第104話「止め方」
夕方、依頼終わりの列に今日も並ぶ。
柵の先の間引きを四人でこなした。
読み上げに直しはない。
窓口は列の一人分で済んだ。
坑の中の並びは崩れていない。灯りは今日もレオが提げていた。
セナは受け持ちの角で足を止めて、殻を二つ落とした。
落とし方に迷いはない。
四つ角の手前でナギとレオと別れる。
二人の足音が角を折れて聞こえなくなった。
文を出した日も、ナギの歩幅は出す前の日と同じだった。
風はまだ冬の底の冷たさで吹いている。
僕とセナは宿までの坂を黙って上がった。
通りはもう店じまいの刻限で、戸を仕舞う音が坂の下から順に上がってくる。
坂の途中の軒灯が一つずつ後ろへ流れていく。
息の白さが軒灯の明かりを横切って消えた。
宿ではセナと二人で晩飯を食べた。
膳の中身はいつもと変わらない。
竈の火が卓の端まで薄く届いている。
外套の袖を抜くと、袖口の冷えが火に当たってゆっくり緩んだ。
椀を持つと熱が指の腹から入ってくる。
坑で冷えた手はいつも指先から順に戻る。
隣の卓では荷揚げ帰りの男たちが遅い飯を食っている。
話し声は低く、笑いは長く続かない。
冬の夜の広間はどこの卓も声が小さい。
食事をとるセナの手に変わったところはない。
椀を置く音も立ち上がる速さも昨日と同じだった。
食べ終わる頃には竈の火が細くなっていた。
変わらないところを僕は端から目で数えていた。
数え終える前にセナは椀を重ねて立った。
「先に上がるね」
足音が階段の上で消えた。
広間には竈の火の音だけが残った。
宿の主は帳場で綴りをつけていて、ペン先の音が時々途切れる。
ノートに油の残りと替えの布の枚数を書き込む。
隣にナギの文のことも一行だけ。
今朝、窓口の箱に入った。あとは便の日を待つ紙だ。
返事の日はまだ決められない。
決められないものは日付の欄を空けたまま、行を先に作っておく。
書く行が尽きても、竈の前を離れる気にならなかった。
灯りを消して部屋へ上がった。
階段の途中で足の裏に一日の冷えが戻ってくる。
部屋の空気は火の気がないぶん廊下より硬かった。
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夜中、瓶を空のままにしていたのを寝る前になって思い出した。
外套を羽織って瓶を提げ、水を汲みに部屋を出る。
階段を下りると広間の火はもう落ちていた。
裏口の横木が外れている。
瓶を卓に置いて戸板に手を当てると、夜の冷たさが木を通して掌に刺さった。
戸の向こうで風を切る音がしている。
外に出ると、冷たさは廊下のものと別物だった。
吸い込むと鼻の奥が痛んで、吐く息が目の前で白く固まっている。
宿の裏は井戸と物置と塀に囲まれた狭い空き地だ。
昼間は薪割りに使われていて、雪が隅へ寄せて積んである。
寄せた雪が薄く明るい。月のない夜でも足元の輪郭が拾える明るさだ。
セナが剣を振っていた。
剣が上がって、下りる。
風切りの音が鳴って、止んで、また鳴る。
音と音の間隔が揃っていた。
上段から真っ直ぐ。次は斜め。戻して突き。
型の順は変わっていない。順の切れ目に半拍の間が入る。
間の長さも揃っていた。
数えるつもりはなかったのに、振りの数が勝手に頭へ入ってくる。
吐いた息の白が散り切る前に次の音が重なる。
振り下ろしの線は毎回同じ高さを通る。
踏み込みの足は隅へ寄せた雪の手前で毎回止まる。
狭い場所の広さに合わせて振り幅まで整えてある。
振りの合間に柄の革が短く擦れて鳴った。
刃は雪明かりを受けて、拭い立ての艶で光っている。
僕が下りてくる前から続いていたはずだ。
最初に立った場所の踏み跡が二段ある石段の際に残っている。
跡の縁はもう硬く凍り始めていた。
汗が湯気になって肩の線から細く立つ。
結い直した髪の後れ毛が、こめかみで動かない。
冬の夜にこれほど振って、まだ線が揃っている。
この剣は、もう長く依頼に使っていない。
マルセルやナギたちと組むようになってから、セナは杖を持ち後衛が立ち位置になっていた。
前に立っていた頃の振りだ。いや、それより冴えている。
獲物の前で冴えるのは分かる。
ここには誰もいない。斬る相手もいない。
それでも振りは一度ごとに研がれていく。
薪割りの台の上にセナの外套が畳んで置いてある。
その上に手袋が重ねてある。角は揃っている。
畳み方は朝に荷を締める時と同じ順だ。振り始める前にこうして畳んだ。
僕は石段から下りなかった。
隠れて見るのは違う。声をかけるのとも違う。
立っていられる場所が、そこのほかに見つからなかった。
セナは気づいている。振り向かないだけだ。
剣の線は一度も揺れなかった。
そして、やめない。
疲れて見えるなら休めと言えた。
乱れているなら明日に障ると言えた。
止まらない振りに向けて言う言葉は、一つも用意していなかった。
声のかけ方を探した。
飯の時に呼ぶ声なら知っている。出発の朝に呼ぶ声も知っている。
いま出せる声はそのどれでもない。探しているうちに次の風切りが来た。
足の裏から石の冷えが上がってくる。
外套の襟を立てても、首筋の後ろは夜気に触れたままだった。
息を吐くたび白が石段の上に散った。
塀の影が僕の足元まで届いている。
影の中の雪は明かりを失って、暗い盛り上がりに沈んでいた。
どれほど立っていただろう。音が止んだ。
セナは振り終えた姿勢のまま、しばらく動かなかった。
肩が上下している。白い息が立て続けに散って夜気に溶けた。
剣が下りて、切っ先が雪明かりを鈍く返す。
セナは左手を添えて剣を鞘へ戻した。
鞘の口が短く鳴った。
戻し終えても右手は動かない。
柄を離れた手が、柄を握った形のまま固まっている。
石段を一つ下りかけた足を戻した。
セナは右手を目の高さに上げた。
上げたまま、待っている。
初めてじゃないのだと、それで分かった。
指が一本ずつゆっくり起きていく。
全部が開くまでに息を二つ吐くほどの時間がかかった。
開いた手を一度握り直して、セナは下ろした。
「……見てたんだ」
「うん」
「そっか」
石段を下りて、台の上の外套を取ろうとした。
渡すときに添える言葉が見つからず、手は台の縁で止まった。
セナはその手を見て、自分で外套を取って肩に掛けた。手袋は台に残したままだ。
セナは空き地の隅へ目をやった。
寄せた雪の山は石段の高さまである。
視線が一巡りして、戻ってきて、僕の顔のすぐ横で止まった。
台の脇に腰の高さの平石が二つ並んでいる。
セナが片方に腰を下ろしたので僕はもう片方に座った。
間には台ひとつ分の距離がある。
石の冷たさは布を通してすぐ届いた。
夜の底まで冷え切っていて、長くは座っていられない。
セナは右手を膝に置いて、開いた指を見ていた。
「振ってる間は考えなくていいんだよね」
声は張っていなかった。
息の続きのような声だった。
「手が勝手に動いて、頭が空になる。それだけのために振ってるんだ」
息の白さはまだ間遠にならない。
吐く数を数えかけて、途中でやめた。
塀の向こうを足音が一つ通って遠ざかった。
夜番の見回りの歩幅だ。
通り過ぎるまでセナは口を閉じていた。
寒くないか、とは聞かずにおいた。
寒さで止まる振りでないことはもう見て知っている。
それから、開いた手のひらを上に向けた。
「まだ握ってるみたいなんだよね。力、抜いてるのに」
上に向けた手のひらは夜気の色で白く、指の先だけが赤い。
「指の中に柄の太さだけ残ってる」
「……うん」
手のひらの上には夜の空気が載っている。
セナはその手をゆっくり閉じた。
握りは浅く、指の節は色を保っている。
それでも開いている時間より、閉じている時間の方が長かった。
僕も自分の手を開いてみた。
硬いのは炭を握る指の腹と、柄で硬くなった付け根だ。
開いた手のひらに夜の冷えが真っ直ぐ入ってくる。
閉じると硬いところが戻り、開くとそれきりだ。
「リク」
「ん」
「もう一度、ガキって呼んでほしかった」
風が塀の上を渡った。
塀の上の雪が粉になって流れて、寄せた雪の面が音もなく明るい。
「もうガキじゃないって。私、自分で言ったのに」
セナは膝の上の手を見たままだった。
僕は口を開いた。
息だけが出て、白く散った。
どの言葉を選んでも、あの祝いの席の音には届かない。
しばらく、どちらも動かなかった。
セナの息の白さが少しずつ間遠になっていく。
「明日もいつもの紙、出るかな」
「出るよ。毎朝出てる」
「そっか」
セナは浅く頷いた。
頷きの深さまで昼の受け答えと変わらない。
紙を取って、坑へ入って、数えて、帰ってくる。
明日はそれで決まっている。
声はいつもの高さに戻りかけていた。
戻り方に崩れたところがない。
僕はセナの横顔を見た。
明日の道順なら読める。
油の減り方も荷の配分も魔物の癖も読める。
数えて、書いて、並べれば、先はたいてい見えてきた。
人がそうでないことはもう知っている。
数の外にあるものは数えても見えなかった。
セナの剣なら読める。
踏み込みが深く入った日は次に斜めが来る。
その剣を振っている手の先だけが読めない。
ノートを頭の中で繰ってみる。
油の行がある。歩数の行がある。癖の行も宿代の行もある。
三年かけて増やしてきた、数えられるものの行だ。
セナの止め方はそのどこにもない。
石の冷たさが腿の裏まで上がってきた頃、セナが立った。
「戻ろ。体、冷やしてもしょうがないし」
「うん」
セナが先に戸をくぐる。
僕は裏口の戸を閉めて横木を落とした。
横木は外の石より冷たかった。
広間には寝静まった家の匂いが残っている。
竈の灰の匂いと、乾いたパンの匂いが低く漂う。
卓の瓶を取って、暗い広間を抜けて階段を並んで上がる。
軋む段の場所を二人とも黙って避けた。
前を行くセナの右手は階段の手すりに触れないまま上がっていった。
二階の廊下でセナが足を止めた。
上へ続く段の口で半分振り向く。
灯りのない廊下で、表情までは見えない。
「おやすみ」
「うん、おやすみ」
段を上がる足音が三階へ消えて、上で戸の閉まる音がした。
閉まる音の小ささまでいつもどおりだった。
自分の部屋の戸を閉める前に上の階へ耳をやった。
それきり音はしない。
眠れているなら、それでいい夜だ。
---
部屋へ戻って灯りを消した。
寝床に入っても石の冷えは膝の裏に残っている。
上掛けの中で膝を抱えると冷えの芯がようやく薄れた。
水を汲み忘れたことに気づいたのは目を閉じてからだ。
空の瓶が暗がりの中で戸口の脇に立っている。
取りに下りる気は起きなかった。
眠りかけて、階下の音で目が開いた。
横木の外れる低い音だった。
続きの音を待つ間に暗がりの中の物が順に浮いてくる。
梁の線。窓の枠。戸口の脇の空の瓶。それから、台に残したままの手袋。
僕は天井を見たまま動かなかった。
起きて下りても、かける言葉はさっきから増えていない。
やがて風を切る音が届き始めた。
壁の板を通して、細く、揃った間で続いている。
間隔は表で聞いたものと同じ長さで刻まれていた。
音は乱れない。
冴えたまま、夜の底で鳴っている。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
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