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第107話「店の前」

朝、部屋でノートを開いた。


昨日の行の下に短い線が引いてある。線の下は白いままだ。

その頭に日付だけ入れて炭を仕舞った。中身は今日これから埋まる。

母さんへの手紙と為替の便を出してから二日が経った。


支度を済ませて階下へ下りると、卓がいくつか空いていた。

先に席を取りセナと落ち合ってから朝食を取った。

湯気の立つ椀を空ける間、どちらも今日の話はしなかった。


外へ出ると通りの日なたが昨日より広がっていた。

軒下の日陰との境目を選んで坂を下りる。


途中の四つ角に見慣れた帽子のつばがあった。

ナギが壁に背を預けて、通りの上の方を見ている。

こっちに気づくと背を離して、歩み寄るより先に用件を言った。


「店から返しが来た。今日の夕方、商会の手前の角で」

「わかった」

「今日は日中に終わる仕事にしなよ」


言い終えるとナギは東へ歩いていった。

足は速い。そのまま振り返らずに人の間へ入っていく。


セナは黙って見送っていた。

歩き出してから短く言った。


「夕方、だね」

「うん。待ち合わせに間に合う依頼で」


返しが来た、の一言は歩く間も頭から離れなかった。

それでも先に片づけるのは今日の仕事だ。

坂の下で人の流れに混ざるまで、どちらも商会の話には戻らなかった。


ギルドの戸を引くと、中は人の声で暖まっていた。

札を出す音。呼ばれて立つ音。


掲示されている依頼の紙を端から読む。

今日は夕方までに街へ戻れる依頼に限る。

実入りのいい紙が二枚ほど手前にあったが、どれも泊まりがけだった。


届け物の依頼の紙を一枚抜いた。

南の集落へ研ぎ直した農具をふた包み届ける。

道は南へまっすぐで昼前には着く。荷は重いが数は少ない。


窓口の列に並んで連名の欄に二人分の名を入れた。

ミラさんが刻限を読み上げて判を置く。


「日暮れ前にお戻りですね。お預かりします」


台の脇に荷が出ていた。


革で包んで口を革紐で留めてある。

持ち上げると紐が手に食い込んだ。

包みの革が油の匂いを立てている。


ふたつの包みを持ち比べて、重さの差を手に覚えさせた。

背負い分けの当たりは歩き出す前に付けておく。


ノートの今日の行に依頼の名を短く入れた。

白いままだった場所に行き先の集落の名が収まる。


炭を置くと、今日の行も昨日までと同じに埋まった。


---


南側の門をくぐる。

ゆうべの雨は浅かったらしく、道の真ん中に歩ける固さが残っていた。

泥は両脇に寄っている。荷車の跡を外して固いところを拾って歩く。


荷はふた包み。届け先は二軒で、遠い方が坂の上の家だ。


「遠い方から回るよ。帰りを下りにする」

「ん」


セナが近い方の包みを背へ回す。

遠くて重い方は僕が持った。先に肩から下ろせる割り振りだ。


春の風が背中から吹いて土の匂いを前へ運んでいく。

畑は起こされたばかりで土が黒い。ここへ研ぎ直した刃が入る。

腰を伸ばした男がこっちの荷を目で確かめて畑へ戻った。


種を運ぶ籠が道の端に置いてある。

冬の間は人の少なかった道で、いまは行き先のある足ばかりが通る。


坂の上の家は戸口の脇に空の桶が伏せてあって、庭の隅で鶏が土を掻いている。

包みを解くと研ぎ終えた刃が油紙の中に並んでいた。

草を刈る刃と枝を落とす刃は、研ぎの線が朝の光を細く返している。


主は柄を握って、振らずに重さを確かめた。


「いい直しだ。春に間に合った」

「刃物なので、朝のうちにと思って早く出ました」

「助かるよ。今日から使える」


控えに受け取りの印をもらう。

判を押した指に土がついて、控えの端が汚れた。


主は水を勧めてくれたが、もう一軒あると断った。

戸口を出て道へ戻る。


「また頼む」


背中へ掛かった声に振り返って、頭を下げた。

前を向き直すと、セナが包みの紐を肩で直しているところだった。


「残りはこっちで持つよ」

「ありがとう」


セナが背から包みを下ろして寄越す。

受け取って肩に掛けた。紐の位置は一軒目の包みで覚えている。

セナの目はもう坂の下の道を測っていた。


二軒目は坂を下りた先にあった。

家の戸を叩いても返事がない。


「リク、あっち」


セナが先に畑を指した。

畑の中で、こっちに気づいた背中が起き上がるところだった。


畑の縁まで下りて包みはそこで渡した。

渡す前にセナが包みの口を上へ向け直す。


土の上で開けさせず、印だけ先にもらう。

男は腰の袋から判を出して、袖で手をぬぐってから押した。


中身の確認は手を洗ってからでいい。

直りの確かさは一軒目で見えている。


「直りが足りなければ、今日中にギルドへ言ってください。研ぎ直しは受けると聞いています」

「律儀だな。分かった」


男は包みを両手で受けて、畑の縁の乾いたところへ置きに行った。


帰りは下りで、荷は控えだけになった。

行きに背を押した風を今度は正面から受ける。

泥は昼の日で乾き始めて、靴の底で鳴る音が朝より軽い。


向かいから来た荷馬車が、歩を緩めて泥を立てずに抜けていく。


街の壁が見える頃も日はまだ高いところにあった。


門をくぐってギルドへ戻る。

精算の読み上げは一度で済んだ。


控えが綴りへ挟まれて、今日の依頼はそれで仕舞いになった。


---


外へ出ると通りの光が低くなり始めていた。

軒の影が石畳の半分まで伸びている。


商人通りへ回ると、店先に打ち水の跡が残っていて、荷車が仕舞いの荷を運んでいた。

荷を負っていない肩が妙に軽い。速さの加減が一拍つかめない。

商会の看板より手前の角にナギが立っていた。


手元には折り目の付いた文が一通。角が指の間で少し潰れている。

道中で何度も開かれた跡が折り目の白さに出ていた。


「時間どおりだね」

「うん。段取りは?」

「事前に通してある。あとは行って話すだけだよ」


ナギは紙を持ち直した。

親指が紙の角をなぞる。


「……ボクが話す。キミたちは店の前まででいい」


そう言うと、ナギは帽子のつばに指を掛けて位置を直した。

その目は商会の看板へ向いたままだ。


「わかった」


セナが短く頷いた。


商人通りは夕の光が店の並びに低く差している。

人の影が足元から長い。

店じまいにはまだ間のある刻限だ。


商会の戸は開いていた。

先を行くナギの歩幅がいつもより狭い。


店の前でナギは足を止めた。

戸板の木目が夕の光で浮いて見える。

敷居の内から算盤の音と人の声が出てくる。


「ここでいい」


ナギは言って敷居をまたいだ。

僕とセナは店の前に残る。開いた戸から帳場までが見えた。


帳場には灯りが入っている。


墨の匂いが灯りで温んだ店の空気と一緒に戸口まで届いた。

壁際の棚に荷の見本が並んで、下の段は帳場の影に沈んでいる。

奥で算盤の音がひとしきり続いている。


古参の事務員が出てきて、ナギの差し出した文に目を落とした。

名を読んでから奥へ入っていく。


待つ間、ナギは動かなかった。背筋はいつもの高さのままだ。

帽子のつばの影が、動かないまま土間に落ちている。

帳場の灯りが揺れるたび、土間に立つ影も一緒に揺れた。


僕は戸の枠に手を触れないでいた。

触れれば中へ入る言い訳になる。

線はナギが引いた。店の前までだ。


奥からルカさんが出てきた。

歩くのも止まるのも仕事の速さだった。

帳場の手前で足が揃う。

段を下りてはこない。


「……伺います」


短い声だった。

声より先に、目がナギの手の文へ落ちている。

帳場の綴りに指を挟んだままだ。

それきりルカさんは黙って、待つ姿勢になった。


二人の間に卓はない。

土間の広さと、帳場へ上がる低い段だけが間にある。

段の上と下で、目の高さがひとつ分ずれている。


ナギが口を開く。


「今日は、文の取り次ぎを、受けてもらった件で」


そこまでは出た。

次が出ない。


「……マルセルの、」


声が止まった。

帳場の綴りに挟んだ指が、一度だけ動いた。


文を持つ手に力が入って、紙の角がまた潰れる。

息を整える間が長かった。店の灯りの音が聞こえるほどの間だ。

奥で算盤がまた鳴り始めた。


「……文の、話を。聞いてもらいたい。それと、日取りを」


道々で整えてきたはずの口上はどこにも出てこなかった。

声の高さは保たれたまま、言葉だけが遅れて出てくる。

それでも引き返す言葉は終いまで交ざらなかった。


ルカさんは黙って最後まで待っている。

急かす様子もなく、姿勢も崩れない。

前に一度、この店で同じ待ち方を見た。


姿勢はあの時のままだ。

あの時は、待ったあとに自分から歩き出した。


ルカさんの目が一度だけ動いた。

戸の外の僕とセナの上を通ってナギへ戻る。

言葉も会釈もないまま目だけが戻った。


ナギの声は続いている。

言葉と言葉の間に、息を継ぐ音が混ざる。

帽子のつばの下で耳が赤かった。


やがてルカさんが短く答えた。

事務の声で、言葉までは戸口に届かない。


ナギが頭を下げる。

深い下げ方だった。

腰から折れて、戻るまでに間があった。


ルカさんは奥へ戻っていった。

そのまま暗がりに入って見えなくなる。


店の者が目を伏せて、帳場の灯りを直した。

算盤の音が、途切れたところから続きを打ち始める。


戸口を出てきたナギはまっすぐこっちへ来た。


「……三日後だ。奥の部屋で」


声がすこし掠れていた。


「通せたのは、そこまでだよ。中身はその時に」


文を懐へ仕舞い、その上から上着ごと一度押さえる。

それから、ナギは自分の手のひらを見て下ろした。


長い息をひとつ吐き、ナギは通りの先へ顎を向けた。


「ボクも宿に戻るよ。刻限が決まったらレオを寄越すから」


上げた片手はいつもの高さに戻っていた。

夕方の人通りに帽子のつばが紛れて消える。


僕とセナは、すぐには歩き出さなかった。


商会の戸はまだ開いている。

帳場の灯りが敷居の手前まで細く届いていた。

仕事帰りの人の流れが、立ち止まる僕たちを避けて割れていく。


物入れの上に手を置いた。

中にはノートと炭が入っている。今朝、荷と一緒に詰めた。

三日後の当てもないうちから、手が先に支度を済ませていた。


隣でセナは立っている。

両手は外套の脇に下りたままで、目は敷居のあたりで止まっていた。

帳場の灯りまでは目が上がらない。


(三日後、あの敷居の内で、俺は——)


続きの言葉は並ばなかった。


セナの目が敷居から僕の手元へ下りて、戻った。


店の者が戸口に出てきた。

こっちに小さく会釈をして戸を引く。

戸板が枠に収まる音は低かった。


敷居の手前まで来ていた灯りが、戸と一緒に消える。

石畳の色がひとつ暗くなった。


通りに入り始めた灯りが、戸板に僕たちの影を薄く置いている。

往来する人の肩がひとつずつ、僕たちの脇を過ぎていく。


「行こう」


セナが頷く。僕の隣に並んで、歩き出した。


---


坂を上る頃には通りに夕闇が溜まり始めていた。

店の灯りがひとつずつ入って、石畳の色が足元から沈んでいく。


煮炊きの匂いが坂の上から下りてきた。

家々の戸の内から夕飯の皿の音がする。


足音がふたつ、交互に鳴る。


「そういえば」

「ん?」


セナの足が一拍遅れた。

目は坂の先へ向いたまま、外套の袖口を指で一度つまむ。

少しの間の後、つまんだ指を離してから口を開いた。


「ナギの……クロードの家って」

「ああ、それは——」

「いや、やっぱりいい。リクから聞くことじゃないもんね」


そう言ってセナは一歩前へ出た。


「帰ろ」


前を行く背中に歩幅を合わせる。


坂の石は暗くなるのが早い。

足元の継ぎ目を靴の先で拾いながら上った。


歩きながら物入れの口を一度押さえた。

ノートの角が布越しに当たる。

今日の行は朝のうちに埋まっている。


三日後。奥の部屋。

日と場所は今日の行の下にそのまま書ける。


坂の途中で一度、商人通りの方を振り返った。

もう屋根の影しか見えない。


三日後の行に、何を書くことになるのか。


宿の灯りが坂の上に見えてくる。

足音はふたつのまま夕闇の中を上っていった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。


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