第105話「続ける」
雪が来て、積もって、緩んだ。
冬はその繰り返しで過ぎていった。
朝、宿の階段を下りると外の音が変わっていた。
軒から水の落ちる音が数を増やしている。
屋根の雪は痩せて、通りの隅に寄せた山が黒ずんで残っていた。
道の真ん中では荷車の轍が黒く覗き、泥はねの跡が壁の裾まで届いている。
水たまりが朝の光を返して通りの半分がまぶしい。
壁際の日陰に朝の霜が白く残っている。
今朝は明け方から西の門に荷馬車が続いている。
細っていた便が、雪と入れ替わりに数を戻し始めている。
今日は道具の手入れと勘定に当てる日と決めてある。
僕は広間の卓で、冬のあいだの控えの束をめくっていた。
紙の端はどれも炭で黒く、指の腹に細かな粉が移る。
灯りの油の控えが何枚もある。夜の長い冬だった。
ふと、戸の開く音がした。
朝の光と一緒に外の冷たさが土間まで流れ込んでくる。
冷たさの奥に解けた雪の匂いが混ざっていた。
戸口に人が立っていた。
旅装の外套に肩掛けの袋がひとつ。紐が肩に食い込んでいる。
外套の裾には乾いた泥が着いている。
ルナ叔母さんだった。
「よう、久しぶりだね」
「……叔母さん。なんでクレウスに?」
「そりゃあ手紙をもらったからね。送ったのはあんただろ?」
顔を合わせるのはテルナを出た朝から三年ぶりになる。
それなのに声は窓口ごしに聞いていた頃のままだった。
ルナは僕を上から下まで見て、それから短く息を吐いた。
「報せが着いたのはずいぶん経ってからでね。雪解けの最初の荷に乗ってやっと来れたんだよ」
「……はい」
続きの言葉は足されなかった。
言葉を探す間も置かれなかった。
ルナは袋を担ぎ直して顎で広間の奥を指した。
「とりあえずメシだな。話はそれからだ」
朝の膳を二人分頼んだ。
宿の主が盆を運んでくる。湯気が二筋、卓の上で揺れた。
汁と固いパン、それと煮た豆。竈の火が近くて椀の縁まで熱い。
隣の卓では発ちの早い商人が茶を啜っている。
静かだった広間に、荷紐を締める音が戻り始めていた。
戸が開くたびに水音が入り、閉まると竈の火の音に戻る。
叔母さんの食べ方は速い。窓口の昼休みに見たのと同じ速さだ。
僕の椀が進まないのを見ると、顎で椀を指した。
「冷めるよ。食いな」
「はい」
椀を包んだ指の先に汁の熱が移って、飲むと胸の奥まで下りていく。
冬のあいだの飯の味はあまり覚えていない。
今日の汁の味は分かった。豆の甘さも塩の加減も分かった。
ルナは僕より先に汁を飲み干した。
それから固いパンの残りをゆっくり噛んでいる。
「あんた、食う量は戻ったのかい」
「戻りました。冬の前と同じくらいです」
「ならいい」
ルナは豆の器の底に残った二粒を僕の椀へ移した。
「若いのが食いな」
聞きたいことは並んでいた。
村のこと。母さんのこと。テルナの窓口のこと。
並べた順に口を開きかけて、最初のひと言を選び損ねた。
「僕は——」
「順番だよ」
ルナはパンの残りをちぎって口へ入れた。
「今は食う番だ」
僕も続きを飲んだ。豆も残さず食べた。
食べているあいだ、ルナは何も聞かなかった。
椀の底が見えた頃になって、村の様子だけを短く話した。
母さんは変わりない。薬は切らしていない。為替は毎月着いている。
テルナの窓口は若い職員に任せてきたと言った。
仕事もひとつ作ってきたそうだ。
冬のあいだ滞っていた為替の綴りを、こっちのギルドと突き合わせる用。
綴りは紐で括ったまま袋の底に入っていた。
ヴァルドおじさんが雪下ろしで腰を痛めた話だけは笑い話だった。
痛みは三日で引いたが、この冬は屋根に上がるのを止められている。
どれも短い報せだった。
変わりがないから短く済む。
「あんたからの手紙が、冬のぶん丸ごと無いってさ」
「……書きます。次の便に載せます」
「ああ、そうしな」
手紙の話はそれだけで、書く中身には触れなかった。
それからルナは僕の手を取って掌を上に返した。
炭の当たる指の腹と、柄の当たる付け根を親指でなぞる。
確かめ終わるまで手は離されなかった。
「働く手だね。あんたの父親の若い頃よりもずっと硬い」
叔母さんは戻りの便が出るまでこの街にいるそうだ。
「明日は神殿へ行くよ。まだあいつには挨拶をしてないんでね」
膳を重ねて立つ。宿の主に何か言って笑わせていた。
外套の裾の泥は着いたままだ。
落とす間も惜しんで来た泥だった。
---
夕方、明日の紙を決めに四人でギルドへ寄った。
掲示板の前は冬より人が多い。
雪解けで戻ってきたよそのパーティが板の端から順に紙を検めている。
春の紙は種類が増える。荷運びと道直しの札が板の半分を埋めていた。
レオが人垣の後ろから腕を伸ばして柵の先の紙を一枚抜いた。
窓口のミラさんが台帳から顔を上げてナギを見る。
「ナギさん。文が一通、届いています」
台の上に置かれた文には封の印が押してあった。
濃い色の蝋に、見たことのない形の印だ。
冬のうちに出した文の返しだった。
紙の端は道中の湿りで少し波打っている。
「ありがとう」
ナギは文を受け取ると、宛名を一度だけ読んだ。
封の印を指の腹で確かめてから文を懐へ入れた。
「……来たんだね」
僕の声に、ナギは懐の上へ手を置いたまま頷いた。
「うん。読むのは帰ってからにするよ」
それきり文の話は誰もしなかった。
セナは文へちらりと目をやって、それきり掲示の板へ顔を戻した。
レオが抜いた紙を台に載せる。
ミラさんが紙の欄を指でたどって、受け取りの判を置いた。
「リク、灯りの油はまだあるか?」
「あったはずだけど今夜見とく」
レオは頷くと板の前へ戻り、もう次の紙を見ている。
明日もいつもの並びで柵の先に入る。
それだけ決まるとナギたちとは四つ角で別れた。
ナギの足音が角の先で薄くなって消えた。
帰りの坂は日暮れの水音が増えていた。
昼に緩んだ雪が、夜の冷えで締まる前の音だ。
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夜、灯りを卓の端へ寄せた。
十日ごとの便は明後日の朝に出る。
手紙用の紙を一枚、ノートの隣に広げた。
紙は炭の粉が着かないように控えの束から遠ざけて置いた。
部屋の空気はまだ冬の名残で硬い。
それでも窓の外の水音は夜になっても絶えなくなった。
窓の下を夜番の足音がひとつ通り過ぎていく。
足音は角で折れて、あとは水音になった。
先にノートを開き、今日の行を炭で埋めた。
油の残り。刃の布の枚数。明日の紙の中身。
埋め終えてから炭を置いて、ペンに持ち替える。
為替の欄は冬の分まで埋まっている。
銀貨5枚の行が月の数ぶん並んで、手紙の行だけが空いたままだ。
為替は窓口で出すだけで済む。手紙はそうはいかなかった。
書くことを紙の端に三つ並べた。
雪のこと。仕事のこと。叔母さんのこと。
それより先のことは並べなかった。
ペンを浸していつもの書き出しを書く。
母さんへ。こちらは変わりありません。
そこで一度だけ、手が止まった。
書かないことは書き出しの前から決めてある。
決めてあって、それでも止まった。
ペン先のインクが乾いていく。
灯りの影が紙の上で一度揺れた。
紙から目を上げてノートの古いページを繰った。
炭の粉の匂いが薄く立つ。
去年の秋のページの欄の外に、字の薄い行がひとつ残っている。
『少し無理をしていた?』
その下に、冬になってから足した行がある。
『死ぬなよ。』
ページを戻した。
ペンを浸し直して、続きを書いた。
冬が終わりかけています。通りの雪が解けて、昼は水の音がします。
仕事は変わらず続けています。
叔母さんがこっちに来て、一緒にご飯を食べました。
これからはまた毎月書きます。
薬のことは叔母さんに頼んであります。心配はいりません。
セナも元気です。
父さんの小刀は研いで使っています。
書き終えて灯りにかざした。
インクの照りが消えるのを待って読み返す。
秋までの手紙と見分けはつかない。
短い手紙だ。冬のあいだはこの長さが書けなかった。
母さんはこれを村の夜に読む。
読んだ後、変わりないんだね、ときっと言う。
畳んで宛名を書いた。封は便の朝でいい。
返事が届くのはぬかるみの道が固まってからになる。
ノートの手紙の行に日付を入れた。
今月の行が埋まって、冬の行は空いたままだ。
灯りを消すと、水音が残った。
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翌朝、四人で柵の先に入った。
並びはいつもの順だ。レオの灯りが先で、ナギ、僕、しんがりがセナ。
坑口の外は日差しが温く、石組みをくぐると坑の中は冬のままだった。
下り口の岩の継ぎ目から雪解けの水が細く伝っている。
指で触れると、外の日差しを忘れる冷たさだった。
水路の音は冬より太い。溜まりの縁の印をひとつ確かめて先へ進んだ。
柵の先の殻は数を戻していた。
図の順に回る。手前の角はナギの剣ひと振りで済んだ。
次の角でセナの糸が張って、レオの剣が入る。殻が乾いた音で落ちた。
濡れた岩が灯りを受けて鈍く光っていた。
殻を三つ間引いて、数えて、昼過ぎに上がった。
精算の読み上げは一度で終わった。
列を離れる時、セナが隣に並んだ。
肩の間は手のひらひとつ分。
冬の初めから詰まりも開きもしていない。
「明日の分も、取っとくね」
「うん。お願い」
セナは窓口へ戻っていった。
歩き方は昼のままで、こちらを振り向かない。
この春でセナは20歳になる。
宿に戻って道具の油を替えた。
布の替えは残り六枚。油はひと瓶の半分。
書き写すと明日の支度は終わりだった。
窓の下を叔母さんとセナが通っていった。神殿の坂の方だ。
それから短剣を研いだ。父さんの小刀も同じ砥石で研いだ。
砥石の面に水を引くと石の匂いが薄く立った。
刃先の線が揃うまで研いで、布で拭いて鞘へ戻した。
研ぎ終わる頃には階下の話し声が引いて、宿は夜の音になった。
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便の朝は晴れた。
台の前は包みを抱えた商人で混んでいた。
峠開きを待つ荷が冬の分まで押し出されてくる。
前に並んだ商人は包みを三つ抱えていた。
僕の番が来て、封をした手紙を一通、台の上に載せた。
ミラさんが宛先を確かめて判を落とす。
控えを財布の内側に仕舞った。折り方はいつもどおりにした。
僕の後ろで叔母さんが台の前に立った。
ミラさんの背筋がもう一段伸びた。
「ルナさん。ご無沙汰しています」
「よう、六年ぶりだね。いい窓口になったじゃないか」
叔母さんは紐で括った綴りを台に載せ、判の入った控えをひとつ受け取った。
作ってきた仕事は、それで仕舞いだった。
ナギは返書のことを、あれから口にしていない。
叔母さんも今日の便でテルナへ戻る。
見送りは門の内側までにしな、と先に決められていた。
門の内では御者が幌の紐を締め直している。
日なたは肩が温く、日陰の風はまだ雪の名残で冷たい。
荷台の間で叔母さんの息が薄く白かった。
「また来るよ。あんたも一度、顔を見せに帰りな」
「はい。……ありがとうございます、叔母さん」
荷馬車の並びの方へ、ルナは振り向かずに歩いていった。
車輪が泥を噛んで動き出す。荷台の列はゆっくり門をくぐっていった。
僕の手紙も、あの荷台のどれかで西へ行く。
通りに出ると、側溝の水が音を立てて流れていた。
初春の風が解けた雪の匂いを運んでくる。
道の端に最初の露店が出て、青物の籠が並んでいた。
売り子の声が冬の間より一段高い。
(強くなったつもりだった。それで、足りなかった)
ノートには一行だけの紙が挟んである。
読み返さなくても、行はもう手の中にある。
『続けろ。』
止まれない。
露店の呼び声が背中で続いている。
俺はぬかるみ始めた道へ足を置いた。
泥が浅く鳴って、春の柔らかさが靴の底から上がってくる。
坂下の四つ角で三人が待っている。
セナだけが、二人より一歩うしろに立っている。
俺は水の匂いの中を、そこへ歩き出した。
──────
第五章 了
〈第六章〉へ続く
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