第106話「春の便」
マルセルのいない冬が終わって、ひと月が経った。
雪解けと入れ替わりにナギとレオは自分たちのパーティへ戻った。
大きい依頼のときだけまた一緒に組む。
いまの毎日はセナと二人だ。
朝の広間は冬より戸の開く音が多い。
発ちの早い客が減って、泊まりは荷を持たない顔ぶれに替わった。
帳場の前でセナを待っていると宿の主に呼び止められた。
「ゆうべ、東の宿の使いが置いてった。あんた宛てだ」
折った紙を差し出される。
礼を言って受け取ると、折り目の外からでもナギの字だと分かった。
卓に着いて二人分の膳を頼んでから開いた。
例の手紙の戻りを。夕方、ギルドで。
短い言伝を読み終えて、紙を卓上へ置いた。
このひと月、ナギはこの文の話をしなかった。
こっちも待つと決めていた。用があれば紙が来る。
その紙が今朝来た。
待つ間に季節がひとつ動いた。
通りの雪の山は消えて、軒を打っていた水の音もやんでいる。
三階から下りてくる足音がして、セナが向かいに座った。
髪はもう結い終えていて、外套は椅子の背に掛けてある。
支度の速さは冬と変わらない。
盆の縁が卓を短く鳴らす。湯気の立つ椀が先に置かれた。
薄い色の汁に青菜が二切れ浮いている。
固いパンを汁へ浸すと、縁から柔らかく崩れていく。
セナが椀を取った。
その目が卓の紙を逆さのまま追って、短い字の上で止まった。
「ナギ?」
「うん。夕方、ギルドで」
「ふうん」
セナがパンを汁へ浸した。
「なら、その時でいいよ」
紙を畳んで物入れへ仕舞った。
セナは頷いて、椀の残りを飲み干した。
戸の隙間から入る風はもう冷たくない。
解けた水の匂いが薄れて、土と伸び始めの草の匂いに替わっている。
膳を返して外へ出る。
通りの日陰にはまだ朝の冷えが残っていて、日なたとの境がはっきり分かる。
春はまだ入り口だ。それでも道はもう歩きやすい。
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坂を下りてギルドへ入る。
戸口をくぐると糊とインクの匂いが、外の朝の匂いと入れ替わった。
板の紙が増える季節になった。
道を直す仕事の札の間に、街道沿いの依頼が挟まって増えていく。
朝のうちに見て回らないと、割のいい紙から先に消えていく。
それでも板は端から読む。紙の増え方で街の外の様子まで見えてくる。
板の前には泥のついた長靴が並ぶ。
雪の間よそへ流れていた顔ぶれが、春と一緒に戻ってきた。
クレウスで四度目の春になる。
最初の頃は板の端で背伸びをして読んでいた。
いまは背伸びをしなくても紙が目の高さにある。
板はランクごとに貼る場所が分かれている。
Cランクの紙は真ん中の列だ。朝はそこから読み始める。
Cランクの依頼は条件が多い。
戻る刻限。必要な人数。届け先の名前。
読み飛ばすと現場で足が止まる。選ぶ前に全部に目を通す。
街道沿いの巣払いの紙を抜いた。
縁は幾人もの指でやわらかくなっている。
土手の巣を払って、数を数えて、控えに書いて戻る。
実入りは大きくない。
そのかわりに天気さえ読めば見込みどおりに終わる。
朝から始めて、夕方には締めることができる。
「よう」
人垣の横からレオが顔を出した。
自分のところの紙はもう抜いた後で、丸めて肩に載せている。
「相変わらず全部読むのな」
「読んでから選ぶ方が結局早いんだよ」
「お前はそうだろうな」
レオは笑って、丸めた紙でこっちの肩を軽く叩いて人垣を抜けていった。
東の宿の二人も春で忙しいのだろう。足は戸口へ真っ直ぐだ。
窓口で連名の紙を出す。
名前を横に書く欄には僕とセナの字が並んでいる。
ミラさんから刻限を聞いて、控えを受け取った。
「本日中のお戻りで承ります。お気をつけて」
綴りの背は春の分だけ新しく替わっていた。
めくられる紙の音が窓口の奥で続いている。
東の門を出ると街道は轍の底だけが乾いていた。
依頼の場所は街道を東へしばらく歩いた先の土手だ。
春先にここへ穴を掘る小物の獣がいる。
放っておくと巣が街道の下まで延びて、荷馬の脚が路肩ごと落ちる。
巣立ちの前に払うのが春の決まりごとだと、紙の隅に書いてあった。
泥の浅いところを選んで歩く。
靴の底で泥が短く鳴って、道の脇の草は伸び始めの丈で揃っている。
畑では土を掘り返す背中がいくつも並んで、返したばかりの土の匂いが道まで届く。
土手の穴は水抜きの溝の上に並んでいた。
掘り口の土が新しく、中に居るのは匂いで分かる。
手の中に収まるほどの土色の獣で、前脚の爪だけが土を搔くために広い。
払い方はどこでも同じだ。
獣は風の流れていく側へ抜ける。
その先にセナが輪を伏せ、掛かった分はそこで仕留める。
僕は反対の端から穴を叩いて、中の獣をそちらへ追い出す。
セナが杖の先で風の行く先を指した。
「そっち、抜けるよ」
短く答えて、溝の反対へ回る。
草の上に輪が伏せられていく。手際に迷いは無い。
伏せ終わるより先に目はもう次の置き場所を測っている。
叩く位置は穴の並びの奥からと決めている。
手前から叩くと獣が奥へ逃げて、巣がかえって深くなる。
短剣の柄で土手を叩くと中の気配が浅い方へ一斉に動いた。
飛び出した先で輪が待っている。
掛かる。続けて掛かる。
輪を抜けた一匹は溝の手前で僕の短剣が受けた。
手応えは軽い。刃を布で拭って、次の穴へ向き直る。
持ち帰りの要らない依頼だ。
仕留めた数を申告して、埋めた穴の場所と合わせて精算になる。
数は声に出さずに数えて、控えの端へ棒を引いた。
穴をひとつずつ潰していく。
輪の置き直しは僕が次の穴を数え終わるより早い。
声を掛け合う場面は午前のうちに一度も来なかった。
セナが先に動き、僕はそれへ足を合わせた。
間合いの取り方は冬の坑で身についたままだ。
昼を回る頃には土手が静かになった。
最後の穴に土を蹴り込んで、埋まり方を確かめる。
溝の水は濁りが取れて、底の砂の色まで見えるようになっていた。
土手の上で水を回し飲みして、控えを物入れから引き出した。
指先が畳んだ紙に当たる。朝の言伝はそのままそこにある。
触れたのはそれきりで、指は控えの端をつまんだ。
数えた分を控えの裏に炭で書いた。
巣の場所。埋めた穴。獣の毛色。
書き終える頃には、泥の乾く匂いが日なた全体から立っていた。
セナは土手の下で杖の先を拭いていた。
拭き終えると空を見て、日の高さで刻限を測っている。
僕が言う前に、セナは杖を背へ回した。
帰りの街道は行きより足が軽い。
すれ違う荷馬車の御者が会釈をよこして、荷台の空の樽が鳴っていく。
道の端の小さな花が泥はねの上でもう開いている。
門をくぐる頃には西の空が薄い橙へ変わり始めていた。
---
夕方のギルドで読み上げと精算を済ませると、壁際の卓にナギがいた。
卓の上にあの封筒が置いてある。
濃い色の蝋の封は届いた日のままで、まだ割れていない。
見慣れない印も、窓口の台で見たときのまま残っている。
紙の端の波打ちだけがあの日より深くなっていた。
「来たね。座りなよ」
セナと並んで腰を下ろした。
卓には茶の椀が三つ置かれている。セナが手前の一つを引き寄せた。
ナギは封筒を手に取った。
裏返して向きを直し、蝋の縁に爪を掛ける。
蝋を割ると乾いた音が短く鳴って、欠けた蝋が卓の上へこぼれた。
中には二つ折りの紙が一枚きりあった。
ナギは黙って目を通す。
折り目を一度戻して、もう一度開いて読み直した。
僕は卓の下で足を組み直して待った。
窓から夕の光が低く入って、紙の折り目の影が細く立っている。
広間の遠くで精算の列がゆっくり縮んでいく。
ナギが読み終えると、紙を僕へ差し出した。
「読むかい」
受け取った紙の字は詰まって固い。
挨拶から結びまで型どおりに揃っている。
急いだ字ではないことだけは、崩れの無さで分かった。
読めるのはそこまでで、字の向こうに書いた人の顔は立たない。
ナギの兄からルカさんへ文を送った、とまずある。
ジョゼ商会は場を設けることを受けた。
日取りと段取りはそちらで整えよ。文はそう結ばれていた。
場所の名前も日の候補も、紙にはまだ載っていない。
載せる場所だけが先に空けてある。そう読める書き方だった。
読み終えて紙をナギの手前へ戻した。
ナギは折り目どおりに畳んで封筒へ入れた。
帽子のつばへ指を掛けて浅く上げる。
それからナギはセナの方へ体ごと向いた。
「ボクの兄からだよ」
セナが顔を上げた。
「ボクの家は——クロード家は、ジョゼ商会と古い取引がある。
冬に、その家の名前で兄に文を出した。
キミたちが話せる場を、商会に作ってもらえないかって」
ナギの声はいつもの高さのままだ。
「兄から文を送って、ジョゼ商会は場を設けると言ってきた」
ナギの声はそこだけ軽くなって、言い終えた口の端が上がっている。
その横でセナの椀を持つ手が一拍止まって、また動く。
「……ルカさんと、会う場」
「うん。ボクも一緒に行く」
「……わかった」
セナはそれだけ言って椀を口へ運んだ。
僕はその手を見て、それから卓の上へ目を戻した。
封筒は懐へ仕舞われた。懐の上へ手を置くところまで、受け取った日の仕草をなぞっている。
「場はできる。あとは行くだけだ」
「……日取りは?」
「これから整えるよ。ボクの方で運ぶ。決まったら伝えるよ」
それだけ言うとナギは立ち上がった。
帽子のつばをもう一度浅く直す。
戸口を出て、夕方の通りへ紛れていった。
開いた戸から入る光が卓の木目を斜めに照らしている。
卓の上に欠けた蝋のかけらが小さく残っていた。
指で集めて、掌に載せてみる。乾いた蝋はまだ固い。
精算の列はもう捌けていた。
帰り支度の話し声が広間の奥に残っている。
宿へ戻る坂は炊きの煙の匂いがした。
戸口ごとに夕飯の支度の音がして、通りを歩く足はどれも家の向きだ。
「明日も板からだね」
「うん。朝のうちに見る」
セナは階段の一段目で振り返って、そのまま上がっていった。
---
夜、灯りを借りて部屋の卓に置いた。
明日の朝は十日ごとの便が出る。
月の為替は銀貨5枚。
窓口で頼めば、あとは荷と一緒に西へ行く。
薬は叔母さんがテルナから村へ回してくれている。
こっちから載せるのは為替と手紙で足りる。
月の頭のこの支度はもう手が覚えている。
銀貨を数えて紙に包み、口を折って卓の端へ置いた。
窓口の台で判が下りれば、そこから先は荷の扱いになる。
手紙にする紙を広げた。
窓の外の通りはもう静まって、遠くで犬がひとしきり吠えて止んだ。
書き出しはいつもの行にした。
炭の先が紙をわずかに引っかく。
母さんへ。こちらは変わりありません。
続きは長く考えずに書けた。
雪が消えて、道が乾き始めました。仕事はきちんと続いています。
道の端に春の花が咲きはじめました。
乾けば、こちらは仕事が増えます。体は大丈夫です。
薬は叔母さんが見てくれています。心配しないでください。
次の便でもまた書きます。
冬の頭に書けなかった行がいまは手を止めずに埋まる。
字の照りが引くのを待って、畳み目を揃えて宛名を入れた。
宛名の字は村を出た頃より太くなった。
読む夜のことを思い浮かべかけて、やめた。
書いた分がそのまま届けばいい。
封は明日の朝、便の台で借りる。
西行きの木箱は台の下から出してきて、朝の間ずっと口を開けたまま置かれている。
箱が満ちると蓋が下りて、上から順に荷馬車へ積まれていく。
台の前で荷の紐が締まる音は、もう耳に馴染んでいる。
明日はその音の中にこの一通も混ざる。
ノートを開いて今日の行を埋めた。
巣の場所と数。道の乾き。夕方に読んだ文のこと。
その日の分をその日の行へ入れて、明くる日はその下から始める。
日付は行の頭に置いて、書き終えたら下へ短く線を引く。
書き方は冬から変えていない。
夜が短くなった分だけ炭の減り方が冬より遅い。
今年のページはまだ浅い。
めくれば春の行が始まったばかりでその先は束になって残っている。
紙は新しいほど固く、めくる指に角が当たり、手を離すと戻ろうとする。
去年の行は、めくった厚みの下にある。今夜はそこまで戻らない。
炭を置いてページの端を親指で押さえた。
閉じたページの中ほどに、挟んだままの紙が一枚ある。
指の腹に一枚ぶんの段が当たる。
卓の端に朝の言伝の紙を出してある。
返書はナギの懐へ帰って、手元に残ったのは呼び出しの字だ。
夕方とギルド。用件の短い字が灯りの下で薄く光る。
灯心の火を細くする。
場はできる。ナギの声の軽さごとその言い方を覚えている。
明日の行はまだ空いている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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