動かない。

結った髪の先が肩から前へ落ちて、揺れて、止まる。


ルカさんは頭が上がるのを待って、同じ深さの会釈を返した。


椅子の脚が床板を鳴らして、部屋はまた静かになった。


戸口へ向かう前に、ナギは帽子をかぶり直した。

つばはいつもの深さまで下りている。


戸口で振り返ると、ルカさんはまだ頭を下げていた。

下がったままの頭を残して、段を下りた。


帳場の脇を抜けると算盤の音が一度近くなって、また離れていく。

土間では若い衆が空になった箱を重ねて運んでいく。

拭かれた床に昼の客の足跡が薄く付いている。


事務員が戸を押さえて僕たちを店先へ通し、深く頭を下げた。

送りの間、誰の声もしなかった。


外へ出ると日は西へ回っていた。

石畳に店の影が伸び始めている。入るときは足元にしかなかった影だ。


---


商人通りを抜けて坂の下まで来た。


ナギは四つ角で足を止め、いつものように片手を上げて東へ折れた。

言葉はなかった。帽子のつばが人の間に紛れていく。


セナと二人で坂を上る。

通りには仕舞い支度の音だけがあって夕飯の匂いにはまだ早い。

風が正面から来る。もう夕方の風だ。


並んで歩く間、どちらの口も開かない。

今日話した言葉は少ない。持って帰るものはそれより多い。


宿に着いたら今日の行を埋める。

それでも行はひとつ埋まる。三日前より先の行だ。


指を一度握り込んで、開いた。

卓に残してきた三通の重さが、まだそこにある気がする。

持ったのは渡した日の一度きりだ。


セナの歩幅は隣で揃っている。

組まれていた手はほどけて外套の脇に下りていた。


坂の家々の窓に火の色がひとつずつ入り始めている。

上りきる手前に宿が見えてくる。


手のひらの中で、夕方の風が冷え始めていた。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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